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明治後期の暮らしと地域差|電車・水道・電話で変わる都市生活

明治初期には、汽車や洋館、ガス灯のように、それまでの日本になかったものが次々と現れた。ただ、それはまだ街のあちこちに点のように置かれているだけで、普通の人の毎日とはだいぶ距離があった。

明治後期になると、その点が線でつながり始める。汽車で駅に着いたら市内の電車に乗り換えて会社へ行く。井戸のかわりに、鉄管で送られてきた水を使う。商売の相手とは電話で話す。今の私たちが当たり前に思っている都市の暮らしの形が、このころに少しずつ作られていく。

面白いのは、この変化が東京から全国へ同じ順番で広がったわけではないことだ。京都では東京より8年も早く電車が走り、横浜では東京より10年以上早く水道ができている。名古屋には電車も電話もあるのに、水道は大正まで来ない。

そしてこの時代には、日清戦争と日露戦争という二つの大きな戦争があり、学校に通うことが当たり前になり、工場で働く人が一気に増えていく。夏目漱石や森鷗外、樋口一葉といった、今も読まれる作家たちが書いていたのもこの時代だ。

この記事では、明治後期を舞台にした小説を読むときに「この人物は何に乗り、どこで働き、家に帰って何をしていたのか」を想像できるように、当時の暮らしと地域の違いを整理していく。

【この記事で扱う時代】1889年(明治22年)〜1912年(明治45年)ごろ
【見ていく地域】東京・横浜・大阪・京都・神戸・名古屋・地方都市・農村
【この記事の目的】明治後期の小説を読むときのサブテキスト
【前の時代】明治初期の暮らし(1868〜1889年ごろ)

目次

明治初期から何が変わったのか

明治初期は、新しいものが「ある」こと自体が事件だった。明治後期は、新しいものが「つながって」暮らしを支え始める時代だ。

明治初期 明治後期
鉄道が登場する 東海道線が全通し、市内には電車が走る
電灯は珍しい見世物 都市で電気が交通や工場に使われ始める
学校制度ができても通わない子が多い ほとんどの子どもが小学校へ通う
電話はまだない 大都市の会社や商店に電話が入る
政府が上から制度を作る 憲法と議会ができ、国民が選挙で代表を選ぶ(ただし一部の男性だけ)
近代工場はまだ数えるほど 紡績工場が増え、工場で働く人の暮らしが生まれる
外国と戦争はしていない 日清戦争・日露戦争を経験する

明治後期の大きな流れ

年表にすると、街の設備が整っていく流れと、国の大きな出来事が同時に進んでいたことがよくわかる。

年 主な出来事 暮らしを見るポイント
1889年(明治22年) 大日本帝国憲法発布、東海道線全通 国の形が決まり、東京と関西が一本の鉄道でつながる
1890年(明治23年) 第1回衆議院議員選挙、教育勅語、東京・横浜で電話交換開始、琵琶湖疏水完成 政治・教育・通信が新しい段階へ
1891年(明治24年) 京都・蹴上で水力発電開始 電気を交通や産業に使う下地ができる
1893年(明治26年) 大阪・神戸で電話交換開始 電話が関西の大都市へ広がる
1894〜95年(明治27〜28年) 日清戦争 初めての本格的な対外戦争。賠償金が工業化を後押しする
1895年(明治28年) 京都で日本初の営業用電車、大阪で近代水道の給水開始 電車と水道が都市の暮らしに入る
1898年(明治31年) 東京で近代水道の給水開始、名古屋で電車開業 大都市ごとに設備が整っていく
1899年(明治32年) 高等女学校令、東京〜大阪の長距離電話開始 女子の中等教育が制度になる
1900年(明治33年) 小学校の授業料無償化、東京に自働電話(公衆電話)、神戸で水道給水開始 学校へ通うことが当たり前になっていく
1901年(明治34年) 官営八幡製鉄所が操業開始 重工業の時代が始まる
1903年(明治36年) 東京で電車開業、大阪で市電開業、大阪で第5回内国勧業博覧会 東京と大阪の街を電車が走り始める
1904〜05年(明治37〜38年) 日露戦争、日比谷焼打事件 多くの戦死者と増税。講和への不満が街で爆発する
1904年(明治37年) 三越が「デパートメントストア宣言」 買い物が楽しみの場になり始める
1905年(明治38年) 阪神電車が大阪〜神戸間で開業 都市と都市を電車で結ぶ暮らしが生まれる
1906年(明治39年) 鉄道国有法 主要な私鉄が国の鉄道になる
1907年(明治40年) 義務教育が6年に延長、名古屋港開港 教育の年数が延び、名古屋が港を持つ
1910年(明治43年) 箕面有馬電気軌道(今の阪急)開業と沿線の住宅分譲 鉄道会社が住宅地を作り始める
1911年(明治44年) 東京市が電車を市営化、工場法公布 電車が公共交通になり、工場で働く人を守る法律ができる
1912年(明治45年) 京都で市営電車・水道が始まる、明治天皇崩御、乃木希典の殉死 ひとつの時代が終わったという感覚が広がる

