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⇒浄瑠璃とは?名前の由来から近松門左衛門、文楽への流れまで解説
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⇒浄瑠璃・人形浄瑠璃の歴史年表|古浄瑠璃から義太夫節、文楽まで
この記事の要点
- 浄瑠璃は、語り物・三味線音楽・人形芝居が結びついた複合芸術です。
- 名称の由来は、牛若丸と浄瑠璃姫の物語にあるとされています。
- 古浄瑠璃の諸流派を経て、竹本義太夫が義太夫節を大成しました。
- 近松門左衛門は、浄瑠璃を劇文学として高い完成度へ引き上げました。
- その後、合作制や歌舞伎との相互影響を経て、現在の文楽へとつながっていきます。
1. 浄瑠璃の定義と劇文学・音曲としての構造
浄瑠璃という語は、大きく二つの意味を持っています。
ひとつは、操り人形の芝居に用いられる脚本、つまり劇文学としての浄瑠璃。
もうひとつは、三味線を伴奏として太夫が語る音曲、つまり浄瑠璃節としての浄瑠璃。
二つは切り離して考えられるものではありません。浄瑠璃の詞章は、ただ読むための文章ではなく、太夫が語り、三味線が支え、人形が演じることを前提に書かれています。浄瑠璃は文字としての文学であると同時に、声・音・身体表現によって完成する舞台芸術なのです。
詞章の構造
文学としての浄瑠璃は、語り物としての性格を強く持つ劇文学です。本文は、地の文と会話文から成りたっています。
地の文:場面の状況、登場人物の心理、情景、物語の進行を語る部分であり、三人称的な語りによって、しばしば登場人物の内面に深く入り込んでいきます。
会話文:登場人物の言葉として語られ、劇的なやり取りや心理の衝突を表します。
二つが太夫の語りによって連続的に処理されるため、浄瑠璃では「叙事」と「劇」が一体化するのです。小説のように物語を語りながら、同時に演劇として人物同士の葛藤を見せる構造になっています。
節付・文字譜・胡麻章
浄瑠璃の正本には、太夫が語るための音楽的な手がかりが付されることがあり、「節付」と呼びます。
※正本とは
太夫が舞台で語るための正しいセリフやト書きが記されたもの
資料によっては、文字譜や胡麻章と呼ばれる符号が見られ、語りの抑揚、間、旋律的な処理を示す役割を持ちました。ここで重要なのは、浄瑠璃の本文が単なる台本ではなく、音声化されることを前提とした詞章だという点です。文字で読むと静かな文章に見える部分も、太夫の語りと三味線の音によって、緊張・哀切・怒り・決意といった感情の起伏を帯びます。
韻律と道行・景事
浄瑠璃の文章には、七五調を中心とする韻律文と、比較的自由な散文が混在しています。七五調は、聞き手にリズムを感じさせ、語り物としての耳ざわりを整える働きを持ちます。一方で散文的な部分は、状況説明や会話の自然さを支えます。
また、浄瑠璃には「道行」や「景事」と呼ばれる見せ場があります。
道行:登場人物が目的地へ向かう過程を、風景描写や心理描写を交えて語る部分であり、単なる移動場面ではなく、人物の心情が風景と重なり合う、浄瑠璃の詩的魅力が表れやすい箇所です。
景事:人形の舞踊的な美しさや舞台上の華やかさを見せる場面です。詞章、三味線、人形の所作が一体となり、視覚と聴覚の両面から観客を引き込む役割を持ちます。
段構成の変遷
浄瑠璃では物語の構成単位として「段」が重要です。古浄瑠璃期には六段構成が多くありましたが、のちに時代物と世話物で、定型が形成されていきます。
時代物:歴史上の事件、軍記物語、公家・武家社会の騒動などを題材とする作品です。一般に五段構成が標準とされ、物語の構成、因果関係、劇的な変化の面白さが重視されました。
世話物:当時の町人社会の事件や心中などを題材とする作品です。三段構成が標準となり、人物の心情、義理と人情の葛藤、町人社会の現実が中心になります。
2. 起源説と初期語り物の文献・伝承
