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大正時代の暮らしと地域差|東京・大阪・阪神間の都市生活を比較

百貨店で買い物をして、映画を見て、カフェーに寄り、郊外の赤い屋根の家へ電車で帰る。大正時代の都市の暮らしを並べてみると、明治よりも今の私たちのほうにずっと近く感じる。

明治後期までに、大きな都市には電車、水道、電話といった街を支える設備がそろい始めていた。大正になると、変わっていくのは設備そのものではなく、その設備を使った人の暮らし方のほうだ。

郊外の家から電車で会社へ通う。休日には百貨店や映画館へ出かける。家族や近所の人だけではなく、学校の友だちや会社の同僚と街で過ごす。住む場所、働く場所、遊ぶ場所がそれぞれ分かれて、それを電車がつないでいく。今の都市の暮らしの形が、このころにかなりはっきりと見えてくる。

ただ、大正時代はたった15年しかないのに、その中身はかなり激しい。第一次世界大戦の好景気で成金が生まれたかと思えば、米の値段が上がって全国で米騒動が起き、スペイン風邪で何十万人もが亡くなり、そして1923年には関東大震災が東京と横浜を襲う。明るいモダンな文化だけでは、この時代はとても語りきれない。

この記事では、大正時代を舞台にした小説を読むときに「この人物はどこに住み、何に乗って、どこで時間を過ごしていたのか」を想像できるように、当時の暮らしと地域の違いを整理していく。

【この記事で扱う時代】1912年(大正元年)〜1926年(大正15年)
【見ていく地域】東京・横浜・大阪・京都・神戸と阪神間・名古屋・地方都市・農村
【この記事の目的】大正時代の小説を読むときのサブテキスト
【前の時代】明治後期の暮らし(1889〜1912年ごろ)

目次

明治後期から、何が変わったのか

明治後期は、街に電車や水道が「入ってくる」時代だった。大正は、それを「使って暮らす」人が増えていく時代だ。

明治後期 大正時代
市電や鉄道が整えられる 電車で通勤・通学する暮らしが広がる
都市の中に新しい設備が入る 都市そのものが郊外へ広がっていく
百貨店という新しい店が登場する 買い物や外出そのものが娯楽になる
会社や工場が増える 「サラリーマン」と呼ばれる会社員の暮らしが生まれる
選挙で投票できるのは一部のお金持ちの男性だけ 政党内閣が生まれ、25歳以上の男性すべてが選挙権を得る
新聞が情報の中心 雑誌が大量に売れ、ラジオ放送が始まる
都市と農村の差が大きい 都市文化が花開く一方で、貧しさや格差も目立つ

大正時代の大きな流れ

15年の間にこれだけのことが起きている。年表にしてみると、明るい出来事と苦しい出来事が交互にやってくるのがよくわかる。

年 主な出来事 暮らしを見るポイント
1912年(大正元年) 明治天皇崩御で大正に改元、京都の三大事業完成 新しい時代の始まり
1913年(大正2年) 大正政変、神戸・新開地に聚楽館開館 民衆の力で内閣が倒れる。都市の娯楽が広がる
1914年(大正3年) 第一次世界大戦始まる、東京駅開業、宝塚少女歌劇の初公演 好景気の始まり
1915〜18年(大正4〜7年) 大戦景気、成金の登場 一部の人が急に豊かになり、物価が上がる
1918年(大正7年) 米騒動、原敬内閣成立、田園都市会社設立、スペイン風邪の流行(〜1920年)、雑誌『赤い鳥』創刊、大戦終結 好景気の裏で暮らしが苦しくなり、民衆が街で怒りを爆発させる
1919年(大正8年) 都市計画法公布、東京で青バス運行開始 大きくなりすぎた都市を計画的に作り直す考えが出てくる
1920年(大正9年) 戦後恐慌、初の国勢調査、阪急神戸線開業 好景気が終わる。大阪と神戸の間に二本目の私鉄
1921年(大正10年) 名古屋が16町村を編入、大阪の新市庁舎完成、横浜の市電が市営に 大都市がどんどん外へ広がる
1922年(大正11年) 名古屋の市電が市営に、箕面で住宅改造博覧会、神戸港第一期築港完成 郊外に住む新しい家の形が提案される
1923年(大正12年) 9月1日 関東大震災 東京と横浜の街と暮らしが大きく失われる
1924年(大正13年) 東京で市営バス開業、宝塚大劇場完成 震災後の交通の立て直しと、郊外の娯楽の発展
1925年(大正14年) 普通選挙法・治安維持法、ラジオ放送開始、大阪市の市域拡張で「大大阪」誕生、山手線の環状運転開始、雑誌『キング』創刊 大衆の時代の始まりと、言論の締めつけが同時にやってくる
1926年(大正15年) 御堂筋の工事開始、12月に大正天皇崩御で昭和へ 次の昭和につながる街づくりが始まる