二つの戦争がある時代

明治後期の小説を読むとき、街の設備と同じくらい気にしておきたいのが戦争だ。明治後期の20年あまりの間に、日本は二度も大きな戦争をしている。

1894年から95年の日清戦争は、日本にとって初めての本格的な外国との戦争だった。勝利に国中が沸き、清から得た賠償金は八幡製鉄所などの工業化にも使われていく。

10年後の1904年から05年の日露戦争は、規模がけた違いだった。動員された兵士は100万人を超え、戦死者・戦病死者は8万人以上にのぼる。戦費をまかなうために増税が重なり、村からも町からも多くの男たちが出征していった。

それだけの犠牲を払ったのに、講和条約では賠償金が取れなかった。その不満が爆発したのが1905年9月の日比谷焼打事件で、東京では交番や新聞社が焼き討ちにあい、戒厳令まで出ている。

この時代の小説に出てくる人物の家族や知り合いには、出征した人や戦死した人がいてもおかしくない。作中で戦争が直接描かれていなくても、物語の背景にはこの二つの戦争の記憶がある。そう思って読むと、登場人物のちょっとした言葉の重さが違って見えてくることがある。

学校へ通うことが当たり前になる

明治初期には、学校ができても3割ほどの子どもしか通っていなかった。それが明治後期になると大きく変わる。

1900年に小学校の授業料が原則無償になると、就学率は一気に上がり、1900年代の初めには9割を超える。1907年には義務教育を4年から6年に延ばすことが決まり、翌年から実施される。明治の終わりには、ほとんどの子どもが小学校を出ているという時代になったのだ。

ただ、小学校の先へ進める子どもはまだ限られている。中学校、高等学校、帝国大学へと進むのは、お金に余裕のある家か、勉強で身を立てようと地方から出てきたほんの一部の若者だ。

書生と下宿――東京へ出てくる若者たち

明治後期の小説には、地方から東京へ出てきて下宿をしながら学校へ通う若者がよく出てくる。夏目漱石の『三四郎』も、熊本から汽車で東京へ出てくる青年の話だ。

東海道線が全通したのは1889年。それまでは東京へ出てくるだけでもひと苦労だったのが、汽車に乗れば何日かで東京に着けるようになった。学問で身を立てる「立身出世」を夢見て、多くの若者が東京を目指していく。

お金のない学生は、知り合いの家に住み込んで家の用事を手伝いながら学校へ通う書生になることもあった。小説で書生という言葉が出てきたら、その家と若者がどういう関係なのかを少し気にしてみると、人間関係が見えやすくなる。

女学生が街に現れる

1899年に高等女学校令が出て、女子が中等教育を受ける道が制度として整う。とはいえ、女学校へ通えるのは都市のある程度裕福な家の娘たちだ。

海老茶色の袴をはいて髪にリボンを結んだ女学生は、新しい時代の象徴として注目を集め、からかいの的にもなった。1903年には、自転車に乗る女学生を描いた小杉天外の『魔風恋風』が新聞に連載されて評判になっている。

女学校で目指されたのは「良妻賢母」。働く女性になるためではなく、よい妻、よい母になるための教育だった。それでも、家の外に同級生という関係ができたこと自体が、女性にとって大きな変化だったのではないだろうか。