浄瑠璃の名称の起源は、牛若丸、つまり源義経と、三河国矢矧の長者の娘・浄瑠璃姫との恋物語に求められます。この物語は「浄瑠璃姫物語」や「長生殿十二段」と呼ばれ、15世紀中ごろの室町時代には、三河地方を中心に広く伝わっていたと考えられています。
ただし、浄瑠璃の起源を語る資料には、後世の伝承や説話的な説明もたぶんに含まれます。歴史的事実として扱うかには注意が必要な伝承です。
起源をめぐる関連文献と伝承
浄瑠璃姫伝説の広がりについては、『岡崎市史』や『瑠璃光山安西寺略記』などに、伝説の地や由緒に関する記述が見られます。また、五山僧・万里集九の詩文集『梅花無尽蔵』にも関連する記述が確認でき、三河地方における浄瑠璃姫伝説の流布を考える重要な手がかりとなります。
他に、日記『宗長日記』や俳諧集『守武千句』などからは、15世紀の半ばごろから後、この物語が語り物として知られ、しだいに普及していった様子がうかがえます。
能の専門書『猿轡』には、文安年間(1444年から1449年ごろ)に宇田勾当が散佚本『やすだ物語』を語ったという記述もあります。ここからは、盲人音楽家である勾当・検校らが、初期の語り物文化に関わっていた可能性が読み取れます。
ただし、これらはすべて同じ性質の資料ではありません。
同時代に近い記録、後世の編纂資料、寺社の由緒書、芸能史的な伝承が混在しているため、まとめて「一次史料」ではなく、関連文献・伝承資料という扱いが適切です。
小野お通説の扱い
浄瑠璃の起源をめぐっては、文禄年間に織田信長の侍女であった小野お通が、牛若丸と浄瑠璃姫の物語を十二段構成に仕立てたという説もあります。この説では、薬師如来の十二神将や十二因縁の道理にちなみ、「十二段」の構成が作られたと説明されます。
しかし、この小野お通説は、近世以降に広まった伝承的・俗説的な側面が強いと考えられます。そのため、本文で扱う場合は「一説には」「伝えられる」といった表現にとどめ、確定した史実として断定できる内容ではありません。
説経節・平曲との関係
初期の浄瑠璃は、内容面では説経節の影響を強く受けていました。説経節は、仏教説話や霊験譚、悲劇的な運命を語る芸能であり、庶民の信仰や感情に深く訴える語り物でした。浄瑠璃姫物語にも、恋愛物語でありながら、仏教的な救済や因縁の感覚が色濃く見られます。
音曲面では、平曲、つまり平家琵琶の影響が指摘されています。初期の浄瑠璃は、琵琶を伴奏とすることもあり、また扇を開いて左手に持ち、右手の爪先で扇の骨をかき鳴らして拍子を取る「扇拍子」によって語られることもありました。
この段階では、まだ三味線や人形芝居とは結びついていません。浄瑠璃はまず、物語を語る芸能として成立し、その後に音楽・人形と結びついて演劇化していったのです。
3. 三味線・人形の結合と「古浄瑠璃」の成立
慶長・元和年間、つまり17世紀初頭になると、浄瑠璃は大きな転機を迎えます。それまで独立していた「太夫の語り」「三味線の伴奏」「人形の操り」が結びつき、人形浄瑠璃という演劇形態が成立していきました。
この結合によって、浄瑠璃は単なる語り物から、脚本性を持つ舞台芸術へと発展します。
三味線の導入
三味線の原型となる三絃は、中国で成立し、16世紀後半までには日本へ伝わっていたとされます。伝来経路には諸説がありますが、琉球の三線を経て本土に入り、日本独自の三味線へと改良されていったという説明が一般的です。
古い資料には、石村検校が蛇皮線を改良し、猫皮を張ることで三味線を整えたとする伝承も見られます。ただし、これも三味線成立をめぐる伝承的な説明として扱うべきものです。確定した史実として断定するのは難しく、三味線が近世初期に浄瑠璃の伴奏楽器として定着していった歴史的な流れを重視した方がよいでしょう。
三味線が加わったことで、浄瑠璃は琵琶や扇拍子による語りとは異なる劇的な表現力を得ました。三味線の音は、人物の感情、場面の緊迫、移動や変化のリズムを支え、太夫の語りに強い抑揚を与えました。
人形操りとの結合
