本文へ移動

大正時代の暮らしと地域差|東京・大阪・阪神間の都市生活を比較

明治後期までに、東京や大阪、京都、神戸、名古屋などでは、鉄道、市電、水道、電話といった近代都市を支える設備が整い始めました。

大正時代になると、変化の中心は「新しい設備があること」から、その設備を使ってどのように暮らすのかへ移っていきます。

電車を使って会社や学校へ通う。少し離れた郊外に家を持つ。休日には百貨店や映画館へ出かける。家族や近所だけではなく、学校の友人や会社の同僚と街で時間を過ごす。

現在の都市生活にもつながる形が、このころからかなり見えるようになってきます。

ただし、東京と大阪でも発展の仕方は違います。東京では巨大化する都市が郊外へ広がり、1923年の関東大震災によって街そのものが大きく作り直されました。

大阪では商業と工業の発展を背景に市街地が膨張し、私鉄によって大阪の外側に住宅地や娯楽施設まで作られていきます。そして1925年には、市域を大きく広げた「大大阪」が誕生しました。

大正時代は、近代都市の設備が整うだけではなく、人の住む場所、働く場所、遊ぶ場所が少しずつ分かれ、電車によって結ばれるようになった時代だったようです。

目次

明治後期から、何が変わったのか

明治後期には、市電、水道、電話、電気などが都市へ入り始めました。

大正時代になると、それを利用する人の生活そのものが変わっていきます。

明治後期 大正時代
市電や鉄道が整えられる 通勤・通学に電車を使う生活が広がる
都市の中に新しい設備が入る 都市そのものが郊外へ広がる
百貨店という新しい店が登場する 買い物や外出そのものが娯楽になる
学校へ通う人が増える 同級生・学友という人間関係がさらに大きくなる
会社や工場が増える 会社員・工場労働者など都市で働く人が増える
都市と農村の差が大きい 都市文化が発達する一方、地域・階層差も残る

大正時代の大きな流れ

大正時代は15年ほどしかありません。しかし、その短い間に第一次世界大戦による好景気、都市人口の増加、関東大震災、ラジオ放送の開始など、大きな変化が続きました。

主な出来事 暮らしを見るポイント
1912年 大正時代始まる、京都で三大事業完成 水道・道路・市電を組み合わせた都市整備が進む
1913年 東京郊外で住宅地開発、神戸・新開地に聚楽館開館 郊外住宅と都市娯楽が広がり始める
1914年 第一次世界大戦始まる、東京駅開業 産業発展と都市人口増加が進む
1918年 米騒動、第一次世界大戦終結 好景気の一方で物価上昇が生活を圧迫
1919年 都市計画法公布、東京で青バス運行開始 巨大化した都市を計画的に整える考えが強まる
1920年 初の国勢調査、阪急神戸線開業 都市人口増加と都市間交通の発達
1921年 名古屋が16町村を編入、大阪で新市庁舎完成 名古屋・大阪でも巨大都市化が進む
1922年 名古屋市電市営化、箕面で住宅改造博覧会 郊外住宅という新しい暮らし方が提案される
1923年 関東大震災 東京・横浜の街と暮らしが大きく失われる
1924年 東京で市営バス開業、宝塚大劇場完成 震災後の交通復旧と郊外娯楽の発達
1925年 大阪市第二次市域拡張、山手線環状運転、ラジオ放送開始 大都市圏と全国共通の情報文化が広がる
1926年 大阪で御堂筋工事開始 次の昭和につながる都市改造が始まる

地域ごとに見ると、大正の暮らしはかなり違う

地域 都市の役割 大正時代の特徴 暮らしを見るポイント
東京 政治・行政・企業・情報の中心 東京駅、私鉄、郊外化、関東大震災、復興 震災前と震災後で都市の姿が大きく変わる
横浜 国際貿易港 市電・港湾発展、関東大震災 開港以来の街並みが震災で大きく失われる
大阪 商業・工業・金融の巨大都市 市電、私鉄、郊外住宅、大大阪 東京とは別の巨大都市圏が形成される
京都 文化・教育・産業都市 市電、水道、道路拡張、都市計画 古い街の中へ近代交通と新しい業務地区が入る
神戸・阪神間 国際港・工業・郊外住宅地 港、市電、阪神・阪急、阪神間モダニズム 大阪と神戸の間に新しい住宅文化が育つ
名古屋 中部の商工業都市 市域拡張、市電市営化、工業化 「大名古屋」と呼ばれる都市へ成長
地方都市 県庁・地域商業中心 鉄道・電灯・電話が広がる 大都市ほどではないが生活圏が広がる
農村 農業・村落社会 学校・新聞・鉄道との接触増加 都市との情報差は縮まるが生活設備の差は大きい

