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明治初期の暮らしと地域差|東京・大阪・京都・神戸・名古屋を比較

明治時代が始まると、鉄道やガス灯、洋館、学校、病院など、それまでの日本にはなかったものが次々と登場します。

現在から見ると、1868年の明治維新を境に、江戸時代の暮らしが一気に近代化したようにも見えます。しかし、実際の生活はそれほど急には変わりませんでした。

東京の銀座には煉瓦街が造られ、横浜には外国人居留地があります。東京と横浜の間では汽車も走り始めました。その一方で、普通の家庭へ入れば木造住宅があり、畳の上で暮らしています。

調べていて面白いのは、東京、横浜、大阪、京都、神戸、名古屋で、近代化の始まり方そのものが違うことです。

東京では新しい政府が街を変えていきます。横浜や神戸では外国との交流が大きな影響を与えました。大阪では江戸時代から続く商業都市の上へ、新しい工業や鉄道が加わっていきます。

京都では政治の中心が東京へ移ったあと、教育や産業、新しい技術を取り入れて街を立て直そうとしました。農村では、鉄道や洋館より先に、戸籍、学校、徴兵、地租といった新しい国家の制度が生活へ入ってきます。

明治初期は、江戸時代から続く暮らしの上へ、地域ごとに違った形で新しい社会が重なり始めた時代だったようです。

目次

江戸時代から、何が変わったのか

明治維新によって、政治の仕組みは大きく変わりました。ただし、人々の日常生活まで同じ速度で変わったわけではありません。

江戸時代から続くもの 明治初期に新しく入ってくるもの
木造住宅・畳を中心とする生活 洋風官庁・煉瓦建築
徒歩・駕籠・船などによる移動 鉄道・人力車・馬車
寺子屋など地域ごとの教育 全国的な学校制度
藩や村を基礎とする人の把握 戸籍による全国共通の把握
年貢を中心とした土地負担 地租改正による金納
身分・家・地域を中心とする社会 徴兵・学校などを通した国家との直接的な関係

新しい制度が始まったから、それまでの暮らしがすぐに消えたわけではありません。

木造住宅や畳の生活を続けながら、戸籍へ登録され、子どもは学校へ行くようになり、男性には徴兵という新しい制度が関わってきます。古い生活と新しい制度が、同じ時代の中に重なっていました。

明治初期の大きな流れ

明治初期には、政治だけでなく、学校、税、軍隊、交通など、現在の社会にもつながる仕組みが短い期間に作られていきました。

主な出来事 暮らしを見るポイント
1868年 明治政府成立、江戸を東京と改称、神戸開港、大阪開港 政治中心の再編と開港都市の成長が始まる
1869年 政府の中枢が東京へ移る、横浜居留地で下水道整備開始 東京の行政都市化と横浜の都市整備が進む
1871年 廃藩置県、戸籍制度の整備、大阪造幣局創業 国家制度と近代工業が生活や都市へ入る
1872年 学制公布、新橋と横浜の間で鉄道開業、銀座煉瓦街建設開始 学校・鉄道・都市景観に新しい時代が見え始める
1873年 徴兵令、地租改正 農村にも新しい国家制度が直接入る
1874年 大阪と神戸の間で鉄道開業 関西でも大都市同士が汽車で結ばれる
1882年 東京で馬車鉄道開業 都市の中の移動にも新しい交通が入る
1885年 阪堺鉄道が難波と大和川の間で開業 大阪では民間による鉄道も動き始める
1886年 名古屋駅開業 鉄道が到達する時期には大きな地域差がある
1887年 横浜で日本初の近代水道が給水開始 急成長した都市を支える生活設備が整う
1889年 東京市・大阪市・京都市・名古屋市などで市制施行 近代都市としての行政制度が整い始める

