日本にほん近世演劇きんせいえんげきかたかせない「浄瑠璃」は、たんなる人形劇にんぎょうげき伴奏音楽ばんそうおんがくではありません。それは、語りものとしての文学性ぶんがくせい三味線しゃみせん音楽おんがくとしての音曲おんぎょくせい人形芝居にんぎょうしばいとしての演劇性えんげきせいむすびついた複合芸術ふくごうげいじゅつです。

入門的にゅうもんてきには「三味線にわせて物語ものがたりを語る芸能げいのう」と説明せつめいできますが、もう一歩踏いっぽふむと、浄瑠璃は劇文学・音楽・舞台演出ぶたいえんしゅつ相互そうご影響えいきょうし合いながら発展はってんした、きわめて構造的こうぞうてきな芸能だったことがえてきます。

本稿ほんこうでは、浄瑠璃の起源きげんをめぐる文献ぶんけん伝承でんしょう整理せいり、古浄瑠璃諸流派しょりゅうは、義太夫節の成立せいりつ近松門左衛門ちかまつもんざえもん紀海音きのかいおん作劇法さくげきほう、さらに合作制がっさくせいと文楽へのながれまでを、専門的せんもんてき視点してんから解説かいせつします。

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浄瑠璃とは?名前の由来から近松門左衛門、文楽への流れまで解説

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浄瑠璃・人形浄瑠璃の歴史年表|古浄瑠璃から義太夫節、文楽まで

この記事の要点

  • 浄瑠璃は、語り物・三味線音楽・人形芝居が結びついた複合芸術です。
  • 名称の由来は、牛若丸と浄瑠璃姫の物語にあるとされています。
  • 古浄瑠璃の諸流派を経て、竹本義太夫が義太夫節を大成しました。
  • 近松門左衛門は、浄瑠璃を劇文学として高い完成度へ引き上げました。
  • その後、合作制や歌舞伎との相互影響を経て、現在の文楽へとつながっていきます。

1. 浄瑠璃の定義と劇文学・音曲としての構造

浄瑠璃という語は、おおきくふたつの意味いみっています。

ひとつは、あやつ人形にんぎょう芝居しばいもちいられる脚本きゃくほん、つまり劇文学としての浄瑠璃。

もうひとつは、三味線を伴奏ばんそうとして太夫たゆうが語る音曲、つまり浄瑠璃節じょうるりぶしとしての浄瑠璃。

二つははなしてかんがえられるものではありません。浄瑠璃の詞章ししょうは、ただ読むための文章ぶんしょうではなく、太夫が語り、三味線がささえ、人形がえんじることを前提ぜんていかれています。浄瑠璃は文字もじとしての文学ぶんがくであると同時どうじに、こえおと身体表現しんたいひょうげんによって完成かんせいする舞台芸術ぶたいげいじゅつなのです。

詞章の構造

文学としての浄瑠璃は、語り物としての性格せいかくつよく持つ劇文学です。本文ほんぶんは、ぶん会話文かいわぶんからりたっています。

地の文:場面ばめん状況じょうきょう登場人物とうじょうじんぶつ心理しんり情景じょうけい、物語の進行しんこうを語る部分ぶぶんであり、三人称的さんにんしょうてきな語りによって、しばしば登場人物の内面ないめんふかく入り込んでいきます。

会話文:登場人物の言葉ことばとして語られ、劇的げきてきなやりとりりや心理の衝突しょうとつあらわします。

二つが太夫の語りによって連続的れんぞくてき処理しょりされるため、浄瑠璃では「叙事じょじ」と「げき」が一体化いったいかするのです。小説しょうせつのように物語を語りながら、同時に演劇えんげきとして人物同士じんぶつどうし葛藤かっとうを見せる構造になっています。

節付ふしづけ文字譜もじふ胡麻章ごまづる

浄瑠璃の正本しょうほんには、太夫が語るための音楽的おんがくてきがかりがされることがあり、「節付」とびます。

※正本とは
太夫が舞台で語るための正しいセリフやト書きが記されたもの

資料しりょうによっては、文字譜や胡麻章と呼ばれる符号ふごうが見られ、語りの抑揚よくよう旋律せんりつてきな処理をしめ役割やくわりを持ちました。ここで重要じゅうようなのは、浄瑠璃の本文が単なる台本だいほんではなく、音声化おんせいかされることを前提とした詞章ししょうだというてんです。文字で読むとしずかな文章に見える部分も、太夫の語りと三味線の音によって、緊張きんちょう哀切あいせついかり・決意けついといった感情かんじょう起伏きふくびます。