東京――現在の東京につながる巨大都市が作られていく

大正時代の東京を見るときには、現在の「東京都」と同じものだと考えないほうが分かりやすくなります。

このころはまだ東京都ではなく、東京府の中に東京市がありました。現在の渋谷、世田谷、杉並などの多くは東京市の外側にあり、東京市の周囲にある郊外でした。

その郊外へ市街地が広がっていくことが、大正東京の大きな変化の一つです。

行政の東京に、会社と情報がさらに集まる

明治初期の東京は、政府と官庁が集まる政治・行政都市として成長しました。

明治後期から大正に入ると、そこへ企業、銀行、大学、新聞社、出版社などがさらに集まります。

政治の中心であるだけではなく、会社で働き、新聞を読み、新しい商品を買う人が大量に集まる都市へ変わっていきました。

現在の東京が持っている「政治だけでなく、企業や情報まで集まる都市」という性格が、大正時代にはかなりはっきりしてきます。

1914年、東京駅が開業する

1914年には東京駅が開業しました。

それまで東京の主要駅は新橋や上野などに分かれていましたが、皇居に近い丸の内に中央駅が置かれます。

周辺には会社や銀行の建物も増えていきました。丸の内が現在のようなオフィス街へ向かっていく流れも、この時代にさらに強くなります。

東京駅は汽車に乗るための駅というだけではなく、政治の中心と全国の鉄道網、そして新しく成長する会社街を結ぶ場所にもなりました。

東京の人口が増え、住む場所が外へ広がる

第一次世界大戦が始まると、日本の産業は大きく発展します。仕事を求めて東京へ集まる人も増えました。

問題になるのが住宅です。東京市内では家が足りず、家賃や土地の値段も上がります。

そこで東京市の外側に住み、電車を使って市内へ通う人が増えていきました。

現在なら渋谷や世田谷も東京の中心的な市街地の一部に見えます。しかし大正時代には、そうした地域へ街が広がっている途中でした。

私鉄と住宅地が結びつき始める

大正時代には、郊外へ向かう電車と住宅地を組み合わせる考えも強くなります。

1918年には田園都市会社が設立され、洗足や大岡山、後の田園調布につながる地域で住宅地の開発が進められました。

1922年には目黒蒲田電鉄が設立され、翌1923年には目黒から丸子方面へ電車が走り始めます。

街の中心に住んで歩いて仕事へ行く生活だけではなく、郊外に家を持ち、毎朝電車で会社へ向かう生活が少しずつ形になっていきました。

1923年、関東大震災で東京の街が大きく失われる

大正東京を考えるうえで、1923年の関東大震災を外すことはできません。

9月1日に大地震が発生し、建物の倒壊だけではなく、大規模な火災が東京を襲いました。

東京市では16万棟を超える建物が焼失し、多くの人が家を失います。

家がなくなるというのは、住む場所だけを失うことではありません。近所の店、学校、仕事場、知り合いの家など、それまで生活を支えていた街のつながりまで失われることになります。