この年表だけでも、鉄道が身近になる時期にはかなり差があったことが分かります。

日本で最初の鉄道が開業したのは1872年です。しかし、その年から日本中の人が汽車を身近に感じていたわけではありません。

名古屋に鉄道が到達するのは1886年です。東京と横浜の間で汽車が走り始めてから、14年もあとになります。

地域ごとに見ると、同じ明治でもかなり違う

地域 都市の役割 近代化の特徴 普通の生活との距離
東京 政治・行政の中心 官庁、軍、学校、鉄道、煉瓦街 一部は非常に新しいが、町や家庭には江戸の暮らしが強く残る
横浜 外国貿易の玄関 外国人居留地、鉄道、ガス灯、下水道、水道 外国人居留地と日本人の町で生活風景が大きく違う
大阪 江戸以来の巨大商都 造幣局、鉄道、外国人居留地、近代工業 江戸以来の商業都市の上へ新しい工業と交通が加わる
京都 政治の中心を失った旧都 教育、医療、産業技術による都市再生 伝統都市の生活を残しながら新技術を取り込む
神戸 新しい国際港 外国人居留地、貿易、西洋建築、大阪との鉄道 港周辺では外国文化を直接目にしやすい
名古屋 城下町から中部の中心都市への移行期 鉄道到達は1886年、電灯は1889年 明治前半には江戸以来の都市の形がまだ強い
地方都市 県庁・地域行政の中心 役所、学校、警察など制度面から近代化 都市設備の発達には大きな地域差がある
農村・漁村 農林漁業を中心とする地域社会 戸籍、学校、徴兵、地租が生活へ入る 衣食住や移動には江戸時代からの生活が強く残る

東京――最初に作られたのは「行政の東京」だった

現在の東京を見ると、政治だけでなく、企業、金融、大学、出版など、多くのものが集まっています。しかし明治初期から、現在の東京と同じだったわけではありません。

1868年に江戸が東京と改称され、翌1869年には政府の中枢が東京へ移ります。政府や官庁、軍、学校など、新しい国家を動かすための施設が東京へ集まっていきました。

江戸時代には将軍の城下町だった場所が、明治になると、新しい国家を動かす政治と行政の都市へ変わっていきます。

その後、この行政の東京へ大学や新聞、出版、金融、企業などが集まり、大正、昭和を通して全国の中心都市へ成長していくことになります。

銀座は新しくても、東京全部が銀座ではない

1872年の銀座大火のあと、道路を広げ、煉瓦造りの建物を並べる銀座煉瓦街の計画が進められました。同じ年には、新橋と横浜の間で鉄道も開業します。

汽車や煉瓦街だけを見ると、東京全体が急速に西洋風へ変わったようにも感じます。

しかし、銀座を少し離れれば木造の町家や長屋があります。普通の家庭では畳を中心とした生活が続いていました。新しい東京と、江戸時代から続く東京が、同じ街の中に並んでいたことになります。

横浜――外国文化だけではなく、街の仕組みまで変わっていく

東京では、新しい政府や官庁を通して近代化が見えてきます。横浜では少し違い、外国との交流が街を変える大きな力になりました。

1859年に横浜が開港すると、外国人居留地には商館や洋風建築が造られ、外国人が実際に暮らすようになります。ほかの地域よりも、西洋の生活を直接目にする機会が多い街でした。

1872年には新橋と横浜の間で鉄道が開業し、馬車道周辺にはガス灯もともります。同じ明治初期でも、東京では政府が作る新しい社会が目立ち、横浜では外国人が暮らす街そのものが新しい時代を感じさせました。

文明開化は、洋館やガス灯だけではなかった

横浜で早く入ってきたのは、外国の商品や洋風建築だけではありません。街そのものを維持するための設備も、早い時期から整えられていきました。

外国人居留地では1869年から下水道の整備が始まり、1871年には地中へ陶管を埋める工事が完成しています。当時はコレラなどの感染症も問題になっており、排水や衛生は都市で暮らすための現実的な問題でした。