人形操りの側では、西宮の傀儡師たちの存在が重要です。傀儡師は、もともと人形を操って門付けや芸能活動を行っていた人々であり、その技術が三味線浄瑠璃と結びつくことで、人形芝居としての浄瑠璃が形成されていきました。資料には、源之丞らの名前も見えます。
太夫が語り、三味線が音楽を支え、人形が動く。この三つが結びついたことで、浄瑠璃は視覚的にも聴覚的にも豊かな総合芸術になりました。
古浄瑠璃とは何か
竹本義太夫による義太夫節の成立以前の浄瑠璃は、一般に「古浄瑠璃」と呼ばれます。
古浄瑠璃は、後の義太夫節と比べると、詞章や構成がまだ素朴で、戯曲性も十分には成熟していないとされます。
その一方で、古浄瑠璃の時代には江戸・京都・大坂の三都で多様な流派が並び立ち、地域ごとの好みや気風を反映した豊かな音曲文化が生まれました。この古浄瑠璃の蓄積がなければ、義太夫節の大成も、近松門左衛門の劇文学も成立しなかったといえます。
4. 古浄瑠璃の展開――江戸浄瑠璃と上方浄瑠璃
古浄瑠璃期には、江戸・京都・大坂でそれぞれ異なる流派が発達しました。
大まかにいえば、江戸では勇壮で豪快な語りが好まれ、上方では情緒的で繊細な語りが発展しました。もちろん、これは単純な東西対比にすぎませんが、浄瑠璃の流派を理解するうえでは有効な整理です。
江戸浄瑠璃と薩摩浄雲
江戸浄瑠璃の発展において重要な人物が、京都から江戸へ下った薩摩浄雲です。
薩摩浄雲は、中橋広小路に芝居小屋を建てたとされ、江戸における浄瑠璃興行の基礎を作りました。また、島津家、すなわち薩摩藩との関係から、舞台の幕に十文字紋を用いることが許されたと伝えられ、「薩摩太夫」とも称されました。
このあたりの記述には伝承的要素も含まれるため、細部をすべて確定的に扱うことは避けるべきですが、薩摩浄雲が江戸浄瑠璃の展開に大きな役割を果たしたことは重要です。
金平節の流行
江戸浄瑠璃の代表的な流れの一つに、金平節があります。
金平節は、坂田金時の子という設定の架空の英雄・坂田金平を主人公とし、超人的な力や豪快な武勇を語る作風でした。岡清兵衛作『うぢのひめきり(宇治の姫切)』などが知られ、和泉太夫や桜井丹波少掾らによって語られました。
金平節の特徴は、勇壮で誇張の効いた語りです。超人的な英雄が活躍する物語は、江戸の荒々しく活気ある都市文化と相性がよく、多くの人気を集めました。
江戸諸流と歌舞伎浄瑠璃への接続
江戸ではその後、大薩摩節、外記節、式部節、土佐節、手品節、江戸節、半太夫節、河東節など、さまざまな流派が展開しました。これらの流れの一部は、後に歌舞伎の伴奏音楽や舞踊劇と深く結びついていきます。つまり江戸浄瑠璃は、人形芝居だけでなく、歌舞伎浄瑠璃の形成にも大きな影響を与えたのです。
上方浄瑠璃と井上播磨掾
一方、上方では、井上播磨掾が大坂派の重要人物として現れます。井上播磨掾の播磨節は、声量を活かした力強い語りを特徴としました。
資料では、音を表に出し、節を裏に置く語り口として説明されることがあります。これは、後の義太夫節にも影響を与えた重要な流れです。大坂という商業都市では、力強い語りと劇的な展開が好まれ、播磨節はその土壌に適合しました。
宇治加賀掾と加賀節
京都では、宇治加賀掾が重要な役割を果たします。宇治加賀掾は、伊勢島宮内の門から出た人物とされ、加賀節を語りました。
その芸風は、播磨節の力強さとは異なり、節回しを細やかにし、繊細で美しい語り口を特徴としました。資料では「よわよわ」「たよたよ」と表現されることもあり、京都的な洗練や哀調を感じさせる芸風だったと考えられます。
宇治加賀掾は『牛若千人切』『平安城』などを語り、古浄瑠璃から新浄瑠璃へ向かう過渡期の太夫として位置づけられます。彼の功績は、浄瑠璃の文学性と音曲性を高めた点にあります。
上方諸流の派生
上方の浄瑠璃は、角太夫節、文弥節、一中節などへと展開していきました。
角太夫節から文弥節が出て、さらに一中節へと展開し、豊後節系の流れから常磐津・富本・清元など、歌舞伎舞踊や劇場音楽と結びつく浄瑠璃系音曲が発展していきます。