震災が東京の郊外化をさらに進める

東京の郊外化は震災の前から始まっていました。

しかし関東大震災で東京市中心部が大きな被害を受けると、比較的被害の小さかった郊外へ移る人がさらに増えます。

郊外へ移れば、仕事のある都心まで毎日通う交通が必要になります。私鉄と住宅地の関係は、この震災を境にさらに重要になっていきました。

大正時代の後半は、「東京市の中だけを見る」のではなく、その周囲まで含めて東京の生活圏を考える必要があります。

市電が壊れたことで、バスが急に身近になる

震災では東京市電も大きな被害を受けました。

そこで市民の移動手段を確保するため、1924年に東京市が市営バスを走らせます。最初は震災後の応急的な交通として始まったものでした。

電車は線路がなければ走れませんが、バスは道路が通れれば路線を作ることができます。

災害によって必要になった乗り物が、その後の東京の日常交通へ残っていくことになります。

1925年、山手線が環状運転を始める

1925年には山手線の環状運転が始まります。

現在では山手線が東京の中心を一周していることは当たり前ですが、大正時代の終わりに、ようやく現在につながる形ができました。

市電、国鉄、郊外へ伸びる私鉄、そしてバス。それぞれ性格の違う交通が組み合わされ、東京の生活圏が広くなっていきます。

震災後の東京は、元の街をそのまま建て直したわけではない

関東大震災のあと、東京では帝都復興事業が進められました。

焼けた建物を同じ場所に建て直すだけではなく、道路を広げ、橋を架け、公園を整え、土地の区画そのものを整理する事業が行われます。

現在の東京に残る道路や橋、公園の中にも、この震災復興をきっかけに整えられたものがあります。

大正時代の東京は、単純に成長を続けた都市ではありません。一度大きく壊れ、その後に別の形で作り直され始めた都市でもありました。

横浜――大正の終わりに、開港以来の街が大きく失われる

横浜では明治から続く国際貿易港としての発展が続きました。

1915年には西谷浄水場が完成し、増え続ける人口や工業用水の需要へ対応します。1921年には、それまで民間会社が運営していた市内電車が市営になりました。

港、水道、市電を持つ大都市へ成長していた横浜ですが、1923年の関東大震災で大きな転換を迎えます。

横浜では地震と火災によって市街地の大部分が被害を受けました。死者・行方不明者は2万6千人を超え、開港以来作られてきた街並みも一日で大きく失われます。

東京と同じ関東大震災でも、横浜は国際港として作られてきた街が壊れたという意味を持ちます。

横浜の大正時代は、国際都市として成長する前半と、その街が震災で大きく失われる後半に分けて見ると分かりやすくなります。

大阪――商都から「大大阪」と呼ばれる巨大都市へ

大正時代の大阪は、東京とはかなり違った形で巨大都市へ成長します。

江戸時代からの商業の力に、明治時代から発達した工場や港、鉄道が加わり、大正に入ると商業と工業の両方を持つ都市としてさらに膨張しました。

大阪を単純に「東京に次ぐ第二の都市」と考えると、この時代の姿は少し見えにくくなります。

大正後半の大阪には東京とは別の巨大な経済圏があり、1925年には人口でも市域でも日本一の都市になりました。

第一次世界大戦で、大阪の工業がさらに大きくなる

1914年に第一次世界大戦が始まると、日本の商品を海外へ売る機会が増え、工業生産も急速に拡大します。

大阪には紡績、機械、金属など多くの工場が集まっていました。仕事を求めて人が集まり、市街地も周囲へ広がっていきます。

商人の街という江戸時代からの性格を残しながら、工場で大量の人が働く工業都市という性格がさらに強くなりました。

人口が増えれば、住宅不足、交通混雑、衛生、煙や工場による環境問題も大きくなります。都市が発展したことで、新しい都市問題も同時に生まれていました。

大阪市電が、広がる市街地を結んでいく

明治後期から大阪市内では市電の路線が増えていました。

大正時代にも路線は広がり、中心部だけではなく、周辺へ拡大していく市街地を結んでいきます。

1915年には現在の浪速区方面でも複数の市電路線が開通し、1921年にも新しい路線が加わっています。

大阪市の中を移動する交通として市電があり、その外側から大阪へ人を運ぶ交通として私鉄があります。

この二つが組み合わさることで、大阪の生活圏は市の境界を越えて広がっていきました。

大阪では、私鉄が街の外側まで生活を作り始める

大阪の大正時代を考えるとき、私鉄はかなり重要です。

阪急の前身である箕面有馬電気軌道は、明治末の1910年に宝塚線と箕面線を開業し、同じ年から池田で住宅地の販売を始めていました。