成金と米騒動――好景気の裏側

大正の暮らしを読むうえで、まず押さえておきたいのが第一次世界大戦の影響だ。

1914年に始まった大戦の戦場はヨーロッパで、日本は遠く離れている。ヨーロッパの国々が戦争で物を作れなくなったぶん、日本の品物が世界中で売れ、特に船は作れば作るほど儲かった。ここで一気にお金持ちになったのが「成金」と呼ばれる人たちだ。お札に火をつけて明かりにする成金の風刺画は、今でも教科書などでよく見かける。

しかし好景気は、物の値段も押し上げる。給料はそれほど上がらないのに、米の値段は数年で倍以上になった。1918年の夏、富山の漁村の女性たちが米の安売りを求めて立ち上がったのをきっかけに、米騒動が全国へ広がる。各地で米屋や商社が襲われ、軍隊まで出動し、内閣は倒れた。そのあとに生まれたのが原敬の本格的な政党内閣である。

そして大戦が終わると、今度は1920年の戦後恐慌がやってくる。急に儲かった成金の中には、同じくらい急に没落していく人もいた。

この時代の小説に、急にお金持ちになった人物や、逆に家が傾いた人物が出てきたら、その背景にはこの好景気と不景気の大きな揺れがあると考えて読むと、人物の立ち位置がわかりやすくなる。

スペイン風邪――3年続いた流行病

1918年から1920年にかけて、世界中でスペイン風邪と呼ばれるインフルエンザが大流行した。日本でも人口の4割近くがかかったといわれ、内務省の記録では40万人近くが亡くなっている。

学校は休校になり、人々はマスクをして、人混みを避けるように呼びかけられた。今の私たちにはどこか見覚えのある風景だ。

大正の中ごろの小説で、家族や知り合いが流行病で急に亡くなる場面があれば、それはこのスペイン風邪なのかもしれない。

大正デモクラシー――民衆が政治に声を上げる

大正時代は、普通の人々が政治に声を上げるようになった時代でもある。1913年には、民衆が議会を取り囲んで内閣を倒す大正政変が起き、1918年には米騒動のあとで初めての本格的な政党内閣が生まれた。

その流れの行き着いた先が、1925年の普通選挙法だ。それまで選挙で投票できたのは、一定以上の税金を納めている男性だけだった。それが税金の額に関係なく、25歳以上の男性ならほぼ誰でも投票できるようになる。ただし女性にはまだ選挙権はない。

ここで見落としやすいのが、同じ1925年に治安維持法も作られていることだ。国の仕組みを変えようとする運動を取り締まる法律で、のちに思想や言論を締めつける道具になっていく。選挙権が広がったのと同じ年に、自由を縛る法律もできていたのだ。