韻律いんりつ道行みちゆき景事けいごと

浄瑠璃の文章には、七五調しちごちょう中心ちゅうしんとする韻律文と、比較的自由ひかくてきじゆう散文さんぶん混在こんざいしています。七五調は、き手にリズムをかんじさせ、語り物としてのみみざわりをととのえるはたらきを持ちます。一方いっぽうで散文的な部分は、状況説明じょうきょうせつめい会話かいわ自然しぜんさを支えます。

また、浄瑠璃には「道行」や「景事」と呼ばれる見せがあります。

道行:登場人物が目的地もくてきちかう過程かていを、風景描写ふうけいびょうしゃ心理描写しんりびょうしゃまじえて語る部分であり、単なる移動場面いどうばめんではなく、人物じんぶつ心情しんじょう風景ふうけいかさなり合う、浄瑠璃の詩的魅力してきみりょくが表れやすい箇所かしょです。

景事:人形の舞踊的ぶようてきうつくしさや舞台上ぶたいじょうはなやかさを見せる場面です。詞章、三味線、人形の所作しょさ一体いったいとなり、視覚しかく聴覚ちょうかく両面りょうめんから観客かんきゃくき込む役割を持ちます。

段構成だんこうせい変遷へんせん

浄瑠璃では物語の構成単位こうせいたんいとして「だん」が重要です。古浄瑠璃期には六段構成ろくだんこうせいおおくありましたが、のちに時代物じだいもの世話物せわもので、定型ていけい形成けいせいされていきます。

時代物:歴史上れきしじょう事件じけん軍記物語ぐんきものがたり公家くげ武家社会ぶけしゃかい騒動そうどうなどを題材だいざいとする作品さくひんです。一般いっぱん五段構成ごだんこうせい標準ひょうじゅんとされ、物語の構成こうせい因果関係いんがかんけい、劇的な変化へんか面白おもしろさが重視じゅうしされました。

世話物:当時とうじ町人社会ちょうにんしゃかいの事件や心中しんじゅうなどを題材とする作品です。三段構成さんだんこうせいが標準となり、人物の心情、義理ぎり人情にんじょうの葛藤、町人社会の現実げんじつが中心になります。

2. 起源説きげんせつ初期しょき語り物の文献・伝承

浄瑠璃の名称めいしょうの起源は、牛若丸うしわかまる、つまり源義経みなもとのよしつねと、三河国矢矧みかわのくにやはぎ長者ちょうじゃむすめ浄瑠璃姫じょうるりひめとの恋物語こいものがたりもとめられます。この物語は「浄瑠璃姫物語じょうるりひめものがたり」や「長生殿十二段ちょうせいでんじゅうにだん」と呼ばれ、15世紀中せいきなかごろの室町時代むろまちじだいには、三河地方みかわちほうを中心にひろつたわっていたと考えられています。

ただし、浄瑠璃の起源を語る資料には、後世こうせいの伝承や説話的せつわてきな説明もたぶんにふくまれます。歴史的事実れきしてきじじつとしてあつかうかには注意ちゅうい必要ひつような伝承です。

起源をめぐる関連文献かんれんぶんけんと伝承

浄瑠璃姫伝説でんせつの広がりについては、『岡崎市史おかざきしし』や『瑠璃光山安西寺略記るりこうざんあんさいじりゃっき』などに、伝説の地や由緒ゆいしょかかする記述が見られます。また、五山僧ござんそう万里集九ばんりしゅうく詩文集しぶんしゅう梅花無尽蔵ばいかむじんぞう』にも関連かんれんする記述が確認かくにんでき、三河地方における浄瑠璃姫伝説の流布るふを考える重要な手がかりとなります。

他に、日記宗長日記そうちょうにっき』や俳諧集『守武千句もりたけせんく』などからは、15世紀の半ばごろから後、この物語が語り物としてられ、しだいに普及ふきゅうしていった様子ようすがうかがえます。

能の専門書『猿轡さるぐつわ』には、文安年間ぶんあんねんかん(1444ねんから1449年ごろ)に宇田勾当うだこうとうが散佚本『やすだ物語』を語ったという記述もあります。ここからは、盲人音楽家もうじんおんがくかである勾当こうとう検校けんぎょうらが、初期の語り物文化ぶんかに関わっていた可能性かのうせいが読み取れます。

ただし、これらはすべておな性質せいしつの資料ではありません。

同時代どうじだいちか記録きろく、後世の編纂資料へんさんしりょう寺社じしゃ由緒書ゆいしょがき芸能史的げいのうしてきな伝承が混在しているため、まとめて「一次史料いちじしりょう」ではなく、関連文献・伝承資料でんしょうしりょうという扱いが適切てきせつです。

