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昭和戦前の暮らしはどう変わった?|昭和モダンの誕生と都市・農村の格差

地下鉄に乗って銀座へ出て、百貨店で買い物をし、喫茶店でコーヒーを飲み、映画を見て、円タクで帰る。昭和の初め、東京や大阪にはそんな一日を送る人たちがいた。

同じころ、東北の村では米が安く売れずに現金がなく、弁当を持って学校へ来られない子どもがいて、娘を遠くへ働きに出す家もあった。どちらも1930年代前半の、同じ日本の話だ。

昭和の戦前、1926年から1936年ごろは「昭和モダン」と呼ばれる華やかな都市文化が花開いた時代として語られることが多い。明治から続いてきた近代化が、鉄道や水道を整える段階を越えて、どこに住み、どこで働き、何を買い、誰と休日を過ごすのかという一人ひとりの暮らしにまで入ってきた時代だ。

ただ、その華やかさは日本全体に広がったわけではない。同じ東京や大阪にも長屋で暮らす労働者や失業者がいて、農村は恐慌と凶作で追い詰められていた。そして街が明るく見えるその裏で、政治は少しずつ次の戦争へと向かっていく。

この記事では、昭和戦前を舞台にした小説を読むときに「この人物は社会のどのあたりにいて、どんな世界が見えていたのか」を想像できるように、当時の暮らしと地域、階層の違いを整理していく。

【この記事で扱う時代】1926年(昭和元年)〜1936年(昭和11年)ごろ
【見ていく地域】東京・大阪・阪神間・京都・名古屋・地方都市・農村
【この記事の目的】昭和戦前の小説を読むときのサブテキスト
【前の時代】大正時代の暮らし(1912〜1926年)
【次の時代】戦時中の暮らし(1937〜1945年)

目次

大正時代から何が変わったのか

大正時代には、私鉄沿線の住宅地、会社員、職業婦人、百貨店、映画と、新しい都市の暮らしが目立つようになった。昭和の初めになると、それが一部の珍しい文化ではなく、大都市の日常に入り込んでいく。

大正時代 昭和戦前
郊外住宅が生まれる 郊外から都心へ電車で通う暮らしが定着する
私鉄が住宅地を開発する 住宅・電車・ターミナルの百貨店・娯楽がひとつの生活圏になる
市電が都市交通を支える 東京と大阪に地下鉄が加わり、円タクやバスも走る
無声映画を弁士の語りで見る 声の出るトーキー映画が始まる
職業婦人が注目される モダンガールが都市文化の象徴になる
ラジオ放送が始まる ラジオが家庭に広がり、全国で同じニュースや流行を知る
大戦景気と米騒動 恐慌が続き、都市の中でも、都市と農村の間でも格差がはっきり見える

昭和戦前の大きな流れ

年表にしてみると、モダンな街ができていく流れと、不景気と政治の不穏な出来事が、ほぼ同じ時期に重なっていることがよくわかる。

年 主な出来事 暮らしを見るポイント
1926年(昭和元年) 12月に昭和へ改元、一冊1円の「円本」ブーム始まる 大正の都市文化がそのまま昭和へ続く
1927年(昭和2年) 金融恐慌、同潤会代官山アパート完成、東京に円タク、上野〜浅草間に日本初の地下鉄 銀行が次々とつぶれる中で、都市の新しい暮らしが形になる
1928年(昭和3年) 初の普通選挙、治安維持法の強化、三・一五事件 男性はみな投票できるようになったが、思想の取り締まりは厳しくなる
1929年(昭和4年) 梅田に阪急百貨店開業、映画『大学は出たけれど』、10月に世界恐慌 ターミナル百貨店の誕生と、就職難の始まり
1930年(昭和5年) 昭和恐慌、豊作なのに米価が暴落、名古屋で市営バス開業 都市の失業と農村の困窮が同時に深刻になる
1931年(昭和6年) 満州事変、東北・北海道で凶作、初の本格トーキー映画、松屋浅草開店 街の娯楽は続くが、国は戦争へ一歩踏み出す
1932年(昭和7年) 五・一五事件、東京市が82町村を編入し「大東京」誕生、満州国建国、ラジオの受信契約が100万を超える 政党内閣が終わり、東京は35区の巨大都市になる
1933年(昭和8年) 梅田〜心斎橋間に大阪の地下鉄開業、国際連盟脱退、小林多喜二の死 大阪の街が地下へ広がる一方、日本は国際社会から離れていく
1934年(昭和9年) 東北地方を中心に大凶作 農村の困窮が頂点に達する
1936年(昭和11年) 二・二六事件 都市の暮らしが続く中で、軍の発言力が一気に強まる

