1945年8月15日の正午、ラジオから天皇の声が流れ、戦争は終わった。けれど次の日の朝、焼け跡で目を覚ました人たちの暮らしは、何ひとつ楽になっていなかった。
東京、大阪、神戸、名古屋、広島と、広い市街地が焼け、家も店も学校も工場もなくなっている。食べ物も着る物も足りず、配給は遅れてばかりで、人々は焼け跡のバラックや駅前の闇市から暮らしを立て直していくことになる。空襲の恐怖は消えたが、終戦直後のほうが戦争中よりも食べられなかったという人も多い。
その一方で、この10年の間に、女性の選挙権、新しい憲法、家制度の廃止、六・三・三・四制の学校と、今の日本につながる仕組みが一気に作られていく。街にはまだ戦前の建物すら戻っていないのに、法律や学校は戦前とはまったく別のものになっていた。暮らしが元に戻るより先に、社会の仕組みのほうが作り替えられてしまった時代だ。
そしてもうひとつ大事なのは、1945年の出発点が地域によって大きく違うことだ。焼け野原から始めた街、街の大部分が残った京都、占領軍に港や中心部を使われた横浜や神戸、原爆を受けた広島、そして本土とは別の道を歩むことになる沖縄。同じ「戦後」でも、立っている場所がまるで違っていた。
この記事では、戦後を舞台にした小説を読むときに「この人物は焼け跡のどこに立っていたのか」を想像できるように、当時の暮らしと地域の違いを整理していく。
【この記事で扱う時代】1945年(昭和20年)〜1955年(昭和30年)ごろ
【見ていく地域】東京・横浜・大阪・京都・神戸と阪神間・名古屋・広島・沖縄・農村
【この記事の目的】戦後復興期の小説を読むときのサブテキスト
【前の時代】戦時中の暮らし(1937〜1945年)
【次の時代】昭和中期・高度経済成長期の暮らし
目次
戦時中から何が変わったのか
| 戦争の終わりごろ |
戦後復興期 |
| 空襲から家と命を守る |
焼け跡に家と暮らしを作り直す |
| 配給に頼る |
足りない配給を、闇市と買い出しで補う |
| 男たちは出征している |
復員兵が戻ってくる。戻ってこない人もいる |
| 子どもは疎開している |
疎開先から都市へ戻る。親を失った子もいる |
| 軍人や民間人が海外に出ている |
海外から大勢の引揚者が帰ってくる |
| 国の検閲の下で書き、読む |
占領軍の検閲の下で書き、読む |
| 家制度と華族がある |
家制度と家督相続、華族が廃止される |
| 女性に選挙権がない |
女性も選挙で投票し、議員になる |
| 国民学校 |
墨を塗った教科書から始まり、六・三・三・四制へ |
| 「帝都」東京 |
23区の東京へ。戦後日本の首都として作り直される |
戦後復興期の大きな流れ
年表にすると、食べることにも困っている最中に、国の仕組みが次々と変わっていったことがよくわかる。
| 年 |
主な出来事 |
暮らしを見るポイント |
| 1945年(昭和20年) |
8月15日終戦、占領の始まり、教科書の墨塗り、女性に選挙権 |
焼け跡と闇市、復員と引揚げの時代が始まる |
| 1946年(昭和21年) |
新円切替と預金封鎖、女性が初めて投票した総選挙、農地改革、日本国憲法公布、東京裁判開始 |
物価が上がり続ける中で、政治の仕組みが変わる |
| 1947年(昭和22年) |
日本国憲法施行、六・三制の学校が始まる、学校給食が広がる、東京23区成立、民法改正、華族廃止 |
家族・教育・地方自治の土台が変わる |
| 1948年(昭和23年) |
沖縄でB円が唯一の通貨に |
制度は変わっても、住まいと物の不足は続く |
| 1949年(昭和24年) |
ドッジ・ライン、広島平和記念都市建設法 |
物価は落ち着くが、不景気と人員整理が始まる |
| 1950年(昭和25年) |
朝鮮戦争と特需、首都建設法、京都国際文化観光都市建設法 |
復興が一気に進み、これからの街の姿を考える段階へ |
| 1951年(昭和26年) |
サンフランシスコ平和条約調印 |
占領の終わりが見えてくる |
| 1952年(昭和27年) |
平和条約発効、本土の占領終了、琉球政府設置 |
本土は主権を取り戻すが、沖縄はアメリカの施政権下に残る |
| 1953年(昭和28年) |
テレビ放送開始 |
新しいメディアが登場するが、まだ街頭で見るもの |
| 1954年(昭和29年) |
東京で戦後初の地下鉄・丸ノ内線開業 |
都市交通が「直す」から「広げる」段階へ |
| 1955年(昭和30年) |
広島平和記念資料館開館 |
