日本の伝統芸能を代表する「浄瑠璃」。現在では少し難しそうに感じるかもしれませんが、江戸時代には多くの人が楽しんだ人気の芸能でした。
最初から、現在の文楽のように人形を使っていたわけではありません。もともとは物語を声で語る芸能で、そこへ三味線が加わり、さらに人形芝居と結びつきながら発展していきました。
この記事では、浄瑠璃という名前がどこから生まれたのか、人形浄瑠璃がどのように成立したのか、竹本義太夫や近松門左衛門の時代を経て、現在の文楽へどうつながったのかを順番に見ていきます。
初心者向けの記事なので、人物や流派の名前はできるだけ絞っています。もう少し詳しい歴史を知りたい方は、次の記事もあわせてご覧ください。
⇒ 古浄瑠璃から義太夫節、文楽へ|劇文学として読む浄瑠璃の歴史を詳しく
年代を表で確認したい方は
⇒ 浄瑠璃・人形浄瑠璃の歴史年表|古浄瑠璃から義太夫節、文楽まで
目次
1. 浄瑠璃とは?名前は一つの物語から広がった
浄瑠璃は、物語を節のついた声で語る「語り物」の一つです。のちには三味線の伴奏が加わり、人形芝居や歌舞伎とも結びついていきました。
現在「浄瑠璃」という言葉は、語られる物語そのものを指す場合もあれば、三味線に合わせて語る音楽である「浄瑠璃節」を指す場合もあります。
始まりにあったのは牛若丸と浄瑠璃姫の物語
「浄瑠璃」という少し変わった名前は、室町時代に広まった『浄瑠璃姫物語』に由来するとされています。
物語の中心となるのは、のちの源義経である牛若丸と、三河国の長者の娘・浄瑠璃姫です。
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この物語が語り物として人気を集めたため、やがて『浄瑠璃姫物語』だけではなく、同じような方法で語られる物語そのものを「浄瑠璃」と呼ぶようになったと考えられています。
一つの作品名が、やがて芸能全体の名前になったことになります。現在から見ると、ここは少し意外なところです。
初期の浄瑠璃では、現在のような三味線はまだ使われていませんでした。琵琶などの楽器や簡単な拍子に合わせて語られ、仏教説話や軍記物語など、すでに人々に知られていた物語も題材となっていきます。
小野お通が『浄瑠璃姫物語』を十二段にまとめたという伝承もあります。ただし、小野お通そのものに不明な点が多く、浄瑠璃の成立を一人の人物に結びつけるより、後世に生まれた伝承の一つとして見たほうがよさそうです。
2. 三味線が加わり、人形芝居と結びついていく
室町時代には語りを中心としていた浄瑠璃ですが、16世紀末から17世紀にかけて大きく姿を変えていきます。
その変化の一つが三味線です。
三味線が日本に伝わって広まると、浄瑠璃の伴奏にも使われるようになりました。三味線は、静かな場面と激しい場面の違いや、登場人物の感情などを音で表現しやすい楽器でした。
語りを担当する太夫、音を担当する三味線、人形による演技。この三つが組み合わさって、人形浄瑠璃が発達していきました。
さらに、浄瑠璃の語りと人形芝居が結びつきます。
この過程では、西宮などを拠点として活動した人形遣いの存在も重要だったとされています。各地を巡っていた人形芝居と浄瑠璃が結びつき、17世紀初めごろには人形を使った浄瑠璃芝居が各地で行われるようになりました。
ここで気をつけたいのは、「ある年に突然、人形浄瑠璃が発明された」という形ではないことです。
語り物、三味線、人形芝居という、それぞれ別に存在していた芸能が少しずつ結びつき、現在につながる形へ発展していったと考えたほうが分かりやすいでしょう。
3. さまざまな浄瑠璃が競い合った江戸時代前期
江戸時代前期になると、浄瑠璃は京都、大坂、江戸などで人気を集め、多くの太夫や流派が登場しました。
このころの浄瑠璃は、現在のように義太夫節だけが中心だったわけではありません。語り方や音楽表現の異なる流派があり、それぞれが観客を集めていました。