自由で明るいと思われがちな大正だが、その終わりには、次の昭和の重い空気の種がすでにまかれていた。

東京――今の東京につながる巨大都市が作られていく

大正の東京を見るときは、今の「東京都」と同じものだと思わないほうがわかりやすい。このころは東京府の中に東京市があり、今の渋谷、新宿の西側、世田谷、杉並の多くは、東京市の外にある郊外だった。

その郊外へ街が広がっていくことこそが、大正の東京の一番大きな変化だ。

1914年、丸の内に東京駅ができる

1914年、赤煉瓦の東京駅が開業する。それまで東京の大きな駅は新橋や上野に分かれていたが、皇居に近い丸の内に中央の駅が置かれた。

そのまわりには会社や銀行のビルが増え、丸の内は今のようなオフィス街へ向かっていく。政府と官庁の街だった東京に、会社、銀行、大学、新聞社、出版社がさらに集まり、毎朝大勢の人が会社へ通う街になっていった。

住む場所が外へ広がり、私鉄と住宅地が結びつく

大戦景気で仕事を求める人が東京へ集まると、市内では家が足りなくなり、家賃も土地の値段も上がる。そこで市の外側に住んで、電車で市内へ通う人が増えていく。

1918年には田園都市会社が作られ、洗足や大岡山、のちの田園調布にあたる土地で住宅地の開発が始まる。1923年には目黒蒲田電鉄が電車を走らせ始めた。郊外に家を持ち、毎朝電車で都心の会社へ向かう。そんな暮らしが少しずつ形になっていく。

1923年9月1日、関東大震災

大正の東京を語るのに、関東大震災を外すことはできない。

9月1日の昼前、ちょうど昼ごはんの支度で火を使っている時間に大地震が起きた。建物が倒れただけではなく、あちこちから火の手が上がり、東京は2日近くにわたって燃え続ける。東京市では16万棟を超える建物が焼け、震災全体で10万人を超える人が亡くなった。

混乱の中では根拠のない流言が広がり、多くの朝鮮人や、朝鮮人と間違えられた人たちが自警団などに殺される事件も起きている。これもまた、震災の東京で実際に起きたことだ。

家を失うというのは、住む場所だけを失うことではない。近所の店も、学校も、仕事場も、知り合いの家も、それまでの暮らしを支えていた街のつながりごと失うことになる。焼け跡にはバラックと呼ばれる仮の小屋が建ち並び、多くの人がそこで暮らしを立て直していった。

震災が郊外化を一気に進め、街の作り直しが始まる

郊外へ住む流れは震災の前から始まっていた。しかし中心部が焼けたことで、被害の少なかった郊外へ移る人が一気に増える。郊外に住めば都心へ通う電車が欠かせない。私鉄と住宅地の結びつきは、震災を境にさらに強くなった。

震災で市電も大きな被害を受けたため、1924年には東京市が応急の交通として市営バスを走らせる。線路がなくても道さえあれば走れるバスは、そのまま東京の日常の足として残っていく。1925年には山手線が今のように環状で走り始めた。

焼けた街は、ただ元通りに建て直されたわけではない。帝都復興事業として道路が広げられ、隅田川には新しい橋が架けられ、公園や小学校が鉄筋コンクリートで作られていく。1926年には同潤会が鉄筋コンクリートのアパートを建て始めた。

大正の東京は、ただ大きくなり続けた街ではない。一度大きく壊れて、別の形で作り直され始めた街でもある。小説を読むときは、それが震災の前の東京なのか、後の東京なのかを確かめておきたい。

横浜――開港以来の街が一日で失われる

大正の前半、横浜は国際貿易港として成長を続けていた。1915年には西谷浄水場ができ、1921年には市電が市営になる。港、水道、電車を持つ大都市だった。

ところが1923年の関東大震災で、横浜は地震と火事によって市街地の大部分を失う。亡くなった人と行方不明の人は2万6千人を超え、1859年の開港から60年あまりかけて作られてきた港町の街並みが、一日でほとんど消えてしまった。

