近松門左衛門は、江戸時代前期に活躍した浄瑠璃・歌舞伎の劇作家です。武士の家に生まれ、京都で公家に仕えたのち、宇治加賀掾、竹本義太夫、坂田藤十郎など当時を代表する芸能者と関わりながら作品を書きました。『曽根崎心中』『国性爺合戦』『心中天網島』などを残し、社会や人間関係の中で生きる人々が、義理と感情の間で追いつめられていく姿を描いています。ここでは、近松がどのように劇作家となり、歌舞伎から浄瑠璃へ活動の中心を移していったのかを、生涯と作品を追いながら見ていきます。
近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん、1653年〜1724年)は、江戸時代前期を代表する浄瑠璃・歌舞伎の劇作家です。
本名は杉森信盛(すぎもり のぶもり)とされ、巣林子、平安堂などの別名も伝わっています。
現在では『曽根崎心中』などの作者として知られていますが、最初から浄瑠璃だけを書いていたわけではありません。
若いころには京都で公家に仕え、その後は浄瑠璃の世界に入り、さらに歌舞伎作者としても長く活動しました。その歩みを追うと、近松の作品がどのような場所から生まれてきたのかが少し見えてきます。
目次
近松門左衛門の若年期|武士の家から京都へ
近松は承応2年(1653年)、越前国に武士の子として生まれました。
幼いころには父とともに現在の福井県鯖江市方面へ移ったとする説があり、寛文7年(1667年)ごろには、父が浪人となったことをきっかけに一家で京都へ移ったといわれています。
この京都への移住は、その後の近松にとってかなり大きな出来事だったようです。
京都では、正親町公通、阿野実藤、一条恵観などの公家に仕えたと伝わっています。当時の公家社会では、和歌や俳諧、古典などの教養が日常的に扱われていました。
近松自身の句も『宝蔵』という俳諧集に残っています。
武士の家に生まれた人物が、京都で公家社会の言葉や文化に触れ、その後に庶民向けの芝居を書くようになる。この経歴は、現在から見るとなかなか興味深いところです。
後年の近松は、武士や公家だけではなく、商人、遊女、町人など、さまざまな立場の人物を作品に登場させました。若いころに異なる社会を見ていた経験も、作品を書くうえで何らかの影響を与えたと考えられています。
浄瑠璃作者としての修業|宇治加賀掾との関係
1670年代から1680年代にかけて、近松は浄瑠璃の世界へ近づいていったと考えられています。
このころ関わった人物としてよく名前が挙がるのが、宇治加賀掾(うじかがのじょう)です。
宇治加賀掾は、当時の京都を代表する浄瑠璃太夫の一人でした。太夫とは、人形芝居の物語や登場人物のせりふを、音楽に合わせて語る人のことです。
近松は、公家への奉公を通じた縁から宇治加賀掾のもとを訪ねるようになったという説もあります。
ただ、この時代の浄瑠璃では、現在の演劇のように脚本家の名前が大きく出るとは限りませんでした。
正本と呼ばれる上演用の本にも作者名が記されないことが多く、若いころの近松がどの作品を書いたのかは、はっきりしないものが少なくありません。
後世には大劇作家として知られる近松も、最初から「作者」として名前が残っていたわけではなかったようです。
『世継曽我』から竹本義太夫へ|作者として名が見え始める
近松の初期作品として重要なのが、天和3年(1683年)の『世継曽我』です。
『世継曽我』には近松自身の署名がありません。しかし、のちに竹本義太夫が残した記録などから、近松の作品と考えられています。
物語は、曽我兄弟に仕えた鬼王と団三郎の兄弟を中心に進みます。人々の助けを受けながら主人の仇を討ち、その後、十郎の遺児である佑若が家を継いでいくという内容です。
この作品は宇治加賀掾が語り、その後、竹本義太夫も取り上げました。
