配給の列、防空頭巾、防空壕、そして焼け野原。戦時中の暮らしとして写真や教科書で目にするのは、たいていこうした戦争の終わりのころの風景だ。
しかし1937年に日中戦争が始まっても、その翌日から日本の暮らしが一変したわけではない。東京や大阪では電車が走り、百貨店も映画館も営業している。会社員は仕事へ通い、子どもは学校へ行き、休日には街へ出かける。昭和初期に広がった都市の暮らしは、戦争が始まってもそのまま続いていた。
その暮らしの中へ、戦争は少しずつ入り込んでくる。
最初は物の節約と商品の制限だった。やがて食べ物や日用品が配給になり、隣組を通して防空訓練や金属の回収が行われる。戦争が長引くと、学生は学校を離れて工場へ行き、女性も軍需工場へ動員され、都市の子どもたちは親元を離れて疎開する。そして1945年、東京、大阪、神戸、名古屋の市街地が焼かれ、広島と長崎には原子爆弾が落とされ、沖縄では人々が暮らしていた土地そのものが戦場になった。
1937年から1945年までの8年間は、同じ「戦時中」という言葉でひとくくりにできるほど同じ暮らしではない。
この記事では、戦時中を舞台にした小説を読むときに「この人物はどの戦時中を生きているのか」を想像できるように、暮らしの変わり方を年を追って見ていく。
【この記事で扱う時代】1937年(昭和12年)〜1945年(昭和20年)
【見ていく地域】東京・大阪・神戸・名古屋・京都・広島・長崎・沖縄・農村
【この記事の目的】戦時中の小説を読むときのサブテキスト
【前の時代】昭和戦前の暮らし(1926〜1936年ごろ)
- 1937〜1940年 戦争は続いているが、都市の日常はまだかなり残っている。物資の統制が少しずつ始まる。
- 1941〜1943年 アメリカ・イギリスとの戦争が始まり、食べ物・衣類・燃料の不足が暮らし全体に広がる。
- 1944〜1945年 学徒動員、学童疎開、空襲が本格化し、家族も家も街そのものも失われていく。
目次
戦時中の暮らしの流れ
まずは年表で、どのくらいの速さで暮らしが締めつけられていったのかを見ておきたい。
| 年 | 主な出来事 | 暮らしを見るポイント |
|---|---|---|
| 1937年(昭和12年) | 日中戦争開始、大阪の御堂筋完成、浅草国際劇場開場、国民精神総動員運動 | 昭和モダンの街づくりと戦争が同時に進む |
| 1938年(昭和13年) | 国家総動員法、綿製品の統制 | 国が人と物を動かす仕組みができる |
| 1939年(昭和14年) | 国民徴用令、価格等統制令 | 働く場所と物の値段に国が関わり始める |
| 1940年(昭和15年) | 贅沢品の製造販売制限(七・七禁令)、砂糖・マッチの切符制、隣組の整備、ダンスホール閉鎖、紀元二千六百年の祝典 | 「ぜいたくは敵だ」の時代が始まる |
| 1941年(昭和16年) | 国民学校発足、六大都市で米の通帳配給、金属類回収令、太平洋戦争開戦 | 主食まで配給になり、戦争の相手が広がる |
| 1942年(昭和17年) | 衣料切符制、東京などに初空襲、ミッドウェー海戦 | 服も自由に買えなくなる。戦局が傾き始める |
| 1943年(昭和18年) | 学徒出陣 | 大学生が戦場へ送られる |
| 1944年(昭和19年) | 劇場・高級料理店の閉鎖、学徒勤労動員の通年化、女子挺身勤労令、学童集団疎開、サイパン陥落、本土空襲の本格化 | 娯楽が消え、家族が別々に暮らし始める |
| 1945年(昭和20年) | 東京大空襲、大阪・神戸・名古屋などの大空襲、沖縄戦、広島・長崎への原爆投下、8月15日終戦 | 暮らしではなく、街そのものが失われる |
1937年、戦争が始まっても街の日常は残っていた
1937年7月、日中戦争が始まる。ここから日本は8年に及ぶ長い戦争へ入っていくのだが、この年の街の様子は、私たちが「戦時中」と聞いて思い浮かべる風景とはかなり違う。