大正に入ると、その考え方がさらに広がります。

電車を走らせるだけではなく、沿線に住宅地を作る。終点には温泉や劇場を作る。休日にも電車へ乗ってもらう。

鉄道会社が、人を運ぶだけではなく、人がどこに住み、休日に何をするのかまで考えるようになっていきました。

宝塚は、大阪から電車で遊びに行く場所になる

1911年には宝塚新温泉が開業し、1914年には宝塚少女歌劇の最初の公演が行われました。

1924年には、約4千人を収容する宝塚大劇場も完成します。

現在なら電車に乗ってテーマパークや大型商業施設へ出かけることは珍しくありません。

大正時代の関西では、私鉄が自分たちの沿線に出かける理由まで作るという、新しい都市生活の形がすでに始まっていました。

1920年、阪急神戸線が大阪と神戸を結ぶ

1920年には阪急神戸線が開業し、大阪の梅田から神戸方面へ電車が走るようになります。

すでに阪神電車も大阪と神戸を結んでいました。そこへ阪急が加わり、大阪と神戸の間では複数の私鉄が人を運ぶようになります。

その途中にある西宮、芦屋、御影などでは住宅地の開発が進みます。

大阪で仕事をしながら、大阪市内ではなく阪神間に家を持つという暮らしも現実的になってきました。

大阪と神戸の「間」が、新しい住宅地になる

ここは東京の郊外化と比べると面白いところです。

東京では、一つの巨大都市である東京の中心から外側へ住宅地が広がっていきます。

関西では、大阪と神戸という二つの大都市の間に、西宮、芦屋、御影などがあります。

私鉄がこの地域を結ぶことで、「都市の外側」というより、大阪と神戸の両方へつながる独特の郊外住宅地が形成されていきました。

後に阪神間モダニズムと呼ばれる文化が育つ背景には、この交通と住宅地の関係があります。

1922年には、新しい家そのものが展示される

1922年には、現在の箕面市桜ヶ丘で住宅改造博覧会が開かれました。

そこでは、洋風の外観だけではなく、新しい間取りや生活の仕方まで含めた住宅が実際に建てられました。

博覧会が終わったあとには、展示されていた住宅が土地付きで販売されています。

大正時代には、電車で郊外へ通うだけではなく、「郊外でどのような家に住むのか」という生活そのものまで新しく考えられるようになっていました。

1925年、「大大阪」が誕生する

大阪の変化が最も分かりやすく表れるのが1925年です。

大阪市は周囲の東成郡と西成郡の町村を編入し、市域を大きく広げました。

市の面積は約182平方キロメートルとなり、人口は約211万人に達します。当時の大阪市は人口と面積で日本一の都市となり、「大大阪」と呼ばれました。

現在では東京の人口が大阪を大きく上回っているため想像しにくいのですが、大正末の大阪は、日本で最も人口の多い市でした。

商業も工業も非常に大きく、大阪を東京の地方版のように考えることはできません。大阪を中心とする独立した巨大都市圏が存在していました。

大きくなりすぎた大阪を、計画的に作り直そうとする

人口が増え、市街地が周囲へ広がると、昔からの道路だけでは都市を支えにくくなります。

1919年には都市計画法が公布され、大阪でも道路や市街地を計画的に整備する動きが強くなりました。

1921年には、御堂筋を含む大阪市内の主要道路が都市計画として決められます。

当時の御堂筋は、現在のような幅の広い大通りではありません。狭い道を、幅44メートルの巨大な幹線道路へ変える計画でした。

1926年、御堂筋の工事が始まる

1923年に大阪市長となった関一は、大阪を大きく作り直す都市計画を進めます。

その中心の一つが御堂筋でした。1926年、大正最後の年に工事が始まります。

しかも関一の構想では、大きな道路を作るだけではなく、その地下に地下鉄を走らせることまで考えられていました。

御堂筋が完成するのは1937年、地下鉄が最初に開業するのは1933年なので、実際に形になるのは昭和に入ってからです。

それでも、その計画そのものは大正時代に始まっています。現在の大阪中心部の形が、大正末から設計され始めたことになります。

京都――明治に作った設備を使って、街そのものを広げる

京都では、明治後期から進めてきた第二琵琶湖疏水、水道、道路拡張、市営電車という三大事業が、1912年前後に完成します。

四条通や烏丸通などの道路が広げられ、そこを市電が走るようになりました。

大正初期の烏丸通には銀行、証券会社、保険会社なども集まり、京都の業務地区として成長していきます。

寺社と町家の街の中に、市電、水道、銀行、近代的な建物が入っていきました。