注意したいのは、常磐津や清元を単純に「座敷浄瑠璃」と呼んでしまうと整理が粗くなることです。これらは歌舞伎舞踊や劇場音楽と深く結びついた歌浄瑠璃として理解した方が自然です。
一方で、舞台演出や人形の動きを伴わず、音曲として座敷や演奏会で楽しまれる浄瑠璃を座敷浄瑠璃と呼ぶことができます。
5. 義太夫節の大成と新浄瑠璃の成立
1684年、貞享元年に竹本義太夫が大坂道頓堀に竹本座を創設すると、浄瑠璃は新たな段階に入ります。この時期以降の浄瑠璃は、古浄瑠璃に対して「新浄瑠璃」とも呼ばれます。
義太夫節の成立は、単なる新流派の登場ではありませんでした。それは、古浄瑠璃の諸流派が蓄積してきた語り、節回し、劇的表現を総合し、人形芝居の音楽として高度に完成させる出来事でした。
義太夫節の音曲的特徴
竹本義太夫は、はじめ井上播磨掾の門人である清水理兵衛に学び、のちに宇治加賀掾の門にも入ったとされます。播磨節は、声量を活かした力強い語りを特徴としました。一方、加賀節は、繊細で美しい節回しを特徴としました。
義太夫は、この二つの長所を取り入れ、力強さと繊細さを兼ね備えた語りを作り上げました。資料では、播磨掾の語りを「音を表とし、節を裏とする」、宇治加賀掾の語りを「節を表とし、音を裏とする」と説明することがあります。義太夫節は、その両者を総合し、劇的な緩急、人物の心理表現、場面転換の迫力を備えた浄瑠璃節として成立しました。
竹本座と『出世景清』
竹本義太夫の名声を決定づけた作品の一つが、近松門左衛門作の『出世景清』です。1685年に竹本座で上演されたこの作品は、近松門左衛門と竹本義太夫の初期の重要な提携作とされます。
ここで大事なのは、近松の詞章が、義太夫の語りと人形芝居の構造を前提に書かれていた点です。つまり、近松の浄瑠璃は、ただ文学として優れていたのではなく、太夫が語り、人形が動く舞台のために設計された劇文学でした。この点が、近松を近世演劇史の中心的存在として扱われる理由です。
6. 近松門左衛門と紀海音――「情」と「知」の作劇
義太夫節の成立によって、浄瑠璃は音曲としての完成度を高めました。そして、近松門左衛門の登場によって、浄瑠璃は劇文学としても大きく飛躍します。
近松は、作者の存在を大きく世に知らしめた人物です。近松以前にも作者はいましたが、近松は太夫の芸風、人形の動き、観客の期待を踏まえながら、文学的修辞と劇的構成を高い水準で結びつけました。
近松門左衛門の作劇
近松の浄瑠璃では、封建社会の規範と、個人の感情が衝突します。ここで重要なのが「義理」と「人情」です。
義理:社会の秩序、家、身分、商売、約束、世間体など、人が従わなければならない規範。
人情:恋愛、親子の情、夫婦の情、憎しみ、嫉妬、執着、哀れみなど、人間がどうしても抱いてしまう感情。
近松の世話物では、この義理と人情が衝突し、登場人物は逃げ場のない葛藤に追い込まれます。その苦しみを、近松は詩的な詞章によって美しく描き出しました。
紀海音と豊竹座
近松に対抗する存在として重要なのが、豊竹座の作者であった紀海音です。竹本座に近松がいたように、豊竹座には紀海音がいました。紀海音は、豊竹若太夫の芸質を活かしながら、『椀久末松山』『八百屋お七』『心中二つ腹帯』などの作品を書きました。
近松が人情の流れを詩的に描く「情」の作家だとすれば、紀海音は複雑な人間感情を整理し、論理的に組み立てる「知」の作家といえます。この対比は単純化ではありますが、両者の作劇法の違いを理解するうえで利用できます。
近松は情感の高まりによって観客を引き込み、紀海音は感情の構造を組み立てることで劇的な説得力を生み出しました。
竹本座と豊竹座の競争は、太夫、三味線、人形遣い、作者のすべてに刺激を与え、浄瑠璃の芸術的水準を高めていきます。
7. 近松戯曲の二大ジャンル――時代物と世話物
近松の作品は、大きく時代物と世話物に分けられます。この二つは、題材だけでなく、構造や人物造形にも違いがあります。
時代物