工場で働く人たちが生まれる

明治後期は、日本で産業革命が進んだ時代でもある。まず大きくなったのは糸を作る紡績と製糸で、大阪には大きな紡績工場が次々と建ち、「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになる。1901年には八幡製鉄所が動き出し、鉄の時代も始まった。

紡績や製糸の工場で働いたのは、多くが農村から出てきた若い女性たちだ。寄宿舎に住み込み、長い時間働く。家の借金を返すために娘が工場へ出る、ということも珍しくなかった。

あまりの働かせ方が問題になり、1911年には工場で働く人を守る工場法が作られる。ただし実際に施行されるのは大正に入った1916年で、明治のうちは守ってくれる法律がない状態だった。

明治後期の近代化というと電車や百貨店に目が向きがちだが、その裏には工場で働く人たちの暮らしもあった。

東京――行政の街から巨大都市へ

明治初期の東京は、政府や官庁、軍が集まる行政の街だった。明治後期になると、そこへ大学、新聞、出版、銀行、会社が集まってくる。全国から人と情報と物が集まり、今の東京につながる巨大都市の形ができていく。

街の中を電車が走るようになる

東京では1882年から、新橋と日本橋の間を馬が引く馬車鉄道が走っていた。それが1903年、品川〜新橋の間で電車が走り始める。路線は次々と広がり、1911年には東京市が会社から路線を買い取って市電にした。

明治初期は「東京から横浜まで汽車で行ける」ことが大きな変化だった。明治の終わりには「東京の街の中を電車で移動する」ことが日常になっていく。鉄道が、遠くへ行くための乗り物から、毎日の通勤や買い物の足に変わり始めたのだ。

とはいえ、電車が走る大通りから一歩入れば、移動の中心はまだ徒歩と人力車だ。小説の中で人物が人力車に乗っていても、それは明治後期の東京ではごく普通の光景である。

水道がなければ巨大都市にはなれない

東京では江戸時代から玉川上水や神田上水が使われていた。しかし人口が増え、コレラなどの伝染病も繰り返し流行すると、それまでの仕組みでは追いつかない。そこで1898年、淀橋浄水場でろ過した水を鉄管で送る近代水道の給水が始まる。

電車に比べると水道は目立たない。それでも、人が増え続ける都市には欠かせないものだ。東京が巨大都市になっていく裏側では、きれいな水を大量に送る仕組みも同時に整えられていた。

ただし、水道ができたからといって、どの家の台所にも蛇口があったわけではない。多くの人が使っていたのは、路地や長屋の一角に置かれた共用栓で、近所の人と同じ蛇口から水を汲んで家まで運ぶ。家の中に専用の蛇口がある家は、まだ限られていた。井戸端のかわりに共用栓のまわりで近所の人が顔を合わせる、そんな風景がこのころの東京にはあったのだろう。

電話があっても、家に電話があるとは限らない

1890年、東京と横浜で日本最初の電話交換が始まる。始まったときの加入者は、東京で155、横浜で42。電話は存在していても、普通の家にあるものではまったくなかった。

1893年には大阪と神戸、1899年には東京と大阪の間の長距離電話も始まる。1900年には新橋駅と上野駅に、今の公衆電話にあたる「自働電話」も置かれた。

このころの電話は、官庁や会社、大きな商店、そしてお金持ちの家のものだ。普通の人が急ぎで連絡を取りたいときは、まだ手紙か電報を使う。

小説で電話が出てきたら、それが自宅の電話なのか、会社や店の電話なのかを見ておきたい。自宅に電話がある人物なら、それだけでかなり裕福な家だということになる。

横浜――東京より10年以上早く水道ができた港町

横浜は貿易港として人口が急に増えた街だが、埋め立て地が多く、井戸を掘っても塩気のある水しか出ない場所があった。そこで1887年、日本で最初の近代水道が横浜で給水を始める。

1859年の開港から数えて28年ほど。そのわずかな間に、横浜は近代水道が必要になるほどの貿易都市に育っていた。東京で同じような水道ができるのは1898年だから、10年以上も早い。首都だから何でも東京が一番、というわけではなかったのだ。