東京では電車や地下鉄が走り、会社員は通勤し、学生は学校へ通う。休日には百貨店へ出かけ、映画や芝居を見て、喫茶店で時間をつぶす。浅草の松屋の屋上には遊園地があり、子どもが遊んでいる。
戦争が始まったのとほぼ同じ1937年7月には、浅草に国際劇場が開場している。五千人が入る「東洋一」とうたわれた大劇場で、松竹少女歌劇団の公演が行われた。戦争の始まりと同じ月に、これだけ大きな娯楽施設が開いている。昭和初期に育った都市の娯楽文化は、まだ勢いを失っていなかった。
大阪では都市の近代化がまだ続いていた
大阪では同じ1937年に御堂筋が完成している。幅約44メートルの大通りで、その地下には地下鉄が走る。御堂筋や堺筋には百貨店が並び、梅田や道頓堀には映画館があり、夜になればカフェーのネオンが光る。家ではラジオから流行歌が流れてくる。
戦争へ向かっている時代でありながら、東京でも大阪でも、昭和モダンの街づくりはまだ止まっていなかったのだ。
家の中まで「モダン」だったわけではない
街が華やかだからといって、家の中までモダンだったわけではない。
このころの一般家庭にある電化製品は、電灯とラジオくらいのものだ。都市では水道やガスが広がっていたが、台所では炭や薪を使うかまどや七輪で煮炊きをする家もまだ多く、地域によっては井戸水を使っている。冷蔵庫があったとしても、氷屋から買った氷で冷やす木の箱だ。
地下鉄に乗って会社へ行き、帰りにネオンの下を歩いて映画を見る。その人が家に帰れば、畳の部屋があり、台所では七輪に火を起こしている。1937年の都市の暮らしは、モダンな街と昔ながらの家の両方でできていた。
それでも、街の空気は変わり始める
変化がなかったわけではない。戦争が長引くにつれて、日の丸の小旗を振って出征する兵士を見送る光景が各地で見られるようになり、新聞もラジオも戦地の様子を大きく伝える。街角では、千人の女性に一針ずつ縫ってもらう千人針を頼む姿も見られた。
同じ年の秋には国民精神総動員運動が始まり、国民みんなで戦争を支えようという空気が強く打ち出されていく。
1937年は、平時の暮らしが終わった年ではない。昭和モダンの暮らしをそのまま残しながら、その中に戦争が入り込み始めた年だったのだ。
1938〜1940年、「ぜいたくは敵だ」の時代へ
1938年に国家総動員法が制定される。戦争に必要な人、物、お金、会社の活動を、政府が議会を通さずに広く統制できるようにする法律だ。
法律ができた翌日から家庭の暮らしが急に変わったわけではない。ただ、この法律を土台にして、働く場所、作る物、売る物、その値段にまで、国が口を出す範囲がどんどん広がっていく。1939年には国民徴用令で国が人を軍需工場へ送り込めるようになり、価格等統制令で物の値段が据え置かれた。
鉄や銅、綿、皮革は軍需が優先される。綿の服にはスフと呼ばれる人造繊維が混ぜられるようになり、金属のかわりに陶器や木、竹で作られた代用品が店に並び始める。
そして1940年7月、贅沢品の製造や販売を禁じる規則が出る。指輪や宝石、高価な着物が店から消え、街には「ぜいたくは敵だ」という看板が立った。パーマネントも贅沢として白い目で見られ、同じ年の秋には東京のダンスホールが閉鎖される。男性には、軍服に似たカーキ色の国民服が定められた。
ところが同じ1940年の11月には、紀元二千六百年を祝う祝典が全国で盛大に行われている。提灯行列があり、祝い酒が配られ、街はお祭り騒ぎになった。祝典が終わると「祝ひ終つた さあ働かう」という標語が出て、街の空気はまた引き締められる。
戦時中の明るい記憶として語られることも多いこの祝典は、華やかさが許された最後の大きな催しだったのかもしれない。
1940年、配給が家の中へ入ってくる