昭和は不景気から始まった

昭和モダンという華やかな言葉とは裏腹に、昭和という時代は不景気から始まっている。

改元から3か月後の1927年3月、大臣の失言をきっかけに銀行へ預金を引き出しに人が殺到し、銀行が次々と休業する金融恐慌が起きる。大正の大戦景気で巨大商社になった神戸の鈴木商店も、このとき破綻した。

さらに1929年にアメリカで始まった世界恐慌が日本にも押し寄せ、1930年には昭和恐慌と呼ばれる深刻な不景気になる。会社は人を減らし、大学を出ても仕事が見つからない。同じ1929年に小津安二郎の映画『大学は出たけれど』が作られたのも、そんな空気があったからだ。

昭和モダンは、景気のよい時代に咲いた文化ではない。不景気の中でも、街に出ればモダンな暮らしがあった。そのちぐはぐさこそが、この時代らしさなのかもしれない。

「昭和モダン」は突然始まったわけではない

「昭和モダン」という言葉を聞くと、昭和になって急に新しい暮らしが始まったように感じてしまう。しかしその土台は、大正の後半、1920年代に作られていた。私鉄が郊外に住宅地を作り、百貨店や映画館が増え、会社員や職業婦人が街で目立つようになっていく。

明治の近代化は、汽車を走らせ、洋館を建て、電話を引くという「街に新しいものを置く」ことだった。昭和の初めになると、それを使って毎日電車で会社へ通い、郊外に洋風の家を建て、流行に合わせて服を選び、恋人と映画館へ行く。近代化が街の設備から、一人ひとりの暮らし方の中へ入ってきたのだ。

サラリーマンという新しい暮らし

この新しい暮らしの中心にいたのが、会社や銀行、商社、官庁に勤めて月給をもらう人たちだ。

農家や商家、職人の家では、住む場所と働く場所はほぼ同じだった。それに対して会社員は、朝になると家を出て電車に乗り、遠く離れた会社へ向かう。郊外の家に住み、夫は都心へ通い、子どもは学校へ通い、休日には家族で繁華街や行楽地へ出かける。こうした家庭が、新しい都市の中間層として目立つようになる。

この時代になると、職業や家柄だけではなく、どんな家に住み、何を買い、子どもにどんな教育を受けさせ、休日をどう過ごすのかまでが、その家の立ち位置を表すようになっていった。

ただし、そのサラリーマンも安泰だったわけではない。恐慌のさなかには給料が減らされ、首を切られる人もいた。モダンな暮らしは、思っているよりも危うい足場の上に乗っていた。

家でも職場でもない「街の居場所」が増える

昭和の初めの都市で大きく変わったのは、物や交通だけではない。時間の使い方も変わっていく。

家、学校、会社とは別に、喫茶店、映画館、百貨店と、特に用事がなくても出かけて時間を過ごせる場所が街の中に増えていった。友人と話す、一人で過ごす、恋人と映画を見る、家族で百貨店へ出かける。同じ街に住んでいても、仕事帰りや休日の過ごし方が人によって違う社会になっていく。

震災のあと、東京で喫茶店が急に増える

喫茶店そのものは、関東大震災より前の大正時代からあった。しかし震災のあと、焼けた街が作り直されていく中で、安い家賃で店を借り、自分で手を入れて喫茶店を始める若者が現れる。

東京では震災直後に55店だったとされる喫茶店が、1928年には671店まで増えた。ただ、このころは「喫茶店」「カフェー」「料理店」の区別が今ほどはっきりしておらず、数字には一部混ざりがあったようだ。

震災が喫茶店の文化を生んだわけではない。大正から育っていた新しい都市の文化と、東京の街が作り直される時期が重なったことで、喫茶店が一気に増えていったのだろう。

喫茶店は、好きなものでつながる場所

増えた喫茶店は、学生や会社員がひと休みしたり、人と会ったりする場所として暮らしに溶け込んでいく。神田神保町のように学校や本屋が集まる街では学生が喫茶店に集まり、店によっては俳人や文学好きの「たまり場」になるところもあった。