京都――都でなくなった街が、電車では日本一番乗り

明治初期の京都は、天皇と政府が東京へ移り、都としての役割を失った。そこから教育と産業で街を立て直そうとしてきた成果が、はっきり見えてくるのが明治後期だ。

1890年に琵琶湖の水を京都へ引く琵琶湖疏水が完成し、翌1891年には蹴上で水力発電が始まる。そして1895年、その電気を使って京都電気鉄道が日本で初めての営業用の電車を走らせた。同じ年には平安遷都1100年を記念して第4回内国勧業博覧会が開かれ、平安神宮が建てられている。

東京で電車が走るのは1903年。京都はそれより8年も早い。古い都だから近代化も遅かったのではないかという思い込みとは、かなり違う。

とはいえ、京都は寺社や西陣織を捨てて西洋の街になったわけではない。古くから続く街並みの中に、水力発電や電車、大学、博覧会を足していった。1912年には第二疏水、上水道、市営電車という三つの大事業がそろって形になる。古い京都が新しい京都に入れ替わったのではなく、古いものの上に新しいものが重なっていった街だ。

大阪――商都に工場と港と電車が加わる

江戸時代からの商都・大阪は、明治後期になると紡績工場が立ち並ぶ工業都市の顔も持つようになる。その商工業を支えるために、街の設備が次々と整えられていく。

1895年には近代水道の給水が始まる。明治初期には川底が浅くて大型船が入れず、神戸に貿易港の座を譲った大阪だったが、1897年には大規模な築港工事が始まった。

1903年には、日本初の公営の電車として大阪市電が開業する。面白いのは、その最初の路線が梅田や難波ではなく、花園橋から大阪港の築港桟橋へ向かう路線だったことだ。人が多く住む中心街を便利にするためではなく、新しく作った港へ人と物を運び、港のまわりを発展させるための電車だった。

同じ1903年には、天王寺で第5回内国勧業博覧会が開かれ、400万人以上が訪れている。今の新世界や天王寺公園は、この博覧会の跡地だ。東京が政府を中心に大きくなったのに対して、大阪は商売と工場と港のために大きくなっていった。

神戸と阪神間――鉄道が街を結ぶだけでなく、街を作り始める

明治初期の神戸は、外国人居留地と貿易の港町だった。明治後期になると、川崎造船所が大きく育ち、神戸製鋼所も生まれて、造船と鉄鋼の工業都市としての顔も持つようになる。1900年には上水道の給水も始まった。

1905年には阪神電気鉄道が大阪と神戸の間で開業する。東京の電車がひとつの大きな街の中を動くための乗り物だったのに対して、阪神電車は二つの大都市を結ぶ電車だ。しかも汽車よりもこまめに駅があり、本数も多い。途中の西宮や芦屋といった土地が、少しずつ大阪や神戸へ通える場所になっていく。

この流れをさらに進めたのが、1910年に開業した箕面有馬電気軌道、今の阪急だ。まだ田畑の広がる沿線に電車を通し、鉄道会社自ら池田に住宅地を作って、月賦で売り出した。煙の多い大阪の街中を離れて、郊外の家から電車で通う。そんな暮らしを鉄道会社が売り出したのだ。

明治初期の鉄道は、すでにある大きな街どうしを結ぶものだった。明治の終わりには、鉄道が新しい街を作るきっかけになり始める。大正から昭和にかけて花開く阪神間の郊外の暮らしは、ここから始まっている。

名古屋――電車と電話はあるのに、水道はまだない

明治初期の名古屋は、鉄道が来るのが遅い街だった。名古屋駅の開業は1886年。ところが明治後期になると、街は一気に変わっていく。

1898年には笹島から県庁前まで電車が走り始め、京都に次いで日本で二番目に電車が走る街になる。電話も使われるようになり、1907年には名古屋港が開港し、都市ガスの供給も始まった。城下町の色が濃かった名古屋が、鉄道、電車、港を持つ中部の商工業都市へと変わっていく。

ここまで聞くと、必要なものはだいたいそろっていたように思える。ところが、名古屋で近代水道の給水が始まるのは1914年、もう大正時代だ。明治の名古屋には、電車も電話もあるのに水道はなかった。