小野おのつうせつの扱い

浄瑠璃の起源をめぐっては、文禄年間ぶんろくねんかん織田信長おだのぶなが侍女じじょであった小野お通が、牛若丸と浄瑠璃姫の物語を十二段構成じゅうにだんこうせい仕立したてたという説もあります。この説では、薬師如来やくしにょらい十二神将じゅうにしんしょう十二因縁じゅうにいんねん道理どうりにちなみ、「十二段じゅうにだん」の構成がつくられたと説明されます。

しかし、この小野お通説は、近世以降きんせいいこうに広まった伝承的でんしょうてき俗説的ぞくせつてき側面そくめんが強いと考えられます。そのため、本文で扱う場合ばあいは「一説いっせつには」「伝えられる」といった表現ひょうげんにとどめ、確定かくていした史実しじつとして断定だんていできる内容ではありません。

説経節せっきょうぶし平曲へいきょくとの関係かんけい

初期の浄瑠璃は、内容面ないようめんでは説経節の影響を強くけていました。説経節は、仏教説話ぶっきょうせつわ霊験譚れいげんたん悲劇的ひげきてき運命うんめいを語る芸能であり、庶民しょみん信仰しんこうや感情に深くうったえる語り物でした。浄瑠璃姫物語にも、恋愛物語れんあいものがたりでありながら、仏教的ぶっきょうてき救済きゅうさい因縁いんねん感覚かんかく色濃いろこく見られます。

音曲めんでは、平曲、つまり平家琵琶へいけびわの影響が指摘してきされています。初期の浄瑠璃は、琵琶びわを伴奏とすることもあり、またおおぎひらいて左手ひだりてに持ち、右手みぎて爪先つまさきで扇のほねをかきらして拍子ひょうしを取る「扇拍子おうぎびょうし」によって語られることもありました。

この段階だんかいでは、まだ三味線や人形芝居とは結びついていません。浄瑠璃はまず、物語を語る芸能として成立し、そののちに音楽・人形と結びついて演劇化えんげきかしていったのです。

3. 三味線・人形の結合けつごうと「古浄瑠璃」の成立

慶長けいちょう元和げんな年間ねんかん、つまり17世紀初頭せいきしょとうになると、浄瑠璃は大きな転機てんきむかえます。それまで独立どくりつしていた「太夫の語り」「三味線の伴奏」「人形の操り」が結びつき、人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりという演劇形態えんげきけいたいが成立していきました。

この結合によって、浄瑠璃は単なる語り物から、脚本性きゃくほんせいを持つ舞台芸術へと発展します。

三味線の導入どうにゅう

三味線の原型げんけいとなる三絃さんげんは、中国ちゅうごくで成立し、16世紀後半せいきこうはんまでには日本へ伝わっていたとされます。伝来経路でんらいけいろには諸説しょせつがありますが、琉球りゅうきゅう三線さんしん本土ほんどに入り、日本独自にほんどくじの三味線へと改良かいりょうされていったという説明が一般的いっぱんてきです。

ふるい資料には、石村検校いしむらけんぎょう蛇皮線じゃびせんを改良し、猫皮ねこがわることで三味線を整えたとする伝承も見られます。ただし、これも三味線成立をめぐる伝承的な説明として扱うべきものです。確定した史実として断定するのは難しく、三味線が近世初期きんせいしょきに浄瑠璃の伴奏楽器ばんそうがっきとして定着ていちゃくしていった歴史的れきしてきな流れを重視した方がよいでしょう。

三味線がくわわったことで、浄瑠璃は琵琶や扇拍子による語りとはことなる劇的な表現力ひょうげんりょくました。三味線の音は、人物の感情、場面の緊迫きんぱく移動いどうや変化のリズムを支え、太夫の語りに強い抑揚をあたえました。

人形操にんぎょうあやつりとの結合

人形操りのがわでは、西宮にしのみや傀儡師くぐつしたちの存在そんざいが重要です。傀儡師は、もともと人形を操って門付かどづけや芸能活動げいのうかつどうおこなっていた人々ひとびとであり、その技術ぎじゅつ三味線浄瑠璃しゃみせんじょうるりと結びつくことで、人形芝居としての浄瑠璃が形成されていきました。資料には、源之丞げんのじょうらの名前なまえも見えます。

太夫が語り、三味線が音楽を支え、人形がうごく。このみっつが結びついたことで、浄瑠璃は視覚的しかくてきにも聴覚的ちょうかくてきにもゆたかな総合芸術そうごうげいじゅつになりました。