文明開化というと、ガス灯や洋館のように目で見えるものを思い浮かべます。しかし横浜では、その地下に下水道まで造られていました。

建物の形だけではなく、道路や排水、ガス、鉄道といった街を支える仕組みまで変わり始めていたことになります。

1887年には、日本で最初の近代水道ができる

横浜の発展の速さがよく分かるのが水道です。

開港後の横浜では人口が急速に増えました。しかし、海を埋め立てて広がった土地も多く、井戸を掘っても塩分を含んだ水が出る場所がありました。飲み水をどのように確保するのかが、大きな問題になります。

1885年から近代水道の建設が始まり、1887年に給水を開始しました。川などから取り入れた水をろ過し、鉄管を通して街へ送る、現在の水道にもつながる仕組みです。

幕末の1867年から数えても、わずか20年ほどです。その間に横浜は、近代水道を必要とするほど大きな貿易都市へ変わったことになります。

東京で近代水道の給水が始まるのは1898年です。水道については、横浜のほうが10年以上早く整っています。

首都だから何でも東京が最初だった、というわけではありません。その都市が抱えていた問題によって、先に必要になる設備も違っていました。

それでも、横浜全部が西洋風だったわけではない

ここまでを見ると、横浜全体が西洋の都市のようになっていたと感じてしまいます。

しかし、外国人居留地と日本人が暮らす町では、建物も生活もかなり違いました。同じ横浜に暮らしていても、外国商館で働く人と、日本人街で暮らしている人では、日常的に触れる新しい文化の量も違います。

横浜を舞台にした作品では、横浜という地名だけではなく、その人物がどこに住み、どこを歩き、誰と関わっているのかまで見ると、当時の生活を想像しやすくなります。

大阪――江戸時代からの巨大商都が、新しい時代へ変わっていく

大阪は、明治維新によって突然大都市になったわけではありません。江戸時代から全国の商品が集まり、「天下の台所」と呼ばれた巨大な商業都市でした。

ただし、明治維新によって江戸時代の商業の仕組みも変わります。大阪は、それまで持っていた商業都市としての力を残しながら、新しい時代に合わせて都市の役割を作り直していくことになりました。

大阪にも外国人居留地があった

1868年に大阪が開港すると、川口に外国人居留地が作られました。

居留地には舗装された道路が造られ、街路樹や石油ランプの街灯が置かれます。その道沿いにはバンガロー風の洋館が並び、大阪の人にとっては、それまで見たことのない新しい街になりました。

現在では横浜や神戸の外国人居留地の印象が強いですが、大阪にも文明開化を直接感じられる場所がありました。

大阪は開港しても、神戸と同じ貿易港にはならなかった

大阪の外国人居留地には、大きな問題がありました。

大阪の港へ行くには、安治川を河口からさかのぼる必要があります。しかし当時の安治川は川底が浅く、大型の外国船が入ることができませんでした。

大型船は近くの兵庫港、現在の神戸港へ向かうようになります。川口にいた外国商人の中にも、大阪を離れて神戸の外国人居留地へ移る人が増えていきました。

大阪も神戸も開港都市ですが、その後の発展は同じではありません。神戸は国際貿易港として急速に成長し、大阪では別の方向から近代化が進んでいきます。

1871年、造幣局が大阪で動き始める

大阪で目立つのが、近代工業の始まりです。

1871年には造幣局が創業しました。当時としては非常に新しい洋式設備を備え、蒸気機関などを利用して貨幣を造る近代的な工場でした。

当時の日本には、近代工業と呼べる工場そのものがまだほとんどありません。必要な機械や器具を造幣局の中で作ることもあり、貨幣を造る場所というだけではなく、新しい技術が大阪へ入ってくる場所にもなりました。