横浜は水の問題から水道を急ぎ、京都は疏水の水を電気と電車に変え、大阪は港と市電を整え、名古屋は電車と港を先に作った。近代化には決まった順番があったわけではなく、それぞれの街が困っていたことから先に手をつけていったのだ。

百貨店へ出かけるという新しい買い物

1904年、呉服店だった三越が「デパートメントストア宣言」を出し、アメリカの百貨店のような店を目指すと打ち出す。

それまでは呉服は呉服屋、魚は魚屋と、品物ごとに店を回るのが当たり前だった。しかも呉服屋では、客が座敷に上がり、店の人が奥から反物を出してくる座売りが普通だ。百貨店では、たくさんの品物が一つの建物に並べられ、客は自分で見て回ることができる。

必要なものを買いに行くのではなく、品物を眺めること自体を楽しむ。きれいな格好をして出かけ、食事をして帰る。大正から昭和にかけて広がる「休日に百貨店へ出かける」という楽しみは、ここから始まっている。

電車で会社へ行っても、家ではランプの下で畳に座る

電車が走り、水道や電話が整っていく街だけを見ていると、今の暮らしにかなり近づいたように感じてしまう。

しかし家の中に入ると、木造の家に畳、和服、ちゃぶ台やお膳での食事、かまどでの煮炊きと、それまでの暮らしがまだほとんどを占めている。明かりも、電灯が引かれている家は都市でもまだ一部で、多くの家は石油ランプだ。夜になればランプのほやを磨き、その明かりの下で本を読む。

男性も、官吏や会社員、学生は外では洋服や学生服を着るが、家に帰れば和服に着替える。女性の洋装はまだごく限られていた。

1905年の東京なら、電車に乗って官庁や会社へ通う人もいる。その人が家に帰ると、和服に着替えてランプの下で畳に座り、お膳で夕食をとっている。街の見た目は急に変わっても、家の中は同じ速さでは変わらなかった。

家族と近所の上に、学校と職場の付き合いが重なる

明治初期の人間関係は、家族、親族、村、近所、奉公先と、江戸時代から続くつながりが中心だった。

明治後期になると、学校へ通う人が増え、同級生、先生、同窓会という関係が大きくなる。官庁や銀行、鉄道会社、工場で働く人が増えれば、上司と同僚という関係もできてくる。

ただし、家の力はまだとても強い。1898年に施行された明治民法では、家長である戸主が家族の結婚や住む場所に口を出す権利を持っていた。結婚は家と家が決めるもので、本人の気持ちより家の都合が優先されることも多い。

学校で新しい考え方に触れた若者と、家を守ろうとする親や戸主。この時代の小説に、恋愛や結婚をめぐって家とぶつかる若者がよく出てくるのは、こうした背景があるからなのかもしれない。

同じ東京でも、暮らしている世界は違う

東京や大阪に住んでいるからといって、どの家にも電話や洋家具があったわけではない。官僚、実業家、医師、大商人は、電話や洋食、洋風の家具といった新しい暮らしに早く触れることができた。

一方で、職人や工場で働く人、日雇いの労働者の住まいや食事は、同じ速さでは変わらない。大都市には、狭い長屋に多くの人が暮らす貧しい地域も広がっていた。樋口一葉が描いた吉原近くの下町の暮らしも、同じ東京の明治後期の姿だ。

電車が走る街に住んでいるから、その人の暮らしまで近代的だったとは限らない。同じ東京の同じ年でも、仕事と収入によって見えている世界はまるで違っていた。

地方都市と農村――駅があるかどうかで世界が変わる

明治後期には地方にも鉄道網が広がり、県庁所在地や城下町を中心に、電灯や電話も入り始める。駅ができると、人だけではなく新聞や郵便、商品も速く届くようになり、駅前には商店や旅館が集まってくる。

夏目漱石の『坊っちゃん』では、東京から四国の中学校へ赴任した主人公が、小さな汽車に乗っている。地方都市にも汽車はある。ただし、それは東京の汽車と比べるとおもちゃのように小さな汽車で、東京から来た人物の目にはそれが田舎らしさとして映る。そういう距離感が、この時代の地方都市にはあった。