横浜の大正は、国際都市として育っていく前半と、その街が震災で失われ、立て直していく後半に分けて見るとわかりやすい。

大阪――商都から、日本一の「大大阪」へ

調べていて驚いたのは、大正の終わりの大阪が、人口でも面積でも日本一の市だったことだ。大阪を「東京に次ぐ二番目の都市」と思って見ていると、この時代の姿はかなり見えにくくなる。

大戦景気で工業都市として大きくなる

第一次世界大戦が始まると、紡績、機械、金属の工場が集まる大阪には大量の注文が舞い込む。仕事を求めて人が集まり、市街地はまわりへどんどん広がっていった。

江戸時代からの商人の街に、工場で大勢の人が働く工業都市の顔が重なる。その一方で、住宅不足、交通の混雑、工場の煙と、大きくなった街ならではの問題も一緒に生まれていた。工場の煙が空を覆う大阪は「煙の都」とも呼ばれている。

私鉄が、住む場所と遊ぶ場所まで作る

大阪の大正を見るときに外せないのが私鉄だ。今の阪急の前身である箕面有馬電気軌道は、明治の終わりの1910年に開業し、池田で住宅地を売り出していた。大正に入ると、このやり方がさらに広がっていく。

電車を走らせるだけではなく、沿線に住宅地を作る。終点には温泉や劇場を作る。休日にも電車に乗ってもらう。1911年には宝塚新温泉が開業し、1914年には宝塚少女歌劇が初めての公演を行う。1924年には約4千人が入る宝塚大劇場も完成した。

今なら電車に乗って遊園地や大きな商業施設へ出かけるのは当たり前だ。大正の関西では、鉄道会社が「電車に乗って出かける理由」まで作るという、新しい暮らしの形がもう始まっていた。

大阪と神戸の「間」が住宅地になる

1920年には阪急神戸線が開業し、すでに走っていた阪神電車とあわせて、大阪と神戸の間を二本の私鉄が結ぶようになる。その途中の西宮、芦屋、御影、住吉で住宅地の開発が進み、大阪で働きながら阪神間に家を持つ暮らしが現実のものになっていく。

ここは東京と比べると面白いところだ。東京では、一つの巨大な街の中心から外へ向かって住宅地が広がっていく。関西では、大阪と神戸という二つの大都市の間に住宅地が生まれた。大阪の経済力と神戸の外国の文化、その両方につながる土地に、洋風の家、学校、スポーツ、音楽、洋食を取り入れた独特の暮らしが育っていく。のちに阪神間モダニズムと呼ばれる文化の土台だ。

震災のあと、東京から関西へ移り住んだ作家や文化人も多い。谷崎潤一郎もその一人で、阪神間に住み、関西を舞台にした作品を書くようになる。

1925年、「大大阪」の誕生

1925年、大阪市はまわりの東成郡と西成郡の町村をまとめて市に入れた。面積は約182平方キロメートル、人口は約211万人。東京市を抜いて人口でも面積でも日本一の市となり、「大大阪」と呼ばれるようになる。

大きくなりすぎた街を作り直すため、1923年に市長になった関一は大規模な都市計画を進める。その目玉が御堂筋だ。当時は狭い道だったところを幅44メートルの大通りに広げ、その地下に地下鉄を走らせるという計画で、工事は大正最後の1926年に始まった。地下鉄が走るのは1933年、御堂筋が完成するのは1937年と昭和に入ってからだが、今の大阪の中心部の形は、大正の終わりに設計され始めていたことになる。

京都――明治に作った設備で、街を広げていく

京都では、明治後期から進めてきた第二琵琶湖疏水、水道、道路の拡張と市営電車という三大事業が、1912年ごろにそろって完成する。四条通や烏丸通が広げられ、そこを市電が走るようになった。

大正の初めには烏丸通に銀行や証券会社、保険会社が集まり、京都の業務街として育っていく。寺社と町家の街の中に、市電と水道と銀行のビルが入ってきたのだ。1918年には周りの16町村が京都市に入り、街はさらに広がっていく。