1940年6月、東京、大阪、横浜、名古屋、京都、神戸の六大都市で、砂糖とマッチの切符制が始まる。11月には全国へ広がり、翌1941年4月には六大都市で米も通帳による配給になった。1942年には衣料切符制が始まり、服を買うにも切符が必要になる。
それまでは、お金を持って店へ行けば物が買えた。配給になると、お金だけでは何も買えない。切符や通帳を持って行き、決められた量だけを受け取る。
昭和モダンの時代に広がった「何を買うかを自分で選ぶ暮らし」が、「国が決めた量を受け取る暮らし」へ変わっていった。
配給になっても、みんなが同じ暮らしになったわけではない
配給は所得に関係なく同じ量が配られる。それだけを見れば、戦前よりも暮らしの差が小さくなったように思える。
しかし実際には、食べ物を手に入れる力にははっきりと差があった。農村に親戚がいて米や野菜を送ってもらえる家。庭や空き地で野菜を作れる家。一方で、都市の小さな借家に住み、農村とのつながりもない家は、配給が足りなければ自分で食べ物を探すしかない。
そこで出てくるのが、農村まで食べ物を買いに行く「買い出し」と、配給の外で高い値段で取引される「闇」だ。着物を持って農家を回り、米やイモと交換してもらう。これは戦争が終わってからの話と思われがちだが、戦時中からすでに始まっている。
戦前はお金のあるなしが暮らしを分けていた。戦争が進むと、農村とのつながり、畑にできる土地、住んでいる場所が暮らしを分けるようになっていく。
隣組――近所づきあいが、国とつながる
1940年には町内会や部落会が全国で整えられ、その下に隣組が作られる。数軒から十数軒の家をひとつにまとめた小さな組で、配給、防空訓練、金属の回収、回覧板がこの単位で回っていく。
近所で助け合う場所でもあったが、同時に国からの指示を一軒一軒に届ける役目も持っていた。バケツリレーの防空訓練に出てこない家、灯火管制で明かりが漏れている家は、近所の目にすぐ見つかる。
明治から昭和初期にかけて、都市では学校や会社、友人と、近所の外に人間関係が広がっていった。それが戦時中になると、近所という関係がまた強くなる。助け合う場所であると同時に、お互いを見張る場所にもなっていったのだ。
赤紙と白木の箱――出征と戦死の知らせ
戦争が長引くほど、町からも村からも次々と男たちが戦地へ送られていく。召集令状は薄い赤色の紙に刷られていたことから「赤紙」と呼ばれた。赤紙が届くと、数日のうちに家族や近所、隣組の人たちに日の丸の小旗で見送られ、駅から戦地へ向かう。
しばらくすると、今度は戦死の知らせが届く家が出てくる。遺骨は白木の箱に納められて帰ってくるが、戦争の終わりが近づくと、箱の中には遺骨ではなく石や名前を書いた紙しか入っていないことも多かった。戦死した人は「英霊」とたたえられ、家族は人前で悲しみを見せにくい空気の中に置かれた。
戦時中の小説で、家族の誰かが出征している家や、戦死の知らせを受けた家が出てきたら、その裏にはこうした見送りの光景と、声に出しにくい悲しみがあったことを思い浮かべておきたい。
1941年以降、暮らしの選択肢がひとつずつ減っていく
1941年12月8日、日本はアメリカやイギリスとの戦争に入る。開戦直後は勝利の知らせが続き、街は沸き立った。しかし1942年6月のミッドウェー海戦を境に戦局は傾き、食べ物、衣類、燃料の不足がいっそう目立つようになる。「欲しがりません勝つまでは」という標語が生まれたのもこの年だ。
それでも1942年の東京や大阪には電車が走り、映画館は開いていて、子どもは学校へ通っている。1945年の焼け跡の写真だけを見て、開戦からずっとあの暮らしが続いていたと思うと、かなり違ってくる。
戦争は一度に暮らしを壊したのではない。昨日まで選べたものが、ひとつずつ選べなくなっていったのだ。
言葉も音楽も小説も、自由ではなくなる