駅から離れた村になると、移動は相変わらず歩きが中心だ。農村でも子どもは学校へ通い、男性は徴兵で村の外を見てくる。新聞を通して東京の話も入ってくる。都市とのつながりは明治初期よりずっと強くなった。

しかし水道も電車も電話も百貨店も、農村の家にはやってこない。つながりが強くなったぶん、都市と農村の暮らしの差がかえってはっきり見えるようになった。娘を工場へ出し、息子を都会へ送り出す農村の姿も、この時代の一面である。

1905年で横に並べてみると

日露戦争が終わった1905年(明治38年)ごろの日本を、同じ年で横に並べてみる。

地域 都市の役割 1905年前後に見えている暮らし
東京 政治・行政、情報、商業の中心 電車が走り始め、水道と電話がある。政府、大学、新聞、会社が集まる。講和に怒った人々が焼打事件を起こす
横浜 国際貿易港 東京より早く水道を持ち、外国との行き来がいちばん身近な街
大阪 商業・工業・港湾都市 紡績工場が立ち並び、水道と港を持ち、市電が走り始めた巨大商工業都市
京都 文化・教育・産業都市 10年前から電車が走り、水力発電を使っている古都
神戸 国際貿易港・工業都市 貿易港に造船と鉄鋼が加わり、この年から阪神電車で大阪とつながる
名古屋 中部の商工業の中心 電車と電話はあるが、水道はまだない
地方都市 県庁・地域商業の中心 鉄道や電灯、電話がどこまで入っているかは街によってかなり違う
農村 農業・村落社会 子どもは学校へ通い、男たちは日露戦争へ出征している。家の暮らしは都市と大きく違う

京都では東京より早く電車が走り、横浜では東京より早く水道が整っている。大阪と神戸の間には都市を結ぶ電車が走り始め、名古屋には電車と電話があるのに水道はない。そして農村からは、多くの男たちが戦場へ向かっている。

同じ明治38年でも、住んでいる場所によって「当たり前」はかなり違っていた。

明治後期の小説を読むときに気にしておきたいこと

この時代のことを調べていて思うのは、「この時代には電話があった」「この時代には電車があった」というだけでは、小説を読むときにはあまり役に立たないということだ。

1905年に電車に乗る人物がいても、東京なら街の中を走る路面電車かもしれないし、阪神間なら大阪と神戸を結ぶ電車かもしれない。電話が出てきても、自宅の電話か会社の電話かで、その人の暮らし向きはかなり変わってくる。街では電車に乗っていても、家に帰ればランプの下で畳に座っている。

明治後期の作品を読むときの確認ポイント
  • 何年の話なのか(日清戦争・日露戦争の前か後か)
  • どこの話なのか(その街にもう電車や水道はあるのか)
  • 人物は学生か、書生か、会社員か、官吏か、職人か、工場で働く人か
  • 地方から出てきた人なのか、その土地で生まれ育った人なのか
  • 家族に出征した人や戦死した人はいるのか
  • 電話や電灯がある家なのか、ランプの家なのか
  • 結婚や進路を、本人と家(戸主)のどちらが決めているのか

ここまで見ていくと、作中に出てくる電車や電話、下宿や女学生の一つひとつに、その人物がどんな場所でどんな暮らしをしているのかが見えてくるはずだ。

明治後期から大正へ

1912年7月、明治天皇が亡くなり、元号は大正に変わる。9月の大葬の日には、日露戦争で旅順を攻めた乃木希典が妻とともに殉死し、大きな衝撃を与えた。ひとつの時代が終わったという感覚は、夏目漱石の『こころ』にも色濃く描かれている。

明治後期までに、大都市には電車、水道、電話、電灯、港といった街を支える設備がそろい始めた。大正になると、その設備を使って暮らす人たちの生活そのものが変わっていく。

郊外の家から電車で会社へ通い、休日には百貨店や映画館へ出かける。家族や親族だけではなく、学校の友人や会社の同僚と街で過ごす時間が増えていく。

次の大正時代では、明治のうちに作られた街の仕組みが、人の住み方、働き方、遊び方をどう変えていったのかを見ていきたい。

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