古浄瑠璃とはなに

竹本義太夫たけもとぎだゆうによる義太夫節の成立以前せいりついぜんの浄瑠璃は、一般に「古浄瑠璃」と呼ばれます。

古浄瑠璃は、後の義太夫節とくらべると、詞章ししょうや構成がまだ素朴そぼくで、戯曲性ぎきょくせい十分じゅうぶんには成熟せいじゅくしていないとされます。

その一方で、古浄瑠璃の時代じだいには江戸えど京都きょうと大坂おおさか三都さんと多様たよう流派りゅうはならち、地域ちいきごとのこのみや気風きふう反映はんえいした豊かな音曲文化がまれました。この古浄瑠璃の蓄積ちくせきがなければ、義太夫節の大成たいせいも、近松門左衛門の劇文学も成立しなかったといえます。

4. 古浄瑠璃の展開てんかい――江戸浄瑠璃えどじょうるり上方浄瑠璃かみがたじょうるり

古浄瑠璃期には、江戸・京都・大坂でそれぞれ異なる流派が発達はったつしました。

大まかにいえば、江戸では勇壮ゆうそう豪快ごうかいな語りが好まれ、上方かみがたでは情緒的じょうちょてき繊細せんさいな語りが発展しました。もちろん、これは単純たんじゅん東西対比とうざいたいひにすぎませんが、浄瑠璃の流派を理解りかいするうえでは有効ゆうこうな整理です。

江戸浄瑠璃と薩摩浄雲さつまじょううん

江戸浄瑠璃の発展において重要な人物が、京都から江戸へくだった薩摩浄雲です。

薩摩浄雲は、中橋広小路なかばしひろこうじ芝居小屋しばいごやてたとされ、江戸における浄瑠璃興行こうぎょう基礎きそを作りました。また、島津家しまづけ、すなわち薩摩藩さつまはんとの関係から、舞台ぶたいまく十文字紋じゅうもんじもんを用いることが許されたと伝えられ、「薩摩さつま太夫」ともしょうされました。

このあたりの記述には伝承的要素でんしょうてきようそも含まれるため、細部さいぶをすべて確定的かくていてきに扱うことはけるべきですが、薩摩浄雲が江戸浄瑠璃の展開に大きな役割をたしたことは重要です。

金平節きんぴらぶし流行りゅうこう

江戸浄瑠璃の代表的だいひょうてきな流れのひとつに、金平節があります。

金平節は、坂田金時さかたのきんときという設定せってい架空かくう英雄えいゆう坂田金平さかたのきんぴら主人公しゅじんこうとし、超人的ちょうじんてきちからや豪快な武勇ぶゆうを語る作風さくふうでした。岡清兵衛おかせいべえ作『うぢのひめきり(宇治の姫切)』などが知られ、和泉太夫いずみだゆう桜井丹波少掾さくらいたんばしょうじょうらによって語られました。

金平節の特徴とくちょうは、勇壮で誇張こちょういた語りです。超人的な英雄が活躍かつやくする物語は、江戸の荒々あらあらしく活気かっきある都市文化としぶんか相性あいしょうがよく、多くの人気にんきあつめました。

江戸諸流えどしょりゅう歌舞伎浄瑠璃かぶきじょうるりへの接続せつぞく

江戸ではその後、大薩摩節おおざつまぶし外記節げきぶし式部節しきぶぶし土佐節とさぶし手品節てづまぶし江戸節えどぶし半太夫節はんだゆうぶし河東節かとうぶしなど、さまざまな流派が展開しました。これらの流れの一部いちぶは、後に歌舞伎かぶきの伴奏音楽や舞踊劇ぶようげきと深く結びついていきます。つまり江戸浄瑠璃は、人形芝居だけでなく、歌舞伎浄瑠璃の形成にも大きな影響を与えたのです。

上方浄瑠璃と井上播磨掾いのうえはりまじょう

一方、上方では、井上播磨掾が大坂重要人物じゅうようじんぶつとしてあらわれます。井上播磨掾の播磨節はりまぶしは、声量せいりょうかした力強ちからづよい語りを特徴としました。

資料では、音を表にし、ふしうらく語りくちとして説明されることがあります。これは、後の義太夫節にも影響を与えた重要な流れです。大坂という商業都市しょうぎょうとしでは、力強い語りと劇的な展開が好まれ、播磨節はその土壌どじょう適合てきごうしました。