京都は古い街並みを残したまま、道路と電車を使って近代都市へ作り替えられていった。

神戸――港町と娯楽の街

神戸では国際貿易港としての発展が続き、1922年には港の第一期の築港工事が完成する。港には商社や銀行、造船所が集まり、大戦景気では鈴木商店のような巨大な商社も生まれた。

その一方で、1913年に聚楽館が開館した新開地には映画館や劇場が並び、東京の浅草、大阪の道頓堀と並ぶ大きな娯楽街になっていく。港で働く人と、その東側の阪神間の住宅地に住む人。同じ神戸でも、見えている街はかなり違っていた。

名古屋――日本一広い「大名古屋」

名古屋も大正の間に大きく広がった。1921年にまわりの16町村を市に入れると、面積は約150平方キロメートルになり、当時の東京市や大阪市よりも広い日本一の市になる。「大名古屋」と呼ばれたのはこのためだ。

人口も約60万人に増え、繊維、陶磁器、機械の工業を持つ中部の大都市に育っていく。1922年には市電も市営になった。明治初期には鉄道が来るのさえ遅かった名古屋が、大正には一時とはいえ日本一広い商工業都市になっていたのだ。その座は、1925年に市を広げた大阪へ移ることになる。

サラリーマンと文化住宅

大正時代に増えていったのが、会社や銀行、官庁に勤めて月給をもらう人たちだ。「サラリーマン」という言葉が広まったのもこのころで、背広を着て、郊外から電車で通い、決まった時間に働いて帰ってくる。今の会社員の原型のような暮らしだ。

そんなサラリーマンの家族が目指したのが、郊外の「文化住宅」だった。和風の家に洋風の応接間をひとつ付けた家で、赤や青の瓦屋根が目印になる。1922年に箕面で開かれた住宅改造博覧会では、家族が集まって食事をする部屋や、椅子とテーブルの暮らしまで考えた新しい家が実際に建てられ、博覧会のあとは土地付きで売り出された。

ただ、それが大正の普通の家だったわけではない。都市の長屋や町家、農村の家では、畳に座ってお膳やちゃぶ台で食事をし、かまどで煮炊きをする暮らしがまだ広く残っている。電灯は大正の間に都市の家庭へかなり広がったが、ガスや水道は家によってまちまちだ。

文化住宅に住んでいても、洋風なのは応接間だけで、家族が普段過ごすのは畳の部屋ということも多い。郊外から電車で会社へ通う人でも、家の中まで今の住宅に近かったとは限らないのだ。

百貨店、活動写真、カフェー――街へ「出かける」楽しみ

大正の都市では、仕事や学校のほかにも街へ出かける理由がどんどん増えていく。

百貨店へ買い物に行き、大食堂で洋食を食べる。活動写真と呼ばれた映画を見に行く。このころの映画はまだ音のない無声映画で、スクリーンの横で弁士が語りを入れ、楽団が音楽をつける。浅草では歌劇を上演する浅草オペラが若者に大人気になったが、関東大震災で劇場が焼け、その熱狂も終わってしまう。

カフェーも大正の街を象徴する場所だ。今のカフェとは違い、女給と呼ばれる女性が客の席について話し相手になる店も多かった。谷崎潤一郎の『痴人の愛』で、主人公がカフェーで働く少女を見初めるところから物語が始まるのも、この時代の空気をよく表している。

食べ物では、カレーライス、コロッケ、とんかつといった洋食が、街の洋食屋で手ごろに食べられるようになっていく。

家と仕事場を往復するだけで一日が終わるのではなく、その間に遊びや買い物の場所が入ってくる。ただし、こうした楽しみを味わえたのは、ある程度のお金と時間を持っている人が中心だ。同じ東京や大阪に住んでいても、サラリーマンや学生と、工場で長い時間働く人とでは、同じ街がまったく違って見えていたはずだ。