それまでの人付き合いは、同じ家に住んでいる、同じ村に住んでいる、同じ仕事をしているといった関係が土台だった。都市ではそこに、同じ本が好きだから、同じ音楽に興味があるから集まる、という関係が加わっていく。

そして喫茶店は、一人でいられる場所でもあった。仕事が終わってもすぐには家へ帰らず、新聞や雑誌を読む。待ち合わせまで時間をつぶす。一人で考え事をする。周りは知らない人ばかりの大きな街だからこそ、大勢の中で一人になれる場所が生まれたのだ。

友人や恋人と会う場所が、家の外へ広がる

人と会う場所が家だけではなくなったことは、人間関係にも影響する。家に友人や恋人を呼べば、そこには親も兄弟もいる。家族の暮らしと自分だけの付き合いを分けるのは簡単ではない。

喫茶店や映画館、百貨店があれば、家族とは別の場所で友人や恋人と会うことができる。家制度がまだ強く残る時代に、街の中には家族の目が届かない付き合いや恋愛を続けられる場所が増えていた。

カフェーと「エロ・グロ・ナンセンス」

昭和の初めの小説を読むときに気をつけたいのが、「カフェー」と「喫茶店」の違いだ。今の感覚だとどちらもコーヒーを飲む店に思えるが、この時代のカフェーの多くは、女給と呼ばれる女性が客の隣に座って酒の相手をする店だった。

1930年前後には、銀座や大阪の道頓堀にネオンの輝く大きなカフェーが並び、刺激の強い娯楽や読み物が流行して「エロ・グロ・ナンセンス」という言葉まで生まれた。不景気で暗い世の中だからこそ、刺激と笑いが求められたのだろう。

作中の人物がカフェーに通っていたら、それは喫茶店でひと休みしているのとはかなり意味が違う。女給という仕事が出てきたら、それがこの時代の都市で女性が就ける仕事のひとつだったことも、頭の片隅に置いておきたい。

映画館が、映画を見るだけの場所ではなくなる

映画そのものも大きく変わる。大正までの映画は音のない無声映画で、弁士が語りを入れていた。1931年には日本で初めての本格的なトーキー、つまり声の出る映画が作られ、数年のうちに弁士は仕事を失っていく。

映画館の建物も変わっていく。1920年代から30年代には、客席だけではなく、喫茶店、喫煙室、談話室を備えた大きな映画館が現れた。1928年に建て直された浅草の富士館には、喫茶店や倶楽部室のほかに屋上庭園まであり、屋上から浅草の街を眺めることも映画館の楽しみとして宣伝されている。

富士館では後援会が作られ、会誌を出したり、会員どうしで郊外へ出かけたりする活動まであった。映画館ごとに常連客がつき、同じ映画や俳優が好きな人たちがゆるやかにつながる場所にもなっていたのだ。

百貨店は、少し上の暮らしを見に行く場所

百貨店には、洋服、家具、子ども用品、食器、部屋の飾りが一つの建物に並び、催し物や広告を通して、新しい品物の使い方や暮らし方まで紹介されていた。以前なら一部のお金持ちしか知らなかった品物も、百貨店へ行けば実際に見ることができる。

買い物は、必要な物を手に入れるだけではなく、「こんな家に住みたい」「こんな服を着たい」という暮らしそのものを選ぶことへ広がっていった。

屋上庭園から、屋上で遊ぶ文化へ

百貨店の変化を見るうえで面白いのが屋上だ。

1907年には日本橋の三越が屋上を「空中庭園」として開き、花壇や藤棚、池、噴水を置いた。高い建物そのものが珍しかった時代で、街を上から眺めること自体が楽しみだった。明治、大正のころから、高いところに休む場所を作る文化はすでに始まっていたのだ。

建物が大きくなるにつれて、屋上には庭園だけではなく、ローラースケート場や舞台、音楽堂といった人を楽しませる設備が加わっていく。そして1931年に開店した松屋浅草の屋上には「スポーツランド」と呼ばれる遊び場が作られた。小さな動物園、ボウリング、野球遊び、射的、ロープウェイ、豆汽車まであり、家族連れでにぎわった。