宇治加賀掾うじかがじょう加賀節かがぶし

京都では、宇治加賀掾が重要な役割を果たします。宇治加賀掾は、伊勢島宮内いせしまくないもんから出た人物とされ、加賀節を語りました。

その芸風げいふうは、播磨節の力強さとは異なり、節回ふしまわしをこまやかにし、繊細で美しい語り口を特徴としました。資料では「よわよわ」「たよたよ」と表現されることもあり、京都的きょうとてき洗練せんれん哀調あいちょうを感じさせる芸風だったと考えられます。

宇治加賀掾は『牛若千人切うしわかせんにんぎり』『平安城へいあんじょう』などを語り、古浄瑠璃から新浄瑠璃へ向かう過渡期かときの太夫として位置いちづけられます。かれ功績こうせきは、浄瑠璃の文学性と音曲性をたかめた点にあります。

上方諸流しょりゅう派生はせい

上方の浄瑠璃は、角太夫節かくだゆうぶし文弥節ぶんやぶし一中節いっちゅうぶしなどへと展開していきました。

角太夫節から文弥節が出て、さらに一中節へと展開し、豊後節ぶんごぶしけいの流れから常磐津ときわず富本とみもと清元きよもとなど、歌舞伎舞踊ぶよう劇場音楽げきじょうおんがくと結びつく浄瑠璃系音曲が発展していきます。

注意したいのは、常磐津や清元を単純に「座敷浄瑠璃ざしきじょうるり」と呼んでしまうと整理があらくなることです。これらは歌舞伎舞踊や劇場音楽と深く結びついた歌浄瑠璃うたじょうるりとして理解した方が自然です。

一方で、舞台演出や人形の動きをともなわず、音曲として座敷ざしき演奏会えんそうかいたのしまれる浄瑠璃を座敷浄瑠璃と呼ぶことができます。

5. 義太夫節の大成と新浄瑠璃の成立

1684年、貞享じょうきょう元年がんねんに竹本義太夫が大坂道頓堀おおさかどうとんぼり竹本座たけもとざ創設そうせつすると、浄瑠璃は新たな段階に入ります。この時期以降じきいこうの浄瑠璃は、古浄瑠璃にたいして「新浄瑠璃」とも呼ばれます。

義太夫節の成立は、単なる新流派しんりゅうは登場とうじょうではありませんでした。それは、古浄瑠璃の諸流派が蓄積してきた語り、節回し、劇的表現げきてきひょうげん総合そうごうし、人形芝居の音楽として高度こうどに完成させる出来事できごとでした。

義太夫節の音曲的特徴

竹本義太夫は、はじめ井上播磨掾の門人もんじんである清水理兵衛しみずりへえまなび、のちに宇治加賀掾の門にも入ったとされます。播磨節は、声量を活かした力強い語りを特徴としました。一方、加賀節は、繊細で美しい節回しを特徴としました。

義太夫ぎだゆうは、この二つの長所ちょうしょを取り入れ、力強さと繊細さをそなえた語りを作り上げました。資料では、播磨掾はりまじょうの語りを「音を表とし、節を裏とする」、宇治加賀掾の語りを「節を表とし、音を裏とする」と説明することがあります。義太夫節は、その両者りょうしゃを総合し、劇的な緩急かんきゅう、人物の心理表現しんりひょうげん場面転換ばめんてんかん迫力はくりょくを備えた浄瑠璃節として成立しました。

竹本座と『出世景清しゅっせかげきよ

竹本義太夫の名声めいせい決定けっていづけた作品の一つが、近松門左衛門作の『出世景清』です。1685年に竹本座で上演じょうえんされたこの作品は、近松門左衛門と竹本義太夫の初期の重要な提携作ていけいさくとされます。

ここで大事だいじなのは、近松ちかまつ詞章ししょうが、義太夫の語りと人形芝居の構造を前提に書かれていた点です。つまり、近松の浄瑠璃は、ただ文学としてすぐれていたのではなく、太夫が語り、人形が動く舞台のために設計せっけいされた劇文学でした。この点が、近松を近世演劇史きんせいえんげきし中心的存在ちゅうしんてきそんざいとして扱われる理由りゆうです。

6. 近松門左衛門と紀海音きのかいおん――「じょう」と「知」の作劇さくげき

義太夫節の成立によって、浄瑠璃は音曲としての完成度かんせいどを高めました。そして、近松門左衛門の登場によって、浄瑠璃は劇文学としても大きく飛躍ひやくします。

近松は、作者さくしゃの存在を大きくに知らしめた人物です。近松以前ちかまついぜんにも作者はいましたが、近松は太夫の芸風、人形の動き、観客の期待きたいまえながら、文学的修辞ぶんがくてきしゅうじ劇的構成げきてきこうせいを高い水準すいじゅんで結びつけました。