後世から見ると、浄瑠璃の歴史は竹本義太夫から始まったように見えることがあります。しかし義太夫が登場したときには、すでに長い浄瑠璃の歴史があり、その上に新しい語り方を作ったことになります。
4. 竹本義太夫と近松門左衛門|大坂で大きく変わる浄瑠璃
17世紀後半になると、大坂の道頓堀を中心に浄瑠璃はさらに大きく発展します。
その中心人物の一人が、竹本義太夫です。
義太夫は、それまでに存在したさまざまな浄瑠璃の表現を取り入れながら、人物のせりふから地の文、激しい場面から静かな場面まで、一人の太夫が幅広く語り分ける方法を発達させました。
この語り方が、のちに「義太夫節」と呼ばれるようになります。
貞享元年(1684年)、義太夫は大坂の道頓堀に竹本座を開きました。
翌1685年には、近松門左衛門の『出世景清』を上演します。
義太夫の語りと近松の物語が結びついたことで、浄瑠璃は音楽として聞かせるだけでなく、登場人物の行動や感情を追う劇としても発展していきました。
義太夫節はその後、大坂の人形浄瑠璃で大きな力を持つようになります。現在の文楽でも、基本となっているのはこの義太夫節です。
近松は何を変えたのか
近松門左衛門以前にも、浄瑠璃のための物語を書く人はいました。
近松が特徴的なのは、太夫の語り、三味線、人形の動きを意識しながら、人物の性格や感情、事件の積み重なりを一つの劇として組み立てたところです。
近松は歌舞伎の作者としても活動していました。そのため、人が舞台でどのように話し、動けば感情が伝わるのかという経験も、浄瑠璃作品に生かされたと考えられています。
近松の作品を見ると、大きく「時代物」と「世話物」という二つの分野があります。
歴史や伝説を扱う「時代物」
時代物は、過去の歴史や武家社会、伝説などをもとにした作品です。
実際の歴史をそのまま舞台にするというより、歴史上の人物や事件を使いながら、舞台として楽しめる大きな物語へ作り直されることもありました。
代表作:『国性爺合戦』
正徳5年(1715年)に竹本座で上演された作品で、中国を舞台にした大きな物語です。
『国性爺合戦』は長期間にわたって上演される大当たりとなりました。近松というと心中物の印象が強いのですが、当時もっとも大きな人気を得た作品の一つが、このような時代物だったことは覚えておいてもよさそうです。
同じ時代の町人を描いた「世話物」
世話物では、近松と同じ時代を生きていた町人たちの生活や事件が描かれます。
商売の失敗、借金、奉公、家族、男女の関係、世間からの信用など、歴史上の英雄とは違う身近な問題が物語になります。
代表作:『曽根崎心中』『心中天網島』
近松の世話物を説明するときには、「義理と人情」という言葉がよく使われます。
義理は、家族や商売、主人との関係、世間からの信用など、その人物が簡単には捨てられない社会的な関係です。
人情は、好きな人と一緒にいたい、相手を助けたい、逃げたいといった、人間の素直な感情として見ると分かりやすいでしょう。
近松作品では、一つの問題だけで人物が追いつめられるとは限りません。お金、家族、仕事、人間関係などが重なり、どの道を選んでも別の問題が起こる状態になっていきます。
「義理と人情」という言葉だけを覚えるより、登場人物にはなぜ別の選択が難しかったのかを見たほうが、近松の物語は分かりやすくなります。
5. 近松のあと、人形浄瑠璃はさらに大きくなる
近松が亡くなった1724年で、人形浄瑠璃の発展が終わったわけではありません。
むしろ18世紀前半から中ごろには、人形の操作方法や舞台装置がさらに発達し、作品も複雑になっていきました。
一人の作者が最初から最後まで書く作品だけでなく、複数の作者が分担する合作も増えていきます。
この時代には、『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』など、現在でも繰り返し上演される作品が生まれました。