そして貞享2年(1685年)、近松は『出世景清』を竹本義太夫のために書きます。
竹本義太夫は、現在の文楽につながる「義太夫節」を築いた人物です。
近松と義太夫の関係が深まると、浄瑠璃は語り手だけではなく、物語そのものにも強い個性を持つようになっていきました。
貞享3年(1686年)ごろになると、正本に「作者 近松門左衛門」と記された例も現れます。
作者名がほとんど表に出なかった時代から考えると、ここは大きな変化です。近松という個人の名前が、作品と結びついて知られるようになってきたことが分かります。
歌舞伎作者として活躍|坂田藤十郎との出会い
元禄時代に入ると、京都や大坂では浄瑠璃と並んで歌舞伎も大きな人気を集めていました。
近松も歌舞伎の脚本を書くようになり、初代坂田藤十郎(さかた とうじゅうろう)との関係を深めていきます。
坂田藤十郎は、上方歌舞伎を代表する人気役者です。
元禄8年(1695年)ごろには、藤十郎が座本を務めていた都万太夫座で、近松が座付作者を務めたとされています。
この時期には『傾城仏の原』『傾城壬生大念仏』などの歌舞伎作品を書きました。
当時の歌舞伎では、現在以上に役者の人気や演技が重視されていました。脚本がそのまま絶対的なものとして扱われていたわけではありません。
その中で坂田藤十郎は、近松の書いた筋やせりふを比較的重視していたといわれています。
ここは近松の経歴を見ていて気になるところです。
後世の近松は「浄瑠璃作家」という印象が強いのですが、実際には歌舞伎の現場で長く作品を書いていました。人が舞台上で話し、動き、感情を見せる歌舞伎での経験は、後の浄瑠璃にも生かされたと考えたほうがよさそうです。
1703年『曽根崎心中』|近松の大きな転機
元禄16年(1703年)、近松は『曽根崎心中』を書きました。
この作品は、実際に大坂で起こった心中事件を題材にしたものです。
それまでの浄瑠璃では、歴史上の人物や伝説を扱う作品が多く作られていました。それに対して『曽根崎心中』では、同じ時代を生きている町人の男女が物語の中心になります。
主人公の徳兵衛とお初は、特別な英雄ではありません。
金銭、人間関係、信用、恋愛など、当時の町人が身近に感じられる問題の中で追いつめられていきます。
近松は実際の事件をそのまま再現したのではなく、登場人物の心の動きや二人の関係を物語として組み直しました。
この作品は竹本座で上演され、大きな評判を呼びます。
上演方法にも珍しいところがありました。
当時の人形浄瑠璃では、太夫や人形遣いが観客から目立たない形で演じるのが普通でしたが、『曽根崎心中』の冒頭では、竹本義太夫と、お初の人形を遣った辰松八郎兵衛が観客の前に姿を見せ、「大坂三十三所観音廻り」を演じたとされています。
作品の内容だけでなく、舞台そのものにも工夫があったようです。
『曽根崎心中』の成功以後、近松の活動はしだいに歌舞伎から浄瑠璃へ移っていきます。
京都から大坂へ|竹本座の作者として活動
宝永2年から3年ごろ、1705年から1706年にかけて、近松は長く暮らした京都を離れ、大坂へ移ったと考えられています。
竹本義太夫が率いる竹本座との関係が深まり、浄瑠璃を書くことが活動の中心になった時期です。
宝永2年(1705年)には、竹本座の新しい体制のもとで『用明天王職人鑑』を書きました。
京都の公家社会から始まり、浄瑠璃、歌舞伎を経験した近松が、50歳を過ぎてから大坂の人形浄瑠璃に活動の中心を置いたことになります。
現在の感覚では、近松は若いころから一貫して浄瑠璃を書いていたようにも見えます。
実際の経歴を見ると、代表作として知られる作品の多くは、かなり長い経験を積んだあとに書かれていることが分かります。
大坂での生活と尼崎との結びつき