職業婦人と「新しい女」

大正時代には、女学校を出る女性が増え、都市では家の外で働く女性の姿が目立つようになる。電話交換手、タイピスト、事務員、百貨店の店員、バスの車掌、教員、看護婦。こうした女性たちは「職業婦人」と呼ばれた。

明治の終わりの1911年には、平塚らいてうたちが女性だけの文芸誌『青鞜』を創刊し、古い家のしきたりに縛られない生き方を目指す「新しい女」が話題になる。1919年には女性の政治参加を求める新婦人協会も作られた。大正の終わりから昭和の初めには、髪を短く切って洋服を着た「モダンガール」も街に現れ始める。

ただし、女性の多くが自由に仕事を選び、自立して暮らしていたわけではない。結婚は家が決めることが多く、働く女性も結婚すれば仕事をやめるのが普通だった。新しい女性の姿が目立つようになったことと、それが普通の女性の暮らしだったことは、分けて考えたほうがよさそうだ。

雑誌とラジオ――みんなが同じものを読み、同じ声を聞く

大正は、読むものが一気に増えた時代でもある。学校を出た人が増え、文字を読むことが当たり前になると、新聞や雑誌が大量に売れるようになる。1918年には鈴木三重吉が子どものための文芸雑誌『赤い鳥』を創刊し、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』もここに載った。1925年に創刊された大衆雑誌『キング』は、創刊号から70万部を超え、数年のうちに100万部に届く。

そして1925年、東京でラジオ放送が始まり、大阪、名古屋でも続いて放送が始まる。新聞は買って読まなければならないが、ラジオなら離れた場所にいる人たちが同じ時間に同じ声を聞くことができる。

もちろん大正の終わりに、どの家にもラジオがあったわけではない。それでも、全国の人が同じものを読み、同じ声を聞く「大衆」の時代が、ここから始まっていく。

家族と近所の外に、自分の世界ができる

明治時代には、家族、親族、近所に加えて、学校の友だちや職場の同僚という関係が少しずつ増えてきた。大正になると、その関係がさらに大きくなる。

学校へ通う年数が長くなれば、同級生や先輩、先生との付き合いも長くなる。会社で働けば、上司や同僚と一日の大半を過ごす。仕事が終われば、同僚とカフェーや映画館へ寄って帰る。家族や地域だけで人間関係が完結するのではなく、学校、会社、趣味、街での付き合いが加わっていく。

大正の小説で、友人や同僚との付き合いが家族とは別の世界として描かれるようになるのも、こうした暮らしの広がりがあるからなのだろう。

地方都市と農村――情報は近づき、暮らしの差は残る

地方都市にも鉄道、電灯、電話が広がり、駅前には商店が並ぶ。大都市ほどではないが、映画館ができる街も増えていく。

農村でも子どもは学校へ通い、新聞や雑誌を通して都市の話が入ってくる。若者が仕事や軍隊で村の外へ出る機会も増えた。情報の上では、都市と農村の距離は明治よりもずっと近くなっている。

しかし電車も、水道も、百貨店も、映画館も、農村の暮らしにはやってこない。米騒動が起きるほど米の値段が上がっても、それで潤うのは地主で、土地を借りて耕す小作人の暮らしは苦しいままだ。大正の後半には、小作料の引き下げを求める小作争議が各地で増えていく。