現在から見ると近松の時代が最盛期のように思えますが、人形浄瑠璃の舞台技術や長編作品の作り方という点では、その後もかなり発展しています。
このころには歌舞伎との競争も激しくなりました。
興味深いのは、人形浄瑠璃と歌舞伎が完全に別々に発達したのではないことです。
人形浄瑠璃で人気になった作品が歌舞伎へ取り入れられることもあれば、歌舞伎の演出が人形芝居へ影響することもありました。競争相手でありながら、お互いの人気作品や表現を取り入れる関係でもあったようです。
6. 大衆芸能だった人形浄瑠璃から、現在の文楽へ
18世紀後半になると、大坂では人形浄瑠璃の勢いが以前ほどではなくなり、歌舞伎の人気が強くなっていきます。
ただし、この変化を「浄瑠璃が衰退して終わった」と見るだけでは、その後の流れが分かりにくくなります。
新作だけで観客を集める時代から、過去に作られた優れた作品を繰り返し上演し、太夫の語りや三味線、人形遣いの技術を受け継ぐことが重視される時代へ、少しずつ性格が変わっていったように見えます。
19世紀になると、こうした人形浄瑠璃の上演を支えた劇場の一つとして「文楽」の名が知られるようになります。
その後、「文楽」という名称が大坂の人形浄瑠璃を代表する呼び名として定着し、現在へ受け継がれています。
室町時代の一つの語り物から始まった「浄瑠璃」という名前が、三味線、人形芝居、劇作家、太夫、人形遣いなど多くの人々の仕事を取り込みながら、数百年後の文楽までつながっていることになります。
補足:浄瑠璃は人形芝居だけではない
現在は「浄瑠璃」と聞くと文楽を思い浮かべることが多いのですが、浄瑠璃そのものは人形芝居だけを指す言葉ではありません。
江戸時代には多くの流派が生まれ、人形芝居だけでなく、歌舞伎や舞踊、座敷での演奏などにも広がっていきました。
人形浄瑠璃
太夫の語り、三味線、人形の演技を組み合わせて物語を上演する形です。大坂で発達した義太夫節による人形浄瑠璃が、現在の文楽へつながっています。
歌舞伎で使われる浄瑠璃
歌舞伎では、義太夫節のほか、常磐津節、清元節などの浄瑠璃が、舞踊や物語の場面で使われています。人形が登場しなくても、浄瑠璃の音楽は歌舞伎の中に残っています。
人形を使わずに聞く浄瑠璃
浄瑠璃は語りと三味線だけでも演奏できます。劇場の人形芝居だけではなく、座敷などで音曲そのものを聞いて楽しむ形もありました。
浄瑠璃の歴史をもう少し詳しく見るなら
この記事では、初めて浄瑠璃を知る人向けに、人物や流派をかなり絞って紹介しました。
実際の歴史を見ると、竹本義太夫以前にも多くの太夫や流派があり、義太夫節が広がったあとにも豊後節や常磐津節など、別の流れが生まれています。
また、人形の遣い方も最初から現在と同じだったわけではありません。
浄瑠璃の歴史を詳しく追うと、語り、音楽、人形、芝居がそれぞれ別の速度で変化しながら、現在の伝統芸能につながっていることが分かります。
⇒ 古浄瑠璃から義太夫節、文楽へ|劇文学として読む浄瑠璃の歴史を詳しく
⇒ 浄瑠璃・人形浄瑠璃の歴史年表|古浄瑠璃から義太夫節、文楽まで
参考文献・参考資料
本記事は、浄瑠璃・近松門左衛門・江戸時代の演劇文化に関する以下の文献・資料をもとに、初心者向けに内容をまとめています。
- 『万有百科大事典』
- 『日本英雄伝 第10巻』
- 『日本偉人信仰実伝』
- 『世界二百文豪』
- 『東西文芸評伝』昭和4年
- 『日本歴史人名辞典』
- 『近世日本国民史 第19 元禄時代 下巻 世相篇』
- 『浪華人物誌 4』
- 『日本文化の発達』魚澄惣五郎 著
- 『国民日本歴史 新修』
- 『概観日本通史』
- 『兵庫県郷土人物誌 第1輯』昭和17年
- 文化デジタルライブラリー

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