時代物は、過去の歴史、軍記物語、公家・武家社会の騒動などを題材にした作品です。
ここでいう歴史は、現代の意味での厳密な史実再現ではありません。多くの場合、過去の出来事を借りながら、当時の社会や人間関係を映し出す構造になっています。
人物造形は類型的になりやすく、善悪が誇張され、神仏の加護や超人間的な救済が描かれることもあります。
代表作が『国性爺合戦』です。
『国性爺合戦』は1715年に竹本座で初演され、大きな評判を呼び、17か月連続で上演されたとされます。これは近松の時代物を代表するだけでなく、人形浄瑠璃の興行史を語る上でも重要な作品です。
世話物
世話物は、当時の町人社会を舞台にした作品です。
心中事件、家庭内の葛藤、商家の義理、男女関係など、市井の人々の現実に近い題材を扱います。代表作には、『曽根崎心中』『冥途の飛脚』『心中天の網島』『女殺油地獄』『心中宵庚申』などがあります。
世話物の特徴は、登場人物が英雄や貴人ではなく、町人や遊女、商人、家族の中にいる平凡な人々であることです。彼らは、社会的な規範と個人的な感情の間で追い詰められます。
近松は、その葛藤を単なる事件としてではなく、人間存在の普遍的な悲劇として描きました。
西鶴との対比
近松の人間描写を考えるうえで、同じ時代を生きた井原西鶴との対比がされます。
西鶴は浮世草子の中で町人社会の欲望や愛欲を、比較的冷静に観察し、写実的に描きました。
一方、近松は同じように町人社会の愛欲や事件を扱いながら、それを麗しい詞章によって美化し、人情の悲劇として描きました。
西鶴が社会を観察する作家だとすれば、近松は人情を劇化する作家だったといえます。
上方言葉の広がり
近松作品が広く上演・享受されたことは、舞台言語としての上方言葉が各地に知られる一因にもなりました。
「近松が上方言葉を全国に広めた」と単純に断定するのではなく、浄瑠璃や歌舞伎などの舞台芸能が、上方言葉の知名度を高める役割を持った、と考える方ができます。
浄瑠璃は物語を広めるだけでなく、言葉、感情表現、町人文化の型を広める媒体でもあったのです。
8. 合作制への移行と舞台技巧の展開
18世紀半ば、宝暦前後になると、浄瑠璃は新たな段階に入ります。
近松や紀海音のような単独作家の時代から、複数の作者が各段を分担して書く合作制へと移行していきました。
合作制は、現代風にいえばチームライティングです。複数の作者がそれぞれの段を担当することで、作品は長大化し、複雑化していきます。
三大名作の誕生
この時期には、現在でも文楽や歌舞伎で重要な演目とされる名作が生まれました。代表的なものが、『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』です。
『菅原伝授手習鑑』と『義経千本桜』は延享年間、『仮名手本忠臣蔵』は寛延年間に成立しました。これらはいずれも、複数の作者による合作であり、二代目竹田出雲、並木千柳、三好松洛らの名前が関わります。また、近松半二も、後の技巧化した浄瑠璃を代表する作者として重要です。
技巧展開期の特徴
合作制の時代には、一篇全体の文学的統一性よりも、各段ごとの見せ場、奇抜な趣向、複雑な因果関係、どんでん返し、舞台上のスペクタクルが重視されるようになります。
その結果、作品は長編化し、観客を驚かせる技巧が発達しました。これは浄瑠璃の魅力を広げる一方で、近松の世話物に見られたような、凝縮された人情描写とは異なる方向への変化でもありました。
9. 歌舞伎との相互影響と古典芸能化
18世紀半ば以降、浄瑠璃と歌舞伎はますます強く影響し合うようになります。浄瑠璃で評判になった作品は、歌舞伎の舞台に取り入れられました。これがいわゆる丸本歌舞伎です。
丸本歌舞伎とは、人形浄瑠璃の台本である丸本をもとにして、歌舞伎の演目として上演する形式です。浄瑠璃の緻密な構成と劇的な展開は、歌舞伎にとっても魅力的な題材でした。
浄瑠璃の歌舞伎化
一方で、浄瑠璃側も歌舞伎の影響を受けます。歌舞伎的なケレン味、視覚的な派手さ、役者芸に近い見せ場が、浄瑠璃にも取り込まれていきます。