昭和30年代から40年代のデパートの屋上遊園地を思わせるものが、昭和の初めにはもうあったことになる。戦後の屋上遊園地は突然生まれたのではなく、明治の屋上庭園から始まり、大正・昭和の初めに遊びの設備が増え、戦争による中断をはさんで戦後へつながっていったのだ。

食堂で食事をし、展覧会を見て、品物を眺め、屋上で子どもを遊ばせる。百貨店は買い物だけではなく、家族で一日過ごせる街の行楽地になっていった。

喫茶店・映画館・百貨店は、それぞれ違う居場所

この三つは似ているようで、使われ方はかなり違っていた。

場所 主な使われ方 生まれやすい関係
喫茶店 休む、話す、待つ、一人で過ごす 友人、学生仲間、趣味の仲間、恋人、一人の時間
映画館 映画を見る、街へ遊びに行く 友人、恋人、同じ映画や俳優が好きな人たち
百貨店 買い物、食事、展覧会、屋上で遊ぶ 家族、友人

家でも職場でもない場所が一種類増えたのではなく、何をしたいか、誰と一緒かによって、街の居場所を使い分けられるようになったのだ。

ただし、こうした場所を楽しむには時間とお金が要る。映画を見る、喫茶店に入る、百貨店で食事をするという暮らしを気軽にできる人もいれば、娯楽に使えるお金がほとんどない家もあった。喫茶店も映画館も百貨店も、昭和モダンを表す場所であると同時に、誰が余暇を持ち、誰が街でお金を使えるのかという差が見える場所でもあった。

モダンガールは、女性の代表ではなかった

百貨店の店員、電話交換手、タイピスト、事務員、バスの車掌と、家の外で働く女性が都市で目立つようになる。洋服を着て髪を短く切り、自分で街を歩く女性は「モダンガール」、略して「モガ」と呼ばれ、新聞や雑誌でさかんに取り上げられた。

ただし、モダンガールがこの時代の女性を代表していたわけではない。数でいえば、農村で田畑を耕す女性、紡績工場で働く女工、商家に奉公する女性、よその家で住み込みで働く女中、家を守る主婦のほうがずっと多い。女性の多くは、まだ着物で暮らしていた。

モダンガールが時代の変化を表しているのは、人数が多かったからではない。女性が家の外で働き、自分の収入を持ち、服を選び、友だちと街を歩くという生き方が、目に見えるようになったからだ。

東京――35区の「大東京」へ

明治の初めに政府と官庁の街として出発した東京は、大学、新聞、出版、銀行、会社、商業が重なり、昭和の初めには政治の中心というだけでは説明できない巨大な街になっていた。官庁で働くためだけではなく、大学で学ぶため、会社へ勤めるため、出版や文化の仕事をするために、全国から人が集まってくる。

1927年、東京の交通が地下へ入る

1927年12月、上野〜浅草の間で日本で最初の地下鉄が走り始める。明治の初めには汽車が走ること自体が事件だった。それから半世紀あまりで、市電や鉄道だけでは毎日の移動を支えきれず、地下に線路を通すところまで来たことになる。

同じ年には、市内ならどこまで乗っても1円の「円タク」も東京に登場した。地下鉄が必要になるほど、大勢の人が毎日決まった時間に街の中を動く時代になっていた。

1932年、「大東京」が生まれる

東京の住宅地は、東京市の外へ広がり続けていた。1932年、まわりの5郡82町村が東京市に入り、それまでの15区に20区が加わって35区の「大東京」が生まれる。大正の記事で「東京市の外の郊外」だった渋谷や世田谷も、このときに東京市の一部になった。

1935年の国勢調査では東京市の人口は約590万人に達し、ニューヨークに次ぐ世界有数の大都市といわれた。こうなると「東京に住んでいる」というだけでは、その人の暮らしはわからない。銀座や浅草に近い下町と、私鉄で通う郊外の住宅地とでは、一日の過ごし方がかなり違っていた。

鉄筋のアパートと、残り続ける長屋

関東大震災のあと、燃えにくい鉄筋コンクリートの集合住宅が作られるようになり、1927年には同潤会の代官山アパートが完成している。水洗便所やガスを備えたアパートや洋風の住宅は、新しい都市の暮らしの象徴になっていく。