1918年には周辺16町村の一部が京都市へ編入され、市街地も広がります。1922年には幹線道路を整備する都市計画も始まりました。

京都は古い都市の姿を残したまま、道路と交通を使って近代都市へ作り替えられていきます。

神戸と阪神間――港町と郊外住宅が同時に発展する

神戸では国際貿易港としての発展が続きます。港の整備が進み、1922年には神戸港の第一期築港工事が完成しました。

港には商社や銀行、工場が集まる一方、新開地には映画館や劇場が並び、大阪の道頓堀や東京の浅草とはまた違う大きな娯楽街が作られます。

神戸市内では市電が広がり、1920年には阪急神戸線も開業しました。

神戸そのものが大きくなるだけではなく、住吉、御影、芦屋、西宮など、大阪と神戸の間の住宅地も発展していきます。

大阪の経済力と、神戸の外国文化。その二つが私鉄で結ばれた地域に、洋風住宅、学校、スポーツ、音楽、洋食などを取り入れた独特の生活文化が育っていきました。

名古屋――「大名古屋」と呼ばれる都市になる

名古屋も大正時代に大きく市域を広げました。

1921年には周囲の16町村を編入し、市域の面積は約150平方キロメートルになります。

当時の東京市や大阪市よりも面積が大きく、日本一広い市となったことから「大名古屋」とも呼ばれました。

人口も約60万人まで増え、繊維、陶磁器、機械などの工業を持つ中部の大都市へ成長していきます。

1922年には、それまで民間会社が運営していた市内電車を名古屋市が買収し、市営交通が始まりました。

明治初期には鉄道の到達さえ東京や大阪より遅かった名古屋が、大正になると、市域を大きく広げた商工業都市へ変わっています。

百貨店や映画館へ「出かける」生活が広がる

大正時代の都市では、仕事や学校以外にも街へ出かける理由が増えていきます。

百貨店へ買い物に行く。映画館へ行く。喫茶店やカフェーへ入る。電車に乗って郊外の遊園地や温泉へ出かける。

家と仕事場だけで一日が終わるのではなく、その間に娯楽や買い物の場所が加わっていきました。

ただし、こうした都市文化を楽しめたのは、ある程度のお金と時間を持つ人が中心です。

同じ大阪や東京に住んでいても、会社員や学生と、工場で長時間働く労働者では、同じ街がまったく違って見えていたはずです。

家の中も少しずつ変わるが、まだ全国の普通ではない

大正時代になると、洋風住宅や新しい間取りが少しずつ増えていきます。

1922年の箕面の住宅改造博覧会では、新しい生活に合った住宅そのものが展示されました。

食事をする部屋、家族それぞれの部屋、洋風の家具など、現在の住宅へつながる考えも見えてきます。

しかし、それが大正時代の普通の日本家庭だったわけではありません。

長屋、町家、農家などでは、畳、座って食事をする生活、かまどなど、それまでの生活がまだ広く残っていました。

電車で郊外から会社へ通う人でも、家の中まで現在の住宅に近かったとは限りません。

学校と会社が、人間関係をさらに広げる

明治時代には、家族や親族、近所の人に加えて、学校の友人や職場の同僚という関係が少しずつ増えていました。

大正時代になると、その関係はさらに大きくなります。

学校へ通う期間が長くなれば、同級生や先輩、教師との付き合いも長くなります。会社や銀行で働けば、上司や同僚と一日の多くを過ごします。

家族や地域だけで人間関係が完結するのではなく、学校、会社、趣味、街での付き合いが加わるようになりました。

文学の中で、友人や同僚との付き合いが家族とは別の世界として描かれるようになる背景にも、こうした都市生活の広がりがあります。

女性が街で働く姿も目立つようになる

大正時代には、学校教育を受ける女性が増え、都市では女性が働く姿も以前より目立つようになります。

電話交換手、事務員、店員、教員、看護婦など、家庭の外で働く女性が都市の風景へ入ってきました。

当時は「職業婦人」という言葉も使われるようになります。

ただし、女性の多くが自由に仕事を選び、自立した生活をしていたわけではありません。結婚や家の事情、男女による教育や仕事の違いはまだ強く残っています。

新しい女性像が目立つようになったことと、それが普通の女性の生活だったことは分けて見る必要があります。

1925年、ラジオで同じ情報を聞く時代が始まる

1925年には東京でラジオ放送が始まり、その後、大阪と名古屋でも放送が始まります。

新聞なら、情報を読むために新聞を買う必要があります。ラジオでは、同じ時間に離れた場所にいる人が同じ声を聞くことができます。

これは情報の伝わり方としてかなり大きな変化です。

もちろん大正末にすべての家庭へラジオがあったわけではありません。それでも、東京、大阪、名古屋などの地域で、同じ放送を聞く時代が始まりました。