この相互影響は、舞台芸術としての浄瑠璃を華やかにした一方で、語り物としての本来の性格を弱める面もありました。
浄瑠璃は歌舞伎と影響し合うことで興行的な力を増しながらも、自らの文学的・音曲的本質を変化させていったのです。
天明期以降の変化
18世紀後半、天明期以降になると、浄瑠璃の創作力はしだいに弱まっていきます。新しい劇世界を本格的に創造するよりも、旧作の改作や、観客の意表を突く趣向に頼る傾向が強くなりました。
『艶容女舞衣』『摂州合邦辻』『競伊勢物語』などは、そうした時期の作品として位置づけられます。また、『国言詢音頭』のように、残酷さや扇情性を強く打ち出す作品も現れます。
もちろん、これを単純に「退廃」とだけ見る必要はありません。観客の嗜好が変化し、興行の競争が激しくなる中で、浄瑠璃が刺激的な演出や改作に向かったことは、時代の要請でもありました。しかし、近松や紀海音の時代に見られたような、劇文学としての新しい創造力は、しだいに弱まっていったと考えられます。
文楽への流れ
こうして浄瑠璃は、新しい流行を生み出す大衆娯楽としての性格を徐々に薄めていきます。その一方で、太夫、三味線、人形遣いの技芸は高度に洗練され、定型化されていきました。
この固定化は、単なる衰退ではありません。新作を次々に生み出す芸能から、古典作品を継承し、型と技を磨き上げる芸能へと性格を変えていったのです。
現在の文楽は、その流れの先にあります。文楽は、太夫、三味線、人形の三業が一体となる芸能であり、近世浄瑠璃の蓄積を現代に伝える古典芸能です。
浄瑠璃の歴史は、語り物から人形芝居へ、古浄瑠璃から義太夫節へ、そして大衆娯楽から文楽という古典芸能へと変化していきました。
補足:浄瑠璃の分類
浄瑠璃は、人形芝居だけに限られるものではありません。日本の伝統音楽や演劇の中に深く根を張り、演奏形態や用途によっていくつかの形に分けられます。
人形浄瑠璃
太夫、三味線、人形の三者が一体となって劇場で上演される浄瑠璃です。現在の文楽につながる代表的な形です。
歌舞伎浄瑠璃
古浄瑠璃や義太夫節、あるいは常磐津・清元などの浄瑠璃系音曲が、歌舞伎の舞台伴奏や舞踊劇と結びついて発展したものです。歌舞伎の演技や舞踊を支える音楽として、浄瑠璃は大きな役割を果たしました。
座敷浄瑠璃
舞台演出や人形の動きを伴わず、音曲として聴かせることを目的とした浄瑠璃です。座敷や演奏会などで楽しまれ、劇場芸能とは異なる形で浄瑠璃の音楽性を伝えました。
まとめ
浄瑠璃は、牛若丸と浄瑠璃姫の物語を語る芸能から始まりました。初期には説経節や平曲の影響を受け、琵琶や扇拍子によって語られていました。
やがて三味線と人形操りが結びつき、人形浄瑠璃という演劇形態が成立します。古浄瑠璃期には、江戸・京都・大坂で多様な流派が並び立ち、薩摩浄雲、井上播磨掾、宇治加賀掾らがそれぞれの芸風を発展させました。
その蓄積をもとに、竹本義太夫が義太夫節を大成し、近松門左衛門が劇文学としての浄瑠璃を高めます。さらに豊竹座の紀海音、合作制の時代、歌舞伎との相互影響を経て、浄瑠璃は文楽へとつながる古典芸能へ姿を変えていきました。
浄瑠璃の歴史とは、文学・音楽・演劇が互いに結びつき、時代の娯楽として発展し、やがて伝統芸能として継承されていく過程そのものなのです。
参考文献・参考資料
本記事は、浄瑠璃・近松門左衛門・江戸時代の演劇文化に関する以下の文献・資料をもとに、初心者向けに要点を整理したものです。
- 『万有百科大事典』
- 『日本英雄伝 第10巻』
- 『日本偉人信仰実伝』
- 『世界二百文豪』
- 『東西文芸評伝』昭和4年
- 『日本歴史人名辞典』
- 『近世日本国民史 第19 元禄時代 下巻 世相篇』
- 『浪華人物誌 4』
- 『日本文化の発達』魚澄惣五郎 著
- 『国民日本歴史 新修』
- 『概観日本通史』
- 『兵庫県郷土人物誌 第1輯』昭和17年
- 文化デジタルライブラリー