復興から高度経済成長へ移っていく |
戦争が終わっても、もっと食べられなくなった
終戦で空襲はなくなったが、食べ物、着る物、住む場所の不足は終わらない。むしろ食べ物はさらに足りなくなった。
1945年は凶作で、植民地や占領地から入ってきていた米も止まった。そこへ兵士や海外の日本人が次々と帰ってくる。戦時中から続く配給は遅れる「遅配」と、届かない「欠配」が当たり前になり、配給だけで暮らしていくことはほとんどできなかった。昭和館の展示でも、終戦直後の食料事情は戦争中よりも悪くなったと説明されている。
それを象徴する出来事がある。1947年、東京の山口良忠という裁判官が、法を守る立場の者が闇の食べ物を買うわけにはいかないと配給だけで暮らし続け、栄養失調で亡くなった。法律を守ると生きていけない。それがこの時代の現実だった。
闇市――違法でも、暮らしを支える場所
配給で足りない物を手に入れる場所として、各地の駅前に闇市が生まれる。新宿、上野、新橋、大阪の梅田や鶴橋と、焼け跡の駅前にはござを敷いた露店やバラックの店がひしめき合った。
値段の決まりを無視した売り買いは違法だった。それでも都市で暮らす人にとっては、食べ物、着る物、日用品を手に入れる大事な場所だ。食べ物だけではなく、簡単な飲み屋や食堂、古着の店も集まり、戦争で止まった街の商売が別の形で動き出していく。今も駅前に残る飲み屋街や市場の中には、この闇市から始まったところも少なくない。
戦前の百貨店を中心とした買い物から、焼け跡の露店と闇市へ。昭和戦前の記事で見た「何を買うかを選ぶ暮らし」は、わずか10年ほどで、どうやって食べ物を手に入れるかという暮らしに変わっていた。
買い出しと「タケノコ生活」
食べ物が足りなくなると、都市の人たちはすし詰めの列車に乗って農村へ買い出しに行った。ただ、お金を持って行っても、農家は簡単には米を分けてくれない。そこで持っていくのが着物だ。
家にある着物を一枚ずつ持ち出して、米やイモと交換する。タケノコの皮を一枚ずつはぐように持ち物を手放して食べつないでいく暮らしは、「タケノコ生活」と呼ばれた。苦労して手に入れた米も、帰りの駅で警察の取り締まりにあって取り上げられることがあった。
戦前は、都市が豊かで農村が貧しかった。それが戦後すぐには逆転する。都市には人と品物の市場はあっても食べ物がない。農村には食べ物を作る力がある。都市の人たちが農村とのつながりに頼らなければ生きていけない時代になったのだ。
新円切替――貯金が使えなくなる
物が足りないうえに、お金の価値もどんどん下がっていく。終戦から数年の間に、物の値段は何十倍にも跳ね上がった。
この物価の上昇を抑えるため、1946年2月、政府は突然、銀行の預金を引き出せないように封鎖し、古いお札を使えなくして新しいお札に切り替えた。新円切替だ。引き出せるのは、世帯主が月に300円、家族は一人100円まで。それまでこつこつ貯めてきた預金は、事実上自由に使えなくなってしまった。
戦前にそれなりの財産を持っていた家も、預金の封鎖とインフレで一気に苦しくなる。戦後の小説で、かつてのお金持ちが着物や家財を売って暮らしている場面が出てきたら、その背景にはこうしたお金の価値の崩れがある。
焼け跡では、まず「屋根」が必要だった
大都市で最初に問題になったのは住む場所だ。家を焼かれた人たちは、焼け残った木材やトタンを集めて焼け跡にバラックを建てたり、防空壕にそのまま住んだり、焼け残った家に何家族もが身を寄せ合ったりして暮らした。
そこへ復員兵、疎開していた人、海外からの引揚者が戻ってきて、都市の人口は急に増えていく。家を建てる速さは、まったく追いつかなかった。
戦前なら「どんな家に住むか」が暮らしの差だった。終戦直後には「雨露をしのげる屋根があるか」というところまで、暮らしの条件が戻ってしまっていた。
誰が戻ってくるのか――復員、引揚げ、尋ね人
終戦のあと、日本中で大勢の人が動き出す。軍隊から帰ってくる復員兵、疎開先から戻る人たち、満州や朝鮮半島、樺太、南方から引き揚げてくる人たち。海外にいた日本人は、軍人と民間人をあわせて600万人以上にのぼった。
家族が再会できた家もあれば、戦死や行方不明で戻らない人がいる家もある。旧満州などで捕まった人たちの中には、ソ連のシベリアなどへ送られて何年も働かされた人も多く、最後の引揚げ船が着くのは1956年になってからだった。夫や息子が生きているのかどうかもわからないまま、何年も待ち続ける家族がいた。