しかし、東京の家庭がみな新しい家へ移れたわけではない。木造の家や長屋も数多く残り、鉄筋のアパートと木造の長屋が同じ街に並んでいるのが、昭和の初めの東京の風景だった。

今でも墨田区の京島2〜3丁目からキラキラ橘商店街のあたりは、戦災の被害が少なかったこともあって、そんな長屋の街並みが残っている。少し前までは月島のほうがよく残っていたが、再開発でだいぶ姿を消してしまった。

大阪――東京とは違う巨大都市「大大阪」

大阪は1925年の市域拡張で人口200万人を超え、「大大阪」の時代に入っていた。東京が政治、大学、出版を集めて大きくなったのに対して、大阪は江戸時代からの商業の土台に、工業、金融、港、市電、私鉄が重なって大きくなった街だ。

今のように東京だけが飛び抜けた一番の都市だったわけではない。この時代の日本には、東京圏と京阪神圏という、性格の違う二つの巨大な都市圏があった。

1929年、「電車で百貨店へ行く」暮らしが形になる

1929年、大阪の梅田に阪急百貨店が開業する。鉄道会社が自分の駅に建てた、日本で初めての本格的なターミナルデパートだ。

阪急は明治の終わりから沿線に住宅地を作り、そこに住む人たちを電車で大阪へ運んでいた。その終点の梅田に百貨店を置くことで、電車と買い物がひとつの流れにつながる。郊外の家を少しよい格好をして出て、電車で大阪へ向かい、用事を済ませ、百貨店で買い物と食事をして、また電車で家へ帰る。今では当たり前に思える休日の過ごし方が、ここで形になった。

1933年、大阪にも地下鉄が走る

1933年5月には、梅田〜心斎橋の間で大阪の市営地下鉄が走り始める。大正の終わりに工事が始まった御堂筋の地下を通る路線で、幅44メートルの御堂筋そのものが完成するのは1937年だ。

中心部には地下鉄と市電があり、その外側から阪急、阪神、京阪、南海といった私鉄が人を運んでくる。大阪の特徴は、京都や神戸とも何本もの私鉄でつながっていたことだ。仕事、住まい、買い物、学校、遊びが大阪市の中で完結せず、京阪神全体に広がる生活圏ができあがっていた。

阪神間――大阪と神戸の「間」のモダンな暮らし

大阪と神戸の間の西宮、芦屋、御影、住吉では、明治の終わりから大正にかけて私鉄と住宅地が育ってきた。昭和の初めになると、この郊外の暮らしがさらに成熟していく。

大阪で働きながら阪神間に住み、私鉄で通う。休日にはテニスやゴルフ、宝塚での観劇、神戸での買い物を楽しむ。大阪の経済力と神戸の外国文化、私鉄沿線の郊外の暮らしが重なって生まれたのが、のちに「阪神間モダニズム」と呼ばれる文化だ。東京の銀座とはまた違う形のモダンな暮らしが、関西にはあった。

芦屋には、自宅にテニスコートを持つ家もあった

1932年の芦屋には、邸宅などに25か所29面のテニスコートがあった。自宅の敷地でスポーツを楽しめる家があったのだ。私鉄が作った住宅地の中でも、芦屋は特にお金持ちが集まる土地として育っていく。

一方で、同じ大阪・神戸の都市圏には、工場で働く人や生活の苦しい家もたくさん暮らしている。同じ私鉄の沿線でも、広い邸宅に住む家と小さな借家に住む家がある。昭和モダンと呼ばれる中にも、はっきりとした差があった。

京都――古い街の中で、市電が当たり前の足になる

京都では明治の1895年から電車が走っている。1918年に京都市が民間の京都電気鉄道を買い取り、大正の半ばから昭和の初めにかけて、市電は街の交通の中心として一番にぎわった時期を迎える。

東京や大阪では地下鉄が新しい交通として登場したが、京都では町家や寺社、大学、商店が並ぶ古い街の中を市電が走っていた。古い京都の外に新しい街が別に作られたのではなく、同じ街の中で古いものと新しいものが重なっている。それが京都らしさだった。