近松門左衛門の作劇

近松の浄瑠璃では、封建社会ほうけんしゃかい規範きはんと、個人こじんの感情が衝突します。ここで重要なのが「義理」と「人情」です。

義理:社会しゃかい秩序ちつじょいえ身分みぶん商売しょうばい約束やくそく世間体せけんていなど、ひとしたがわなければならない規範。

人情:恋愛れんあい親子おやこの情、夫婦ふうふの情、にくしみ、嫉妬しっと執着しゅうちゃくあわれみなど、人間にんげんがどうしてもいだいてしまう感情。

近松の世話物では、この義理と人情が衝突し、登場人物はげ場のない葛藤にい込まれます。そのくるしみを、近松は詩的してき詞章ししょうによって美しくえがき出しました。

紀海音きのかいおん豊竹座とよたけざ

近松に対抗たいこうする存在として重要なのが、豊竹座の作者であった紀海音です。竹本座に近松がいたように、豊竹座には紀海音がいました。紀海音は、豊竹若太夫とよたけわかたゆう芸質げいしつを活かしながら、『椀久末松山わんきゅうすえのまつやま』『八百屋やおやしち』『心中二しんじゅうふた腹帯はらおび』などの作品を書きました。

近松が人情の流れを詩的に描く「情」の作家さっかだとすれば、紀海音は複雑ふくざつ人間感情にんげんかんじょうを整理し、論理的ろんりてきみ立てる「知」の作家といえます。この対比たいひ単純化たんじゅんかではありますが、両者の作劇法のちがいを理解するうえで利用できます。

近松は情感じょうかんの高まりによって観客を引き込み、紀海音は感情の構造を組み立てることで劇的な説得力せっとくりょくを生み出しました。

竹本座と豊竹座の競争きょうそうは、太夫、三味線、人形遣にんぎょうづかい、作者のすべてに刺激しげきを与え、浄瑠璃の芸術的水準げいじゅつてきすいじゅんを高めていきます。

7. 近松戯曲ちかまつぎきょく二大にだいジャンル――時代物と世話物

近松の作品は、大きく時代物と世話物にけられます。この二つは、題材だけでなく、構造や人物造形じんぶつぞうけいにも違いがあります。

時代物

時代物は、過去かこの歴史、軍記物語、公家・武家社会の騒動などを題材にした作品です。

ここでいう歴史は、現代げんだいの意味での厳密げんみつ史実再現しじつさいげんではありません。多くの場合、過去の出来事をりながら、当時の社会や人間関係にんげんかんけいうつし出す構造になっています。

人物造形は類型的るいけいてきになりやすく、善悪ぜんあくが誇張され、神仏しんぶつ加護かご超人間的ちょうにんげんてきな救済が描かれることもあります。

代表作だいひょうさくが『国性爺合戦こくせんやかっせん』です。
『国性爺合戦』は1715年に竹本座で初演しょえんされ、大きな評判ひょうばんを呼び、17か月連続かげつれんぞくで上演されたとされます。これは近松の時代物を代表だいひょうするだけでなく、人形浄瑠璃の興行史こうぎょうしを語る上でも重要な作品です。

世話物

世話物は、当時の町人社会を舞台にした作品です。

心中事件、家庭内かていないの葛藤、商家しょうかの義理、男女関係だんじょかんけいなど、市井しせいの人々の現実に近い題材を扱います。代表作には、『曽根崎心中そねざきしんじゅう』『冥途めいど飛脚ひきゃく』『心中天しんじゅうてん網島あみじま』『女殺油地獄おんなころしあぶらのじごく』『心中宵庚申しんじゅうよいごうしん』などがあります。

世話物の特徴は、登場人物が英雄や貴人きじんではなく、町人ちょうにん遊女ゆうじょ商人しょうにん家族かぞくなかにいる平凡へいぼんな人々であることです。彼らは、社会的しゃかいてきな規範と個人的こじんてきな感情の間で追いめられます。