大坂へ移った近松は、船問屋の尼崎屋吉右衛門宅にたびたび滞在したと伝わっています。
船問屋には、船頭、商人、旅人など各地からさまざまな人が出入りしていました。
近松は、そうした人々から土地の話や事件を聞き、作品の材料にしたともいわれています。
近松の作品には、町人の商売、金銭関係、奉公、男女関係など、当時の生活に深く結びついた話が数多く登場します。
こうした作品を考えるとき、近松が劇場の中だけで物語を作っていたわけではなく、大坂を行き交う人々の話を聞いていたという伝承は興味深いものです。
近松は尼崎とも深い関係を持っていました。
日昌上人との縁から広済寺の再興に関わり、正徳4年(1714年)の再興では建立本願人の一人として名前が残っています。
享保元年(1716年)に母が亡くなった際には、広済寺で法要を行い、色紙などを納めたとも伝わっています。
広済寺の本堂裏には、かつて「近松部屋」と呼ばれる仕事部屋があり、明治末ごろまで残っていたという話もあります。
円熟期|『冥途の飛脚』から『国性爺合戦』へ
大坂へ移ったあとの近松は、庶民の生活を描く世話物と、歴史や伝説を題材にした時代物の両方を書きました。
代表作を年代順に見ると、次のようになります。
- 1711年(正徳元年)『冥途の飛脚』
- 1715年(正徳5年)『国性爺合戦』
- 1718年(享保3年)『日本振袖始』
- 1720年(享保5年)『心中天網島』
- 1721年(享保6年)『女殺油地獄』
- 1722年(享保7年)『心中宵庚申』
この中でも『国性爺合戦』は大変な人気となり、長期間上演されたことで知られています。
興味深いのは、近松が『曽根崎心中』のような町人の身近な悲劇だけを書いていたわけではないことです。
『国性爺合戦』のような大きな歴史物もあれば、『女殺油地獄』のように町人社会の中で起こる事件を描いた作品もあります。
題材はかなり違いますが、登場人物が立場や人間関係に縛られ、その中で選択を迫られていくところには共通する部分があります。
近松作品でいわれる「義理と人情」とは何か
近松を説明するとき、「義理と人情」という言葉がよく使われます。
ただし、ここでいう義理を、現在の「約束を守る」「恩返しをする」といった意味だけで考えると、少し分かりにくくなります。
近松の登場人物は、家族、商売、主人と奉公人、夫婦、恋人、世間からの信用など、いくつもの人間関係の中で生きています。
一つだけなら何とかできる問題でも、複数の関係が重なると、どちらを選んでも誰かを裏切るような状態になることがあります。
一方の人情は、恋しい、助けたい、逃げたい、生きたいといった人間の感情です。
『曽根崎心中』や『心中天網島』を見ると、登場人物が最初から死を望んでいるわけではありません。
金銭や家族、商売上の立場、周囲からの信用などが少しずつ重なり、逃げ道が狭くなっていきます。
近松作品を読むときは、「義理と人情」という言葉だけを覚えるより、なぜこの人物には別の選択が難しくなったのかを追ったほうが分かりやすいように思います。
最晩年|後継者を育てながら迎えた最期
晩年の近松は、自分の作品を書くことだけでなく、後輩の作者を育てる仕事にも関わるようになります。
最晩年の約2年間には、出雲や松田和吉らが書いた作品を添削し、上演につなげたとされています。
その後、彼らは近松の添削を受けなくても作品を書くようになりました。
近松個人が作品を残すだけではなく、竹本座で次の作者が育っていたことが分かります。
享保9年(1724年)正月には『関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)』が上演され、これが近松の絶筆となりました。
同年11月22日、近松は72歳で亡くなります。