後の昭和になると、ラジオはさらに普及し、地域を越えて同じニュースや娯楽を共有する力を持つようになります。

都市が豊かになる一方で、生活が苦しい人も多かった

大正時代を、百貨店、カフェー、郊外住宅、映画だけで見ると、明るい都市文化の時代に見えます。

しかし第一次世界大戦の好景気は物価の上昇も引き起こしました。

1918年には米の値段の上昇をきっかけに米騒動が全国へ広がります。

工場労働者の生活環境が良かったわけでもなく、都市では住宅不足や貧困も問題になりました。

百貨店へ遊びに行く中産階級と、毎日の食費に困る家庭が、同じ都市の中に存在していたことになります。

農村は都市に近づくが、生活の差はまだ大きい

農村でも学校教育が広がり、鉄道や新聞を通して都市の情報が以前より入りやすくなりました。

若者が学校や仕事、軍隊などで村の外へ出る機会も増えていきます。

それでも、電車、水道、電話、百貨店、映画館が身近にある大都市と、農村の家庭生活は同じではありません。

大正時代になると、情報では都市と農村が少し近づく一方、都市生活が急速に発達したことで、実際の暮らしの違いが目立つ部分もありました。

1925年で比べると、同じ日本でもかなり違う

大正14年、1925年ごろの日本を、同じ年で横に並べてみます。

地域 1925年前後に見えている生活
東京 震災復興の途中。市電・バス・国鉄・私鉄が走り、郊外住宅地も広がる。山手線が環状運転を開始
横浜 関東大震災で大きく失われた国際港を復興している途中
大阪 人口200万人を超える「大大阪」が誕生。市電と多数の私鉄を持つ巨大商工業都市
京都 市電・水道・広い道路があり、古い町並みと近代都市設備が共存
神戸・阪神間 国際港と工業都市の神戸、その東側には私鉄沿線の郊外住宅地が発達
名古屋 市域を大きく広げた「大名古屋」。市営電車が走る中部の工業都市
地方都市 鉄道・電灯・電話などは広がるが、大都市ほど交通や娯楽施設は多くない
農村 新聞や鉄道で都市とのつながりは増えるが、家庭の設備や移動手段には大きな差が残る

1925年の東京では、関東大震災から街を作り直している途中です。

同じ年の大阪では、市域を広げたばかりの「大大阪」が誕生し、日本最大の市になっています。

京都では明治から整えてきた市電と水道を使った生活があり、阪神間では私鉄沿線の郊外住宅文化が育っています。

名古屋も「大名古屋」と呼ばれるほど市域を広げています。

同じ大正14年でも、「近代都市の暮らし」という言葉だけではまとめられないほど、地域によって都市の形が違っていました。

文学を読むときに気になるところ

大正時代を舞台にした作品では、明治よりも現在に近いものが多く登場します。

電車、会社員、電話、百貨店、映画、カフェー、郊外住宅。言葉だけを見ると、かなり現代に近く感じます。

しかし、その中身は地域によって違います。

東京で郊外に住む人物なら、東京市の外から私鉄で都心へ通っているのかもしれません。

大阪の人物なら、阪急や阪神などの私鉄を使い、大阪市外や阪神間から大阪へ通っている可能性があります。

同じ「郊外生活」でも、東京のように一つの巨大都市から外へ広がる郊外と、大阪と神戸という二つの都市の間に作られた阪神間では、街の成り立ちが違います。

そして1923年より前の東京なのか、震災後の東京なのかでも、街の風景は大きく変わります。

大正という年代だけではなく、何年なのか。東京なのか大阪なのか。都心なのか郊外なのか。人物は会社員なのか商人なのか工場労働者なのか。

そこまで見ていくと、作品の中に出てくる電車や住宅、百貨店、友人関係まで、かなり違って見えてくると思います。

大正から昭和戦前へ

大正時代には、都市を動かす設備が、人の住み方や働き方、遊び方まで変え始めました。

東京では郊外化が進み、震災後には街そのものが作り直されます。

大阪では私鉄と郊外住宅が結びつき、1925年には「大大阪」が誕生しました。京都、神戸、名古屋でも、それぞれ違った形の近代都市が育っています。

次の昭和戦前になると、こうして大正時代に作られた都市生活がさらに成熟します。

東京では地下鉄が走り、大阪ではターミナル駅と百貨店が強く結びつきます。阪神間では洋風住宅やスポーツ、私鉄を使った生活がさらに広がります。

その一方で、昭和恐慌によって農村では深刻な困窮が広がります。

都市では「モダンな生活」が成熟しているのに、同じ日本の農村では生活そのものに困っている。昭和戦前は、その差がさらに強く見える時代へ入っていきます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です