近松は、その葛藤を単なる事件としてではなく、人間存在にんげんそんざい普遍的ふへんてき悲劇ひげきとして描きました。

西鶴さいかくとの対比

近松の人間描写にんげんびょうしゃを考えるうえで、同じ時代を生きた井原西鶴いはらさいかくとの対比がされます。

西鶴は浮世草子うきよぞうしの中で町人社会の欲望よくぼう愛欲あいよくを、比較的冷静ひかくてきれいせい観察かんさつし、写実的しゃじつてきに描きました。

一方、近松は同じように町人社会の愛欲や事件を扱いながら、それをうるわしい詞章によって美化びかし、人情の悲劇として描きました。

西鶴が社会を観察する作家だとすれば、近松は人情を劇化げきかする作家だったといえます。

上方言葉かみがたことばの広がり

近松作品ちかまつさくひんが広く上演・享受きょうじゅされたことは、舞台言語ぶたいげんごとしての上方言葉が各地かくちに知られる一因いちいんにもなりました。

「近松が上方言葉を全国ぜんこくに広めた」と単純に断定するのではなく、浄瑠璃や歌舞伎などの舞台芸能ぶたいげいのうが、上方言葉の知名度ちめいどを高める役割を持った、と考える方ができます。

浄瑠璃は物語を広めるだけでなく、言葉、感情表現かんじょうひょうげん町人文化ちょうにんぶんかかたを広める媒体ばいたいでもあったのです。

8. 合作制への移行いこう舞台技巧ぶたいぎこうの展開

18世紀半せいきなかば、宝暦ほうれき前後ぜんごになると、浄瑠璃は新たな段階に入ります。

近松や紀海音のような単独作家たんどくさっかの時代から、複数ふくすうの作者が各段かくだん分担ぶんたんして書く合作制へと移行していきました。

合作制は、現代風げんだいふうにいえばチームライティングです。複数の作者がそれぞれの段を担当たんとうすることで、作品は長大化ちょうだいかし、複雑化ふくざつかしていきます。

三大名作さんだいめいさく誕生たんじょう

この時期じきには、現在げんざいでも文楽や歌舞伎で重要な演目えんもくとされる名作めいさくが生まれました。代表的なものが、『菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ』『義経千本桜よしつねせんぼんざくら』『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら』です。

『菅原伝授手習鑑』と『義経千本桜』は延享えんきょう年間、『仮名手本忠臣蔵』は寛延かんえん年間に成立しました。これらはいずれも、複数の作者による合作がっさくであり、二代目竹田出雲にだいめたけだいずも並木千柳なみきせんりゅう三好松洛みよししょうらくらの名前が関わります。また、近松半二ちかまつはんじも、後の技巧化ぎこうかした浄瑠璃を代表する作者として重要です。

技巧展開期ぎこうてんかいきの特徴

合作制の時代には、一篇全体いっぺんぜんたい文学的統一性ぶんがくてきとういつせいよりも、各段ごとの見せ場、奇抜きばつ趣向しゅこう、複雑な因果関係、どんでんかえし、舞台上のスペクタクルが重視されるようになります。

その結果けっか、作品は長編化ちょうへんかし、観客をおどろかせる技巧ぎこうが発達しました。これは浄瑠璃の魅力みりょくを広げる一方で、近松の世話物に見られたような、凝縮ぎょうしゅくされた人情描写びょうしゃとは異なる方向ほうこうへの変化でもありました。

9. 歌舞伎との相互影響そうごえいきょう古典芸能化こてんげいのうか

18世紀半ば以降いこう、浄瑠璃と歌舞伎はますます強く影響し合うようになります。浄瑠璃で評判になった作品は、歌舞伎の舞台に取り入れられました。これがいわゆる丸本歌舞伎まるほんかぶきです。

丸本歌舞伎とは、人形浄瑠璃の台本である丸本まるほんをもとにして、歌舞伎の演目として上演する形式けいしきです。浄瑠璃の緻密ちみつな構成と劇的な展開は、歌舞伎にとっても魅力的みりょくてきな題材でした。

浄瑠璃の歌舞伎

一方で、浄瑠璃側も歌舞伎の影響を受けます。歌舞伎的なケレン、視覚的な派手はでさ、役者芸やくしゃげいに近い見せ場が、浄瑠璃にも取り込まれていきます。

この相互影響は、舞台芸術としての浄瑠璃を華やかにした一方で、語り物としての本来ほんらいの性格をよわめる面もありました。

浄瑠璃は歌舞伎と影響し合うことで興行的こうぎょうてきな力をしながらも、みずからの文学的ぶんがくてき・音曲的本質てきほんしつを変化させていったのです。

天明てんめい期以降きいこうの変化

18世紀後半、天明期以降になると、浄瑠璃の創作力そうさくりょくはしだいに弱まっていきます。新しい劇世界げきせかい本格的ほんかくてき創造そうぞうするよりも、旧作きゅうさく改作かいさくや、観客の意表いひょうく趣向にたよ傾向けいこうが強くなりました。