墓は尼崎の広済寺にあり、大坂の谷町にあった法妙寺の跡にも近松の墓が残されています。
武士の家に生まれ、公家に仕え、浄瑠璃と歌舞伎の両方に関わった近松は、50歳を過ぎてからも『曽根崎心中』『国性爺合戦』『心中天網島』などの作品を書き続けました。
近松の生涯を追ってみると、一人の天才が突然名作を書いたというより、京都の文化、役者との仕事、義太夫との共同作業、大坂の町人社会など、長い経験が後年の作品へ積み重なっていったように見えます。
近松門左衛門のざっくり年表
本文で見てきた流れを、年代順に確認すると次のようになります。
| 西暦(和暦) | 年齢 | できごと・作品 |
|---|---|---|
| 1653年(承応2年) | 1歳 | 越前国の武家、杉森家に生まれる。 |
| 1655年(明暦元年) | 3歳 | 父とともに現在の福井県鯖江市方面へ移ったとする説がある。 |
| 1667年(寛文7年)ごろ | 15歳ごろ | 父が浪人となり、一家で京都へ移ったとされる。のちに公家に仕える。 |
| 1670年代〜1680年代 | ― | 宇治加賀掾の周辺に出入りし、浄瑠璃作者として修業したと考えられている。 |
| 1683年(天和3年) | 31歳 | 『世継曽我』が上演される。近松の初期作品と考えられている。 |
| 1685年(貞享2年) | 33歳 | 『出世景清』を竹本義太夫のために書く。 |
| 1686年(貞享3年)ごろ | 34歳 | 正本に「作者 近松門左衛門」と記された例が現れる。 |
| 1695年(元禄8年)ごろ | 43歳 | 坂田藤十郎が座本を務める都万太夫座で、座付作者として活動したとされる。 |
| 1703年(元禄16年) | 51歳 | 『曽根崎心中』が竹本座で上演され、大きな評判となる。 |
| 1705年〜1706年ごろ | 53〜54歳 | 京都から大坂へ移り、浄瑠璃作者としての活動を本格化させる。 |
| 1711年(正徳元年) | 59歳 | 『冥途の飛脚』上演。 |
| 1714年(正徳4年) | 62歳 | 竹本義太夫が亡くなる。尼崎の広済寺再興にも関わる。 |
| 1715年(正徳5年) | 63歳 | 『国性爺合戦』上演。長期間続く大当たりとなる。 |
| 1716年(享保元年) | 64歳 | 母が亡くなり、広済寺で法要を行ったと伝わる。 |
| 1718年(享保3年) | 66歳 | 『日本振袖始』上演。 |
| 1720年(享保5年) | 68歳 | 『心中天網島』上演。 |
| 1721年(享保6年) | 69歳 | 『女殺油地獄』上演。 |
| 1722年(享保7年) | 70歳 | 『心中宵庚申』上演。近松最後の世話物とされる。 |
| 1724年(享保9年) | 72歳 | 正月に『関八州繋馬』が上演される。11月22日に死去。 |
近松門左衛門から浄瑠璃の歴史へ
近松一人の生涯を追うと、浄瑠璃が語りを中心とした芸能から、物語そのものを読むことのできる劇文学へ発展していく流れも見えてきます。
ただ、近松が一人で浄瑠璃を作り上げたわけではありません。
宇治加賀掾、竹本義太夫、竹田出雲、さらに人形遣いや三味線方など、多くの人々が関わりながら現在の文楽につながる形が作られていきました。
浄瑠璃そのものの成り立ちや、近松以前・以後の流れを見ると、近松がどの位置にいた人物なのかがさらに分かりやすくなります。
リンク
浄瑠璃そのものを知りたい方は
⇒ 浄瑠璃とは?名前の由来から近松門左衛門、文楽への流れまで解説
近松が活躍した時代を含め、浄瑠璃の歴史を詳しく知りたい方は
⇒ 古浄瑠璃から義太夫節、文楽へ|劇文学として読む浄瑠璃の歴史を詳しく

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