選べなくなったのは物だけではない。アメリカやイギリスとの戦争が始まると、英語は「敵性語」として避けられるようになり、1943年には野球でもストライクを「よし」、アウトを「ひけ」と言い換えるようになる。ジャズなどアメリカやイギリスの音楽も、演奏や放送が禁じられていった。
新聞や雑誌、ラジオは国の方針に沿った内容ばかりになり、小説も例外ではない。昭和戦前の記事で取り上げた谷崎潤一郎の『細雪』も、1943年に雑誌で連載が始まったものの、時局にそぐわないとして2回で掲載を止められた。谷崎はそれでもひそかに書き続け、作品が広く世に出るのは戦後になってからだ。
戦時中に書かれ、出版された作品は、こうした検閲の目をくぐって世に出ている。一方で、戦争が終わってから戦時中を振り返って書かれた作品もある。同じ戦時中を描いていても、いつ書かれたのかによって、書けたこと、書けなかったことが違ってくる。
学校へ行っていた学生が、工場へ行くようになる
1941年4月、尋常小学校は国民学校へ名前を変え、教育の中身も国家と戦争に強く結びついたものになる。
戦局が悪くなると、学校で勉強すること自体が難しくなっていく。1943年10月には、それまで兵役を猶予されていた文科系の大学生が戦場へ送られる学徒出陣が始まり、雨の明治神宮外苑で壮行会が開かれた。1944年には中学生以上の生徒や学生が、一年中軍需工場で働く勤労動員が本格化する。
大正から昭和初期にかけて、学校は家や近所の外に新しい人間関係を作る場所だった。その学校が戦争の終わりには、勉強をする場所から、戦争を支える働き手を送り出す場所へと変わっていった。
女性が働く意味も変わっていく
昭和初期には、電話交換手、タイピスト、事務員、百貨店の店員、看護婦と、都市で働く女性の姿が目立つようになっていた。いわゆる職業婦人だ。
戦争が進むと男性が次々と軍隊へ取られ、工場や駅、電車の現場で人が足りなくなる。その穴を埋めるために女性が求められ、1944年には女子挺身勤労令によって、未婚の女性が軍需工場へ動員されるようになった。服装もスカートではなく、もんぺが当たり前になっていく。
自分で仕事を選んで働く職業婦人と、戦争を続けるために働き手として動員される女性。同じ「働く女性」でも、その意味は大きく違う。
1944年、娯楽が消え、子どもが親元を離れる
1944年の春には、高級料理店や待合、劇場が閉鎖される。歌舞伎座も宝塚大劇場も幕を下ろした。1937年に五千人劇場が開いていたことを思うと、7年でここまで来たことになる。
同じ年の7月にサイパン島が陥落すると、そこから飛び立つB29によって本土の大都市が空襲を受けることがほぼ確実になった。そこで都市の子どもたちを地方へ移す学童疎開が本格化する。親戚を頼る縁故疎開がまず勧められ、行き先のない国民学校の3年生から6年生は、学校ごとに集団疎開をした。
東京では約20万人、大阪では約7万人、名古屋では約3万5,000人、神戸・尼崎では約2万1,000人の子どもが集団疎開したとされている。寺や旅館で親と離れて暮らし、食べ物も燃料も足りない中で、子どもたちは空腹とさみしさに耐えることになった。
子どもと離れて暮らすことを選ばなければならないところまで、戦争は家の中へ入ってきていた。
農村も戦争の外にいたわけではない
都市の空襲の話が目立つため、空襲の少ない農村は戦争の影響が小さかったように思われがちだ。
しかし農村からも男性は出征し、田畑で働く人手は減っていく。それでも食べ物を作り、決められた量の米を国へ差し出す供出が求められる。そこへ都市からの疎開者や疎開してきた子どもたちが加わり、買い出しの人も押し寄せてくる。
都市では「どうやって食べ物を手に入れるか」が問題になり、農村では「人手の足りない中で、どうやって食べ物を作り続けるか」が問題になっていた。
1944〜1945年、切符があっても物がない
戦争の終わりが近づくと、配給という仕組みそのものがうまく回らなくなる。
切符や通帳を持っていても、配給所に品物が届かない。米のかわりにイモや大豆、雑穀が配られる。空き地も校庭も畑になる。