名古屋――市電に市バスが加わる

名古屋では明治後期から電車が走り、大正には市域も大きく広がった。1930年には名古屋市が市営バスを始め、開業のときには4路線、22.6キロを40台のバスが走った。翌年度からは市の外側にも路線が延び、電車では結びにくかった地域をバスが補うようになる。

地下鉄はまだないが、名古屋はすでに中部地方の交通、商業、工業を支える大都市に育っていた。

ラジオと円本――みんなが同じものを聞き、読む

大正の終わりに始まったラジオ放送は、昭和に入ると家庭へ広がり、1932年には受信契約が100万件を超える。新聞は印刷して各地へ運ばなければならないが、ラジオなら離れた場所にいる人がほぼ同じ時間にニュースや音楽を聞ける。

本の世界でも、1926年に改造社が一冊1円の『現代日本文学全集』を出すと、ほかの出版社も次々と続き、「円本」ブームが起きる。それまで高かった文学全集が、普通の家の本棚にも並ぶようになった。

東京と農村の暮らしが同じになったわけではない。それでも、まったく違う暮らしをしている人たちが、同じニュースや流行や小説を知ることができるようになった。

明るい街の裏で、締めつけが強まっていく

昭和の初めの小説を読むときに、街の華やかさと同じくらい気にしておきたいのが、政治と思想の締めつけだ。

1928年、初めての普通選挙が行われ、25歳以上の男性はみな投票できるようになった。ところが同じ年に治安維持法が強化されて最高刑が死刑になり、共産党員などが一斉に捕まる三・一五事件が起きる。特別高等警察、いわゆる特高が全国に置かれ、思想を取り締まるようになった。

1929年には小林多喜二の『蟹工船』が発表され、工場や漁船で働く人たちの過酷な暮らしを描くプロレタリア文学が広く読まれる。しかしその小林多喜二は、1933年に特高に捕まり、取り調べ中に亡くなった。

1931年には満州事変が起き、翌1932年には海軍の青年将校らが首相を殺害する五・一五事件が起きて、政党が内閣を作る時代が終わる。そして1936年2月26日、雪の東京で陸軍の青年将校たちが大臣らを襲う二・二六事件が起き、軍の発言力は一気に強まっていく。

映画館も百貨店も喫茶店も開いている。けれどその同じ街で、言いたいことを言えば捕まるかもしれない空気が少しずつ濃くなっていた。作中の人物が政治や思想の話をするとき、声をひそめているのか、周りを気にしているのか。そこに目を向けると、この時代の空気が少し見えてくる。

格差は「お金の量」だけではなく「選べる暮らし」の差

同じ東京でも、郊外の家から会社へ通い、休日には家族で百貨店や映画館へ行く家がある一方で、長屋で暮らす工場の労働者、日雇いの労働者、恐慌で仕事を失った人たちもいる。大阪でも、百貨店や地下鉄ができる一方で、失業して厳しい暮らしを送る人が増えていた。

都市の中間層は、どこに住むか、子どもをどの学校へやるか、休日に何をするか、どの服や家具を買うかと、たくさんのことを自分で選べるようになっていた。しかし収入が少なければ、そもそもそうした選択肢がほとんどない。

同じ1930年代でも、一方では「どの服を買うか」「休日にどこへ行くか」を考え、もう一方では家賃や食費や明日の仕事をどうするかが問題になっている。昭和モダンの時代に見えてくる格差は、お金の量だけではなく、自分の暮らしをどれだけ選べるのかという差でもあった。

農村――豊作でも凶作でも苦しい

都市の中の差よりさらに大きかったのが、都市と農村の差だ。

1930年の昭和恐慌の年は、皮肉なことに米が豊作だった。ところが米の値段はわずかな間に3分の2ほどまで下がってしまう。たくさん穫れても安くしか売れなければ、手に入るお金は増えない。「豊作飢饉」と呼ばれた状態だ。農家の大事な現金収入だった繭の値段も、アメリカへの生糸の輸出が落ち込んで暴落した。

そこへ1931年と1934年、東北と北海道を中心に今度は凶作が襲う。豊作でも凶作でも苦しいという状態の中で、学校へ弁当を持ってこられない欠食児童が社会問題になり、借金を返すために娘を都会へ働きに出したり、売られるようにして奉公に出したりする家まで現れた。