江戸時代から商業の街だった大阪に、機械や工場を使う新しい産業が加わり始めたことになります。

1874年、大阪と神戸が汽車で結ばれる

1874年には、大阪と神戸の間で官営鉄道が開業しました。

江戸時代から続く巨大商都の大阪と、新しく国際港として成長している神戸が、汽車で直接結ばれたことになります。

この二つの都市は、それぞれ違う役割を持ちながら、人や商品が行き来する一つの大きな地域としてもつながり始めました。

1885年には、民間の鉄道も難波から走り始める

さらに1885年には、阪堺鉄道が難波と大和川の間で営業を始めます。現在の南海電鉄につながる鉄道で、関西で最初の私鉄でした。

開業したころの難波駅周辺は、現在の難波からは想像しにくいほど街の外側にあり、畑も残っていました。その後、鉄道の周辺へ人や商店が集まり、市街地が南へ広がっていきます。

この時点では、後の阪急や阪神のように、郊外住宅地を開発して人を電車で運ぶ時代にはまだなっていません。それでも大阪では、鉄道が都市と周辺地域を結び、街を広げる力を持ち始めていました。

東京では政府や官庁を中心に街が変わり、横浜や神戸では外国貿易が都市を大きく変えていきます。

大阪では、江戸時代から持っていた商業の力に、造幣局のような近代工業と、新しい鉄道が加わりました。後に「大大阪」と呼ばれる巨大な商工業都市へ成長する形が、このころから少しずつ作られていたようです。

京都――政治の中心を失った街が生き残る方法を探す

京都にとって、明治維新は大きな転換でした。天皇と政治の中心が東京へ移り、それまで京都が持っていた政治都市としての役割が大きく変わります。

人口や経済にも影響があり、京都は古い都として残るだけでは街を維持できませんでした。そこで教育や医療、新しい産業技術を取り入れて、都市を立て直そうとします。

1872年には新英学校や女紅場、仮療病院が設けられました。1873年には西陣へジャカード織機が導入され、1875年には同志社英学校も開校します。

京都は、古いものをすべて捨てて西洋式の街を作ろうとしたのではありません。

西陣織などの伝統産業や文化を残しながら、教育、医学、科学、新しい技術を加えていきました。この動きが、明治後期になると琵琶湖疏水や水力発電、電気鉄道へつながっていきます。

神戸――新しい国際港として街が作られる

神戸は1868年の開港後、外国との貿易を行う新しい港町として発展します。

外国人居留地には規則的な街区が作られ、洋風建築や外国商館が並びました。江戸時代から続く城下町とは、かなり違った形の都市が作られていきます。

1874年には大阪と神戸の間で鉄道が開業します。江戸時代からの巨大商都だった大阪と、新しい外国貿易港の神戸が、近代交通で直接結ばれました。

この大阪と神戸のつながりは、その後さらに強くなります。

大正や昭和になると、西宮や芦屋など、大阪と神戸の間にも住宅地や学校、娯楽施設が広がります。後の阪神間の独特な生活文化につながる条件が、このころから作られ始めていました。

名古屋――1870年代には、まだ汽車が来ていない

名古屋まで比べると、明治初期の地域差がかなり分かりやすくなります。

東京と横浜の間では1872年から汽車が走っています。大阪と神戸の間でも1874年に鉄道が開業しました。しかし、名古屋に官設鉄道の駅が開業するのは1886年です。

1875年ごろの東京や大阪で暮らしていれば、汽車を見ることができます。同じ年の名古屋では、その風景自体がまだありません。

日本ではすでに鉄道が走っていた。これは間違いではありません。しかし、その人物の日常に汽車があったかどうかは、また別の話です。

1889年になると名古屋でも市制が施行され、電灯もともります。鉄道、市電、港を持つ本格的な近代都市として名古屋が大きく変わっていくのは、次の明治後期になります。

地方都市――洋館より先に、役所や学校が変わる

地方都市では、東京の銀座のような煉瓦街が全国一斉に作られたわけではありません。それでも、明治という新しい時代は確実に入ってきます。

廃藩置県によって県庁が置かれ、学校や警察が作られます。戸籍や税の仕組みも変わりました。

家庭に洋家具が入るより先に、役所が変わり、学校ができ、戸籍へ登録され、税の納め方が変わっていきます。地方の人にとっては、こうした制度の変化のほうが、新しい国家を身近に感じる出来事だったのかもしれません。

