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エル・グレコとは? 名前の由来・画風・訴訟から見る人物像

エル・グレコ(1541年ごろ~1614年4月7日)

美術に詳しくなくても、どこかで聞いたことがある名前である。

しかし、この名前は本名ではない。

本名は、ドメニコス・テオトコプーロス(Domenikos Theotokopoulos)。1541年ごろ、ヴェネツィア共和国領だったクレタ島に生まれたギリシア人である。後世、彼は「エル・グレコ」の名で広く知られるようになった。これは「ギリシア人」を意味する呼び名に由来する。本名ではない。

少し変わっているのが、この呼び名そのものである。

El Greco――「そのギリシア人」「ギリシア人の男」。

スペイン語の griego(グリエゴ)ではなく、イタリア語系の greco が混ざっている。スペイン語の定冠詞 El と、イタリア語の greco が合体した呼び名、ということになる。

クレタ島からヴェネツィア、ローマを経てスペインへ。そういう経路をたどってきたことが、この呼び名に影響しているのかもしれない。同時代の記録では、彼はイタリア語風の名前で書かれることもあった。1611年、スペインの画家フランシスコ・パチェーコは、彼をイタリア語で「Domenico Greco」と記録している。

とすれば、生前の彼が「エル・グレコ」と呼ばれていた可能性は、むしろ低い。

いつからドメニコス・テオトコプーロスではなく、エル・グレコと呼ばれるようになったのか。それもよく分かっていない。それでも、後世もっともよく知られているのは、この名である。

ちなみに、彼の作品の署名は「ドメニコス・テオトコプーロスが作った」を意味するものだった。

本人が、自らをエル・グレコと名乗ったことは、おそらくない。

 

目次

芸術――正確に描けるのに、正確には描かない

マニエリスム後期の巨匠。それが、現在の美術史におけるエル・グレコの評価である。

エル・グレコの絵を見ると、まず目につくのが人間の身体の表現だ。顔は細く、首や腕、指も長く描かれている。人物全体が、引き伸ばされたように表現されている。その傾向は、年を重ねるほどに強くなっていった。

肖像画では、正確に人の顔を描くことができる。だからこそ、あの身体表現は、宗教的な緊張や感情を、形と色によって表そうとしたものだったのかもしれない。

正確に描けるのに、あえて正確には描かない。

彼がこのような表現にたどり着いた背景には、三つの文化を渡り歩いてきたことがあるのではないか。

生まれ故郷のクレタ島では、聖人を正面から描くビザンティン系のイコン画家として活動した。ヴェネツィアでは、ティツィアーノの油彩による豊かな色彩、光と影、動きのある構図を学んだという。ローマでは、ミケランジェロの人体表現とマニエリスムに触れた。

そしてスペインのトレドに定住し、それまでの経験を組み合わせた独特の画風にたどり着く。

その最高傑作と言われるのが、『オルガス伯の埋葬』である。

画面下には、葬儀に立ち会うトレドの名士たちが並び、一人一人の顔が丁寧に描かれている。目を画面上へ移せば、そこに広がるのは天上の世界だ。人体は伸び、色あいの表現も変わる。地上と天上とで、描き方そのものを変えている。

風景画の『トレド眺望』でも、実際の街の建物は、正確な位置には並んでいない。『トレドの景観と地図』にいたっては、本来の建物の位置を動かしてまで描かれている。暗い雲、緑がかった光に包まれた街からは、絵そのものが醸し出す緊張感が伝わってくる。

形をわざと変形し、空間をゆがめ、色を現実以上に強くする。そうすることで、目に見えない精神や宗教的感情を表そうとした。ルネサンス後期のマニエリスムの流れを汲みながら、それをさらに推し進めたのが、エル・グレコだった。

訴訟――職人か、芸術家か

エル・グレコは、訴訟の多かった画家だったようだ。

確認されている訴訟の中身を見ると、私生活や犯罪に関わるものではない。自身の作品の価格、支払い、税金。いずれも、画家としての仕事をめぐる争いである。

トレド大聖堂のために描いた『キリストの聖衣剥奪(エル・エスポリオ)』では、大聖堂側の査定額とエル・グレコ側の査定額に、大きな開きがあった。訴訟になった。

理由は、値段だけではない。大聖堂側は、キリストより高い位置に他の人物の頭が描かれていることや、福音書のこの場面には記されていない三人のマリアが描かれていることなどを問題にした。価格だけでなく、作品の内容そのものも争われたのである。

もう一件、生々しい話がある。依頼主であるマリア・デ・アラゴン側が、「支払う金がない」と言い出したのだ。

エル・グレコは、申し立てを行った。マリア・デ・アラゴン側が持っていたフーロ――トランプ専売収入などを財源とする公的収入を受け取る権利――を差し押さえ、そこから1000ドゥカートの支払いを受けている。

金がないと言うなら、その収入源まで辿っていく。そういう男だったらしい。

人間性――譲らない男の、譲る瞬間

エル・グレコについては、日記も私信も、ほとんど残っていない。それでも、契約記録や蔵書への書き込みなどから、見えてくるものがある。

自身の作品の価格をめぐって訴訟を起こす一方、依頼主への「奉仕と感謝」のためとして、契約額1500ドゥカートから500ドゥカートを値引いたこともある。

値下げを求められれば反発するのか。納得できる相手であれば、譲るのか。そこは、はっきりしない。ただ、金に汚い人物というより、金に厳しい人物だった、というあたりが近いのかもしれない。