交通も同じだ。昭和初期の電車やバスは、郊外から会社へ通う新しい暮らしを作った便利な乗り物だった。それが戦時中には燃料も部品も人も足りなくなり、ガソリンのかわりに木炭を燃やして走る木炭バスが使われるようになる。便利だから乗る乗り物から、限られた資源でなんとか動かし続ける乗り物へと変わっていった。
戦争の終わりには、物を自由に選べないどころか、国が決めた仕組みの中でさえ必要な物が手に入らなくなっていた。
1945年、暮らしではなく街そのものが失われる
1944年の末から本土への空襲が本格化する。
それまで戦争は、物が減る、配給になる、男手が出征するという形で暮らしへ入ってきていた。大空襲が始まると、それがもっと直接的になる。家が焼ける。学校が焼ける。店がなくなる。近所の人が亡くなる。
暮らしを続けるための場所そのものが、失われていった。
東京――巨大都市の下町が焼ける
東京が初めて空襲を受けたのは1942年4月だが、本格的な空襲は1944年11月から始まる。被害が特に大きかったのが、1945年3月10日の東京大空襲だ。
木造の家が密集する下町に大量の焼夷弾が落とされ、一夜で約10万人が亡くなったといわれている。十数年前には地下鉄、百貨店、映画館、郊外住宅を持つ巨大都市として栄えていた東京の、広い範囲が焼け野原になった。
大阪――「大大阪」の街も焼ける
大阪でも1945年に大きな空襲が繰り返された。3月13日の深夜から14日にかけての第1次大阪大空襲では、13万6,107戸が被災し、50万1,578人が焼け出され、3,987人が亡くなったとされる。その後も6月、7月、8月と空襲は続いた。
1937年に御堂筋が完成し、地下鉄、私鉄、市電、百貨店、工場を持つ「大大阪」と呼ばれた街は、わずか8年後に広い範囲を失った。
神戸・阪神間――港だけではなく住宅地も焼ける
港、造船、鉄鋼の工業都市だった神戸は、繰り返し空襲を受けた。神戸市の記録では、焼けた家14万2,586戸、焼け出された人53万1,694人、亡くなった人7,524人に達している。
被害は港や工場だけではない。芦屋や西宮など、大正から昭和初期に私鉄沿線に作られた阪神間の住宅地も空襲を受けている。郊外の穏やかな暮らしも、戦争から離れた場所ではなかった。
名古屋――工業都市であることが、狙われる理由になる
名古屋は明治後期から工業都市として育ち、戦時中には飛行機を作る航空機産業の重要な拠点になっていた。そのため1944年の末から激しい空襲を受け、建物の約4割が焼け、約8,000人が亡くなったとされる。
明治から積み上げてきた工業化が、戦争の中では攻撃される理由にもなったのだ。
京都――焼け野原にはならなくても、戦争の外ではない
京都は東京や大阪のように街が丸ごと焼けることはなかった。それでも空襲がなかったわけではなく、1945年1月の馬町空襲では34人が亡くなっている。
空襲の火が燃え広がるのを防ぐために家を取り壊す建物疎開も行われ、御池通、五条通、堀川通の沿道の家が壊された。今の京都の広い通りのいくつかは、このときの名残だ。もちろん配給も、徴兵も、学徒動員も、疎開もある。京都も戦争の外にいたわけではなかった。
広島と長崎――原子爆弾が落とされる
1945年8月6日、広島に原子爆弾が落とされた。広島市では1945年の末までに約14万人が亡くなったと推計している。
このとき広島では、京都と同じように建物疎開の作業が行われていた。その作業には多くの中学生や女学生が動員されていて、屋外で作業中に被爆している。本来なら学校にいるはずの年の子どもたちが戦争のための作業に出ていて、そこで原爆に遭った。戦争の終わりの社会がどこまで変わっていたのかが、ここにはっきりと表れている。
3日後の8月9日には長崎にも原子爆弾が落とされ、1945年の末までに約7万4,000人が亡くなったとされる。