同じ地方都市でも違いがあります。鉄道がいつ到達したのか。港があるのか。県庁所在地なのか。江戸時代の城下町だったのか。

こうした条件によって発展の速度は変わります。「地方」という一つの言葉だけでは、明治初期の生活はまとめきれません。

農村――汽車より先に国家がやってくる

農村に暮らしていれば、東京の煉瓦街や横浜のガス灯は遠い世界です。それでも、明治維新は農村の暮らしへかなり深く関わってきます。

1871年には戸籍制度が整えられ、1872年には学制が公布されます。1873年には徴兵令と地租改正が進められました。

東京に洋館が建ったことより、こうした制度のほうが農村の家庭には直接影響します。

誰が家族として登録されるのか。土地を誰が所有しているのか。税をどのように納めるのか。子どもは学校へ行くのか。息子は軍隊へ行くことになるのか。

国家が全国の人と土地を、共通した仕組みで把握するようになっていきました。農村から見ると、この変化も明治の近代化の大きな一つだったようです。

学校ができても、すぐ全員が通ったわけではない

1872年に学制が公布され、全国的な学校制度が作られ始めました。しかし、学校制度ができたことと、すべての子どもが学校へ通うことは同じではありません。

1873年の学齢児童の就学率は、男女平均で3割に届かない水準でした。

学校へ通うには費用も必要です。農村や商家では、子ども自身が家の仕事を支える労働力でもありました。

現在の感覚では、国が学校制度を作れば、すぐ全国へ広がるように考えてしまいます。しかし明治初期では、新しい制度が作られてから、それが普通の生活になるまでにはかなり時間がかかりました。

制度が始まった年と、普通の人にとって当たり前になった時期は分けて見たほうがよさそうです。

病院があっても、病気になれば病院へ行く時代ではない

東京、大阪、京都、神戸などでは、明治初期から西洋医学を取り入れた病院や医学校が整えられ始めました。

近代的な病院そのものは、思っているより早い時期から存在しています。しかし病院が存在することと、現在のように、病気になった普通の人が病院へ行き、入院して専門的な看護を受けることは別です。

家族が家で療養を支え、看病をする役割も大きく残っていました。

病院の歴史を見るときも、日本で最初の病院がいつできたのかだけでは、当時の暮らしは分かりにくいところがあります。

普通の人にとって、その病院がどのくらい身近な存在だったのか。この違いまで見ると、当時の生活を想像しやすくなります。

街が変わっても、家の中はそれほど変わっていない

明治初期の錦絵や写真を見ると、汽車、洋館、煉瓦街、洋服を着た人物などが目立ちます。新しいものは珍しいため、絵や写真の題材にもなりやすかったのでしょう。

しかし、それを普通の人の生活そのものだと考えると、かなり違ってきます。

一般の家庭では、木造住宅や畳があり、それまでと同じような台所や便所を使い、和服を着て暮らす生活が広く残っていました。

明治初期の東京なら、外へ出れば汽車や洋風の官庁を見ることができます。その人が家へ帰れば、江戸時代とそれほど変わらない暮らしをしていることも十分にありました。

人間関係は、制度ほど急には変わらない

明治政府は戸籍や学校、徴兵などを通して、人と国家の関係を急速に作り変えていきました。

しかし、毎日の人間関係まで同じ速度で変わったわけではありません。家族、親族、近所、村、奉公先など、江戸時代から続く関係は、明治になっても大きな役割を持っています。

後の会社員社会のように、会社の同僚と毎日の多くの時間を過ごす生活が、全国に広がっていたわけでもありません。学校で作られる友人関係も、これから少しずつ広がっていく段階です。