政府は1932年から公共の土木工事を起こして、農民や失業者が現金を得られる仕事を作ったが、農村の困窮はなかなか解決しない。こうした中で、新しい土地を求めて満州へ移り住むことが国策として進められていく。のちの満蒙開拓団である。

都市では百貨店に並ぶ新しい家具や洋服を見て買い物をする人がいる。同じころ農村では、今年の米や繭がいくらで売れるのか、凶作にならないか、家族の誰が出稼ぎに行くのかが暮らしのすべてだった。そしてこの農村の窮状が、五・一五事件や二・二六事件の青年将校たちの動機のひとつにもなっている。

違う暮らしが「見えてしまう」時代

貧富の差そのものは、昭和になって初めて生まれたものではない。大きく変わったのは、新聞、雑誌、広告、映画、ラジオを通して、自分とは違う地域や階層の暮らしを知る機会が増えたことだ。

百貨店で洋服を買えなくても、広告を見れば都会で何が流行っているのかはわかる。農村に住んでいても、ラジオや雑誌を通して東京や大阪の文化を知ることができる。その暮らしができることと、その暮らしがあると知っていることが別々になって、社会の中の差がかえってよく見えるようになっていった。

地下鉄で帰っても、家では畳に座り、結婚は家が決める

1930年代の東京や大阪の写真を見ると、地下鉄、百貨店、自動車、洋服と、今の暮らしにかなり近づいて見える。しかし家の中は、すべてが洋風になったわけではない。

阪神間には洋風の家があり、東京には鉄筋のアパートもあるが、多くの家では畳、ちゃぶ台、和式の便所、町家や長屋の暮らしが続いている。風呂のない家も多く、銭湯へ通うのが普通だった。地下鉄で会社から帰ってきた人が、家では着物に着替えて畳に座り、ちゃぶ台で夕食をとる。そんな暮らしは十分にありえた。

家族の形も、今とはかなり違う。戸主、家督、長男、本家と分家、嫁入りと、明治民法の家制度と、江戸時代から続く村や家の慣習が、法律にも暮らしにもしっかり残っていた。街で自由に恋愛をする若者がいても、結婚となれば親や家の意向が強く関わる。

街の見た目は大きく変わっても、家族や人間関係は同じ速さでは変わらない。物の変化と、人の暮らしや心の変化の速さが違っていたことは、この時代の小説を読むうえで忘れないでおきたい。

そのうえで、一人の人が持つ人間関係は増えていく。家には親や兄弟、親族がいて、学校には同級生や先輩後輩、会社には上司や同僚がいる。さらに喫茶店や映画、スポーツを通して、趣味の友人や恋人と時間を過ごす。家や地域の関係が消えたのではなく、その上に学校、会社、友人という別の世界が重なり、一人の人がいくつもの社会に属する暮らしが広がっていった。

1933年で横に並べてみると

1933年(昭和8年)ごろの日本を、地域と暮らし向きで横に並べてみる。

地域・階層 1933年前後に見えている世界
東京の会社員の家 35区になったばかりの大東京。郊外の家から私鉄や地下鉄で都心へ通う
東京の長屋の家 同じ大都市に住みながら、余裕のない暮らし。恐慌で仕事を失った人も多い
大阪の中間層 開業したばかりの地下鉄と、ターミナルの百貨店を使う暮らし
芦屋の裕福な家 郊外の邸宅に住み、テニスなどのスポーツを楽しむ
京都 町家や寺社のある古い街の中を、市電が毎日の足として走る
名古屋 市電と市バスが走る中部の大商工業都市
地方都市 駅前に商店や映画館があるが、大都市ほど交通は発達していない
東北の農村 米と繭の値段、天候、凶作が家計を直撃する。欠食児童や娘の身売りが問題になる

これは、古い時代と新しい時代を並べたものではない。すべて同じ1930年代前半の日本だ。

今なら、住んでいる場所や収入が違っても、誰もがスマホを持ち、同じようなものを見ている。この時代はそうではなく、どこに住んでいるかによって、暮らしも、使える技術も、見えている世界も大きく違っていた。「昭和8年の日本人はどんな暮らしをしていたのか」という問いには、一言では答えられないのだ。