都市の暮らしが急に豊かになったぶん、都市と農村の差はかえってはっきり見えるようになった。宮沢賢治が岩手の農村で童話を書いていたのも、この大正という時代である。

1925年で横に並べてみると

大正14年、1925年ごろの日本を、同じ年で横に並べてみる。

地域 都市の役割 1925年前後に見えている暮らし
東京 政治・行政・会社・情報の中心 震災から2年、復興の途中。市電・バス・国鉄・私鉄が走り、郊外の住宅地が広がる。山手線が環状運転を始める
横浜 国際貿易港 震災で大きく失われた港町を立て直している途中
大阪 商業・工業・金融の巨大都市 人口211万人の「大大阪」が誕生し、日本一の市になる。市電と多くの私鉄を持つ
京都 文化・教育・産業都市 市電・水道・広い道路があり、古い町並みと近代的な設備が並んでいる
神戸・阪神間 国際港・工業・郊外住宅地 港と工業の神戸、その東の私鉄沿線には洋風の郊外住宅地が育っている
名古屋 中部の商工業都市 1921年に一時日本一広い市になった「大名古屋」。市営の電車が走る工業都市
地方都市 県庁・地域商業の中心 鉄道・電灯・電話は広がるが、交通や娯楽の施設は大都市ほど多くない
農村 農業・村落社会 新聞や雑誌で都市とつながるが、家の設備や移動手段には大きな差が残る。小作争議が増える

1925年の東京は、震災から街を作り直している途中だ。同じ年の大阪は、市を広げたばかりの日本一の「大大阪」になっている。京都では明治から整えてきた市電と水道のある暮らしがあり、阪神間では私鉄沿線の郊外の暮らしが育ち、名古屋も市を大きく広げた「大名古屋」になっている。

同じ大正14年でも、「近代都市の暮らし」という一言ではまとめられないほど、街によって形が違っていた。

大正時代の小説を読むときに気にしておきたいこと

大正を舞台にした作品には、電車、会社員、電話、百貨店、映画、カフェー、郊外の家と、今の私たちにもなじみのある言葉がたくさん出てくる。言葉だけ見ると、かなり現代に近く感じてしまう。

しかし、その中身は今とも違うし、地域によっても違う。東京の郊外に住む人物なら、東京市の外から私鉄で都心へ通っているのかもしれない。大阪の人物なら、阪神間の家から阪急や阪神で大阪へ通っているのかもしれない。同じ「郊外の暮らし」でも、一つの大都市から外へ広がった東京の郊外と、二つの都市の間に生まれた阪神間では、街の成り立ちがまるで違う。

大正時代の作品を読むときの確認ポイント
  • 何年の話なのか(大戦景気のころか、米騒動やスペイン風邪のころか、戦後恐慌のあとか)
  • 東京や横浜の話なら、1923年の関東大震災の前か後か
  • 都心に住んでいるのか、郊外から電車で通っているのか
  • 人物はサラリーマンか、商人か、工場で働く人か、学生か、職業婦人か
  • 家は文化住宅か、長屋や町家か、農家か
  • 成金のように急に豊かになった家か、景気の波で傾いた家か
  • 休日に百貨店や映画館へ行けるだけのお金と時間がある人物なのか

ここまで見ていくと、作中に出てくる電車や家、カフェー、友人との付き合いのひとつひとつに、その人物がどんな暮らしをしているのかが見えてくるはずだ。

大正から昭和戦前へ

1926年12月、大正天皇が亡くなり、元号は昭和に変わる。

大正の間に、街の設備は人の住み方、働き方、遊び方まで変え始めた。東京では郊外へ街が広がり、震災のあとは街そのものが作り直されていく。大阪では私鉄と郊外の住宅が結びつき、日本一の「大大阪」が生まれた。京都、神戸、名古屋でも、それぞれ違った形の近代都市が育っている。

昭和の戦前になると、この大正に作られた都市の暮らしがさらに成熟していく。東京では地下鉄が走り、大阪ではターミナル駅と百貨店が一体になり、阪神間では洋風の暮らしがさらに広がる。その一方で、昭和恐慌によって農村では深刻な貧しさが広がり、治安維持法による締めつけも強まっていく。

都市ではモダンな暮らしが花開いているのに、同じ日本の農村では食べることにも困っている。次の昭和戦前では、その差がいっそうはっきりしていく時代を見ていきたい。

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