国の制度は短い期間で大きく変わる。その一方で、家庭や地域の人間関係はもっとゆっくり変わっていく。明治初期には、この二つの時間が同時に流れていたように見えます。

同じ東京でも、暮らしている世界は違う

地域による違いだけではなく、仕事や収入によっても暮らしは変わります。

政府の官僚、軍人、医師、学生、外国人と取引する商人などは、新しい制度や西洋文化へ比較的早く触れることができました。

町の職人や日雇い労働者、農民まで、衣食住が同じ速度で西洋風になったわけではありません。

1875年の東京でも、官庁で働く人物と、江戸時代から同じ町で仕事を続ける職人の家庭では、見えている明治の姿が違います。

年代だけでは、その人の生活は分かりません。どこに住んでいるのか。都市なのか農村なのか。どんな仕事をしていて、どの程度の生活をしているのか。

そこまで考えると、同じ年でも暮らしがかなり違っていたことが見えてきます。

1875年で比べると、同じ日本でもかなり違う

1875年、明治8年ごろの日本を、同じ年で横に並べてみます。

地域 1875年前後に見えている生活
東京 新政府と官庁が集まり、新橋から汽車に乗ることができる。銀座では煉瓦街の建設が進む
横浜 汽車、外国人居留地、ガス灯、外国商館に加え、居留地では下水道も整えられている
大阪 江戸以来の巨大商都に、造幣局や大阪と神戸を結ぶ鉄道が加わる
京都 政治の中心を失ったあと、教育・病院・新産業による都市再生が進む
神戸 開港場と外国人居留地があり、前年に大阪との鉄道が開通したばかり
名古屋 まだ鉄道は開通しておらず、城下町以来の都市生活の比重が大きい
地方都市 県庁や学校などを通して、新しい国家制度が地域へ入ってくる
農村 汽車やガス灯よりも、戸籍・学校・徴兵・地租を通して明治の変化を感じる

同じ1875年でも、見えている世界はかなり違います。

東京では汽車に乗れる人がいます。横浜では外国人や洋風建築を日常的に目にし、居留地では下水道まで整えられています。大阪では近代的な造幣局が動き、神戸まで汽車で行くことができました。

しかし同じ年の名古屋には、まだ鉄道がありません。

農村では汽車を一度も見たことがなくても、徴兵や地租によって、新しい明治の社会を強く感じていたかもしれません。

「明治8年」という年号だけでは、その人物の生活風景までは決まらないことが分かります。

文学を読むときに気になるところ

明治初期を舞台にした文学や記録を読むときに気になるのが、「明治だから文明開化」という一つの風景で考えてしまうことです。

汽車が登場する作品でも、その地域に本当に鉄道がある時代なのかを確認する必要があります。病院や学校が登場しても、それが普通の人にとって当たり前に利用できるものだったとは限りません。

横浜でも、外国人居留地の近くにいる人物と、日本人街で暮らす人物では見えているものが違います。大阪でも、造幣局のような新しい工場に関わる人物と、江戸時代から続く商人では生活の中にある明治らしさが変わります。

作品を読むときには、何年なのか。どこなのか。どんな仕事をしている人なのか。どの程度の生活をしている家庭なのか。

そこまで見ていくと、文章の中に出てくる汽車や洋館、学校、病院の意味も少し変わって見えてきます。

明治初期から明治後期へ

1880年代後半になると、名古屋にも鉄道が到達します。横浜では近代水道が始まり、大阪では民間の鉄道も走り始めました。

東京、大阪、京都、神戸、名古屋などでは、その後、電気、電話、水道、市内電車といった新しい都市設備も整っていきます。京都では琵琶湖疏水という大きな事業も進められました。

明治初期には、汽車や洋館のような新しいものが登場すること自体が大きな変化でした。

明治後期になると、それらの設備が少しずつつながり、都市そのものを動かす仕組みへ変わっていきます。

次の明治後期では、東京、横浜、大阪、京都、神戸、名古屋が、それぞれどのような近代都市へ変わっていったのかを見ていきます。

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