沖縄――暮らしている土地そのものが戦場になる
沖縄では、本土の都市とは違う形で戦争がやってくる。1945年3月末から約3か月にわたって地上戦が続き、軍隊だけではなく、住民が暮らしていた村や町そのものが戦場になった。
沖縄県は、沖縄戦で亡くなった住民を約9万4,000人としている。本土では空から焼かれたが、沖縄では人々が暮らす土地の上で戦闘が行われたのだ。
戦争は暮らしを同じにしながら、地域の差を大きくした
配給、隣組、国民学校、勤労動員と、戦時中には全国共通の仕組みが暮らしへ入ってくる。東京でも大阪でも地方でも同じ制度に縛られ、暮らしは制度の上では戦前よりも同じになっていった。
ところが1945年になると、実際の暮らしは地域によってまったく違うものになる。
| 地域 | 1945年に起きていること |
|---|---|
| 東京 | 3月10日の大空襲をはじめ、下町を中心に広い市街地が焼ける |
| 大阪 | 3月から8月まで空襲が繰り返され、市街地に大きな被害 |
| 神戸・阪神間 | 港や工場だけでなく、郊外の住宅地も空襲を受ける |
| 名古屋 | 航空機産業の拠点として激しい空襲を受ける |
| 京都 | 市街地の大部分は残るが、空襲・建物疎開・配給・動員を経験する |
| 広島・長崎 | 8月6日と9日の原爆で、街が壊滅的な被害を受ける |
| 沖縄 | 住民の暮らす土地そのものが地上戦の場になる |
| 農村 | 人手不足の中での食料生産と供出、疎開者や買い出しの受け入れ |
全国で同じ統制を受けながら、戦争が終わったときの暮らしの条件は地域ごとに大きく分かれていた。そしてこの違いが、そのまま戦後の出発点になっていく。
戦時中の小説を読むときに気にしておきたいこと
戦時中を舞台にした作品を読むなら、まずは何年の話なのかを見ておきたい。
1938年なら、百貨店や映画館といった昭和モダンの暮らしがまだかなり残っている。1942年なら、配給と切符が毎日の暮らしに深く入り込んでいる。1944年なら、劇場は閉まり、学生は工場へ行き、子どもは疎開していて、家族が別々の場所で暮らしているかもしれない。1945年なら、地域によっては家も街も失っている。
同じ「戦時中」でも、その人物が見ている風景はこれだけ違う。
- 1937〜1940年、1941〜1943年、1944〜1945年のどの時期なのか
- どこの話なのか。その地域は空襲を受ける前なのか、後なのか
- 食べ物は配給だけなのか、農村とのつながりや買い出しのあてがあるのか
- 家族の中に出征している人はいるのか
- 学生は学校にいるのか、工場へ動員されているのか
- 子どもは家族と暮らしているのか、疎開しているのか
- 女性の仕事は自分で選んだものなのか、動員によるものなのか
- 家や街そのものがまだ残っている時期なのか
- 作品が戦時中に書かれたものか、戦後に振り返って書かれたものか
戦後へ――戦争が終わっても、戦前には戻れない
1945年8月15日、ラジオから流れる天皇の声で戦争は終わった。
空襲は終わる。しかし焼けた家や学校が元に戻るわけではない。食べ物の不足はむしろひどくなり、戦場から帰ってくる復員兵、疎開先から戻る人、海外からの引揚者が各地へあふれていく。戦時中に始まった買い出しと闇は、焼け跡の闇市として街の真ん中に現れる。
大きく焼けた東京、大阪、神戸、名古屋、広島、長崎と、建物が多く残った京都では、戦後の出発点が違う。沖縄は本土と切り離され、アメリカの統治下に入る。そして家制度、学校、選挙と、社会の仕組みそのものも変わっていく。
次の戦後復興期では、戦争で失った暮らしを元に戻すのではなく、戦前とは違う社会をどのように作っていったのかを見ていきたい。
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