お金の話が目立つためか、没後60年以上経って書かれた逸話も残っている。稼いだ金を派手な暮らしに使い、食事の際に演奏させる音楽家まで雇っていた、という話だ。もっとも、これは後世の記録というのは、現代でもあてにならない。

お金の訴訟の話が残っていたのなら、尾びれ背びれは生えただろうから、鵜呑みにはできない。

もうひとつ、こんな出来事もある。1582年、トレドの異端審問所に、アテネ出身のギリシア人が連れてこられた。だが、その男はスペイン語を理解できない。そこで通訳として呼ばれたのが、エル・グレコだった。

尋問から、無罪判決が出るまで。彼はその場に、通訳として立ち会っている。

この話だけで、彼の人間性を判断することができるわけではないが、作品の扱いには厳しく、市民としての義務を破るような人物ではなかったようです。

エル・グレコ年表

エル・グレコは、クレタ島でイコン画家として出発し、ヴェネツィア、ローマを経てスペインへ渡った。トレドに定住している。

年 年齢 出来事
1541年ごろ 0歳 ヴェネツィア共和国領だったクレタ島のカンディア、現在のイラクリオン周辺に生まれる。本名はドメニコス・テオトコプーロス。
1563年 約22歳 クレタ島で画家として活動していたことが記録から確認できる。ビザンティン系のイコン画家として出発した。
1566年 約25歳 自作のイコンを売却するため、作品の価格査定を受けた記録が残る。
1567年ごろ 約26歳 ヴェネツィアへ移る。ティツィアーノやティントレットなどの作品から、油彩の色彩や光、動きのある構図を学ぶ。
1570年 約29歳 ローマへ移る。ミケランジェロなどの作品や、マニエリスムの人体表現に触れる。
1572年 約31歳 ローマの聖ルカ・アカデミーに加入し、画家として活動する。
1577年 約36歳 スペインへ渡り、トレドに定住。トレド大聖堂の『キリストの聖衣剥奪(エル・エスポリオ)』や、サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ修道院の祭壇画を制作する。
1577年 約36歳 サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ修道院の仕事では、1500ドゥカートとされた報酬から500ドゥカートを自ら減額したとされる。
1578年 約37歳 ヘロニマ・デ・ラス・クエバスとの間に息子ホルヘ・マヌエルが生まれる。息子は後に画家・建築家となり、父の工房にも加わる。
1579年ごろ 約38歳 『エル・エスポリオ』の価格や構図をめぐり、トレド大聖堂側と争いになる。
1579~1582年ごろ 38~41歳 スペイン国王フェリペ2世のために『聖マウリティウスの殉教』を制作する。
1582年 約41歳 トレドの異端審問所で、スペイン語を理解できないアテネ出身のギリシア人のために通訳を務める。
1584年ごろ 約43歳 『聖マウリティウスの殉教』はフェリペ2世の期待に合わず、予定されていた祭壇には採用されなかった。
1586年 約45歳 トレドのサント・トメ教会から『オルガス伯の埋葬』を依頼される。
1586~1588年ごろ 45~47歳 代表作『オルガス伯の埋葬』を制作。地上の写実的な人物と、細長く変形した天上の人物を一つの画面に描く。
1590年代 50代 人体の引き伸ばしや強い明暗、現実から離れた色彩がさらに目立つようになり、独自の画風が深まる。
1596年 約55歳 マドリードのドーニャ・マリア・デ・アラゴン学院の大規模な祭壇画を1000ドゥカートで請け負う。
1598年2月10日 約57歳 祭壇画の代金が支払われなかったため申し立てを行い、トレドやイリェスカスの税収、トレドのトランプ専売収入などを財源とするフーロから支払うよう王命が出る。
1598年2月28日 約57歳 一度目の命令だけでは解決せず、再び支払いを命じる王命が出される。最終的に1000ドゥカートを受け取る。
1590年代末~1600年ごろ 50代後半 『トレド眺望』を制作したと考えられる。実際の街をそのまま描かず、建物や地形を組み替えながら表現した。
1603年ごろ 約62歳 イリェスカスの慈善病院のために祭壇画を制作。作品の価格や内容をめぐって注文主側と争いになる。
1607~1608年ごろ 66~67歳 自身が制作した絵に売買税アルカバラを課すことをめぐり、財政当局と争ったとされる。後にマドリードの画家たちが同じ税をめぐって争った際、エル・グレコの例が先例として持ち出された。
1611年 約70歳 画家フランシスコ・パチェーコがトレドのエル・グレコを訪ねる。後に工房や芸術観について記録を残した。
1612~1614年 71~73歳 最晩年の代表作『羊飼いの礼拝』などを制作する。
1614年4月7日 約72~73歳 トレドで死去。
19世紀以降 ― 長く評価が低迷していたが、19世紀から再評価が進む。20世紀には、その大胆な形や色彩が近代の画家たちから注目された。

参考資料・出典

この記事は、美術館や公文書館、研究機関が公開している資料をもとに書いています。

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