昭和戦前の小説を読むときに気にしておきたいこと

昭和の初めを舞台にした作品には、電車、電話、百貨店、洋服、女中、映画、喫茶店、カフェーと、何気ない物や場所がたくさん出てくる。それは単なる背景ではなく、その人物が社会のどのあたりにいるのかを考える手がかりになる。

作品に出てくるもの 考えてみたいこと
郊外の洋風の家 どんな仕事で、どのくらいの収入があり、どの私鉄の沿線なのか
女中 住み込みの女中を雇えるだけの収入や家の広さがあるのか
百貨店 何を買い、誰と行き、どのくらいの頻度で使っているのか
喫茶店 家族とは別にどんな付き合いを持っているのか
カフェー・女給 酒と女給の店に通える人物なのか。女給として働く人物はどんな事情を抱えているのか
電話 自宅にあるのか、会社や店で使っているのか
洋服 仕事着なのか、おしゃれなのか、普段着なのか
映画・スポーツ 遊びに使える時間とお金を持っているのか
政治や思想の話 人前で話せることなのか、声をひそめる話なのか

たとえば谷崎潤一郎の『細雪』に描かれる阪神間の暮らしは、確かにあった暮らしだ。しかしそれを「戦前の日本人の普通の暮らし」と考えると、かなりずれてしまう。大阪の船場の旧家という家柄、芦屋という土地、私鉄沿線の環境、そして家の財力が重なってはじめて成り立つ暮らしだからだ。

その違いがわかってくると、登場人物が電車に乗る、百貨店へ行く、洋服を買う、女中を雇うといった場面からも、その人物の立ち位置が見えやすくなる。

昭和戦前の作品を読むときの確認ポイント
  • 何年の話なのか(金融恐慌・昭和恐慌のころか、満州事変の前か後か)
  • 東京・大阪・阪神間・京都・名古屋・地方・農村のどこなのか
  • 都心に住んでいるのか、私鉄沿線の郊外なのか
  • 会社員、商人、工場で働く人、農家と、どんな仕事なのか
  • 百貨店や映画館に気軽に行ける収入があるのか
  • 家は洋風の家、アパート、町家、長屋のどれに近いのか
  • 家制度の中で、戸主・長男・嫁などどの立場にいるのか
  • 政治や思想について、どのくらい自由に話せる立場なのか
  • 作品に描かれた暮らしを、その時代の日本人全体のものと思い込んでいないか

昭和戦前をまとめると

明治の初めには、鉄道や学校といった近代国家の仕組みが登場した。明治後期には電車、水道、電話が都市を動かす仕組みになり、大正には郊外から通勤し、百貨店や映画館へ出かける新しい都市の暮らしが生まれた。

昭和の初めには、その暮らしがさらに成熟する。東京には地下鉄が走り、35区の大東京が生まれる。大阪では私鉄と地下鉄と百貨店が結びつき、阪神間には独特の郊外の暮らしが育った。京都では古い街の中で市電が毎日の足になり、名古屋では市電に市バスが加わった。

しかし、そのモダンな暮らしは日本全体に均等に広がったわけではない。大都市の中にも大きな差があり、農村は恐慌と凶作に追い詰められ、街の明るさの裏では思想の締めつけと軍の台頭が進んでいた。

昭和戦前は「モダンな日本」が完成した時代ではない。新しい暮らしが生まれたことで、地域や階層によって「どれだけ暮らしを選べるのか」の差が、それまで以上にはっきり見えるようになった時代だった。

次の戦時中へ――モダンな日常が少しずつ戦争に組み込まれていく

1930年代の前半の日本には、地下鉄、百貨店、映画館、ラジオ、私鉄沿線の住宅地と、成熟した都市の暮らしがあった。1931年に満州事変が起きても、その翌日から映画館や百貨店が消えたわけではない。人々は日常を続けながら、少しずつ戦争との距離を縮めていく。

1937年に日中戦争が始まると、物の制限、配給、動員が普通の家庭へ入り込み、1944年から1945年には学童疎開と空襲によって、家族も街そのものもばらばらにされていく。

次の戦時中では、1936年まで続いていた普通の日常が、1937年から1945年までの間にどんな順番で戦争に組み込まれ、最後には失われていったのかを見ていきたい。

参考文献

・第39回 コーヒーブレイク~caféで語ろう集まろう~(国立国会図書館)

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