艶容女舞衣はですがたおんなまいぎぬ』『摂州合邦辻せっしゅうがっぽうがつじ』『競伊勢物語はでくらべいせものがたり』などは、そうした時期の作品として位置づけられます。また、『国言詢音頭くにことばくどきおんど』のように、残酷ざんこくさや扇情性せんじょうせいを強くち出す作品も現れます。

もちろん、これを単純に「退廃たいはい」とだけ見る必要はありません。観客の嗜好しこうが変化し、興行の競争がはげしくなる中で、浄瑠璃が刺激的しげきてき演出えんしゅつや改作に向かったことは、時代の要請ようせいでもありました。しかし、近松や紀海音の時代に見られたような、劇文学としての新しい創造力そうぞうりょくは、しだいに弱まっていったと考えられます。

文楽への流れ

こうして浄瑠璃は、新しい流行を生み出す大衆娯楽たいしゅうごらくとしての性格を徐々じょじょうすめていきます。その一方で、太夫、三味線、人形遣いの技芸ぎげいは高度に洗練され、定型化ていけいかされていきました。

この固定化こていかは、単なる衰退すいたいではありません。新作しんさく次々つぎつぎに生み出す芸能から、古典作品こてんさくひん継承けいしょうし、型とわざみがき上げる芸能へと性格をえていったのです。

現在の文楽は、その流れのさきにあります。文楽は、太夫、三味線、人形の三業さんぎょうが一体となる芸能であり、近世きんせい浄瑠璃の蓄積を現代に伝える古典芸能こてんげいのうです。

浄瑠璃の歴史は、語り物から人形芝居へ、古浄瑠璃から義太夫節へ、そして大衆娯楽から文楽という古典芸能へと変化していきました。

補足ほそく:浄瑠璃の分類ぶんるい

浄瑠璃は、人形芝居だけにかぎられるものではありません。日本の伝統音楽でんとうおんがくや演劇の中に深くを張り、演奏形態えんそうけいたい用途ようとによっていくつかのかたちに分けられます。

人形浄瑠璃

太夫、三味線、人形の三者さんしゃが一体となって劇場げきじょうで上演される浄瑠璃です。現在の文楽につながる代表的な形です。

歌舞伎浄瑠璃

古浄瑠璃や義太夫節、あるいは常磐津・清元などの浄瑠璃系音曲が、歌舞伎の舞台伴奏ぶたいばんそうや舞踊劇と結びついて発展したものです。歌舞伎の演技えんぎや舞踊を支える音楽として、浄瑠璃は大きな役割を果たしました。

座敷浄瑠璃

舞台演出や人形の動きを伴わず、音曲としてかせることを目的もくてきとした浄瑠璃です。座敷や演奏会などで楽しまれ、劇場芸能げきじょうげいのうとは異なる形で浄瑠璃の音楽性おんがくせいを伝えました。

まとめ

浄瑠璃は、牛若丸と浄瑠璃姫の物語を語る芸能からはじまりました。初期には説経節や平曲の影響を受け、琵琶や扇拍子によって語られていました。

やがて三味線と人形操りが結びつき、人形浄瑠璃という演劇形態が成立します。古浄瑠璃期には、江戸・京都・大坂で多様な流派が並び立ち、薩摩浄雲、井上播磨掾、宇治加賀掾らがそれぞれの芸風を発展させました。

その蓄積をもとに、竹本義太夫が義太夫節を大成し、近松門左衛門が劇文学としての浄瑠璃を高めます。さらに豊竹座の紀海音、合作制の時代、歌舞伎との相互影響を経て、浄瑠璃は文楽へとつながる古典芸能へ姿すがたを変えていきました。

浄瑠璃の歴史とは、文学・音楽・演劇がたがいに結びつき、時代の娯楽ごらくとして発展し、やがて伝統芸能でんとうげいのうとして継承されていく過程そのものなのです。

参考文献・参考資料

本記事は、浄瑠璃・近松門左衛門・江戸時代の演劇文化に関する以下の文献・資料をもとに、初心者向けに要点を整理したものです。

  • 『万有百科大事典』
  • 『日本英雄伝 第10巻』
  • 『日本偉人信仰実伝』
  • 『世界二百文豪』
  • 『東西文芸評伝』昭和4年
  • 『日本歴史人名辞典』
  • 『近世日本国民史 第19 元禄時代 下巻 世相篇』
  • 『浪華人物誌 4』
  • 『日本文化の発達』魚澄惣五郎 著
  • 『国民日本歴史 新修』
  • 『概観日本通史』
  • 『兵庫県郷土人物誌 第1輯』昭和17年
  • 文化デジタルライブラリー