1946年からはNHKのラジオで「尋ね人」という番組が始まり、離ればなれになった家族や知り合いの消息を探す声が毎日読み上げられた。この番組は1962年まで続いている。
空襲で親を失った子どもたちもいる。1948年の国の調査では、親のいない子どもは12万人を超えていた。上野駅の地下道などには、行き場のない子どもたちが寝泊まりし、靴みがきや物売りをして暮らしていた。
戦争で引き裂かれた家族は、8月15日で元に戻ったわけではない。誰が戻ってくるのか、どこで誰と暮らすのかを決め直すこと自体が、戦後の暮らしの立て直しだった。戦後の小説に、戻ってきた夫と家族のぎこちない関係や、帰りを待ち続ける人が描かれるのも、こうした背景があるからだろう。
占領下の暮らし――進駐軍と検閲
1945年から1952年まで、日本はアメリカを中心とする連合国軍の占領下にあった。GHQと呼ばれる総司令部が日本政府に指示を出し、街には「進駐軍」と呼ばれた兵士たちが行き交う。ジープを追いかけて「ギブミーチョコレート」と言う子どもたちの姿は、この時代を表す風景としてよく語られる。
焼け跡では、生きていくために占領軍の兵士を相手にする女性たちもいた。田村泰次郎の『肉体の門』のように、焼け跡で生きる女性たちを描いた作品が戦後すぐに生まれたのも、それが当時の街の現実だったからだ。
もうひとつ見落としやすいのが、占領軍による検閲だ。戦時中の国による検閲が終わったと思ったら、今度は占領軍が新聞や雑誌、本、映画を検閲した。占領軍への批判や、原爆の被害を詳しく伝えることは厳しく制限されている。戦時中の記事で、作品がいつ書かれたのかによって書けることが違うと書いたが、それは戦後の占領期にもあてはまる。
東京――人口が半分以下になり、すぐに戻り始める
まず押さえておきたいのは、戦時中の1943年に東京市がなくなり、東京府と一体になって「東京都」になっていることだ。戦前の小説の「東京市」と、戦後の小説の「東京都」は、そもそも仕組みが違う。
東京都の人口は、1940年には約735万人だった。それが空襲と疎開で、1945年には約349万人と半分以下に減る。ところが終戦後には人が急に戻り、1950年には約628万人まで回復した。区部だけで見ても、1945年に約278万人だった人口が、1947年には約418万人まで増えている。焼けた街に、家や道路ができるより速く人が戻ってきたのだ。
復興計画は、人が戻る速さに追いつけなかった
東京では終戦直後から大きな復興計画が考えられた。人が都心に集まりすぎないよう、周りの街へ分散させる考えもあった。
しかし現実には、仕事や学校を求めて人が東京へ戻り続ける。お金も足りず、1950年には区画整理を行う範囲を約2万ヘクタールから5000ヘクタール足らずへと大幅に縮めることになった。理想の新しい首都を一から作るより先に、人が住み、働く巨大な街のほうが勝手にできあがっていったのだ。
「帝都」から、23区の首都へ
東京の役割も変わる。戦前の東京は天皇と政府を中心とする「帝都」で、軍の機能も集まっていた。1950年の首都建設法では、東京を平和国家の政治、経済、文化の中心として作っていく考え方が示された。このころから東京は、政府の街というだけではなく、会社、銀行、大学、出版、放送が集まる戦後日本の中心として、再び大きくなっていく。
形も変わった。昭和戦前の記事で見た35区は、1947年3月に22区にまとめられ、8月に練馬区が板橋区から分かれて23区になる。今の「東京23区」という枠組みは、戦後の焼け跡の中で生まれたものだ。
横浜――焼け跡と「接収された街」から始める
横浜の戦後は、東京とは違う難しさを抱えていた。横浜大空襲で大きな被害を受けたうえに、終戦後は港や中心部が占領軍に広く接収されたのだ。
接収されたのは軍の施設だけではない。住宅、事務所、劇場、百貨店、役所、学校、公園と、市民の暮らしに必要な場所にまで及び、最も多いときで約1200ヘクタールが接収された。港も自由には使えない。横浜は、戦争で壊れた街を直すことと、占領軍に使われている街を取り戻すことを、同時に進めなければならなかった。
横浜は幕末から外国との玄関口だった街だ。しかし戦後の外国との出会いは、開港場の商人や居留地とは意味が違う。占領軍の兵士が街を歩き、英語の看板が立ち、日本人が入れない場所がある。ジャズやアメリカ風の服といった新しい文化も入ってきたが、その背景には占領という力関係があった。同じ「外国人の多い横浜」でも、明治の居留地の横浜とはまるで別物だった。
大阪――焼け跡の上で、道と街区を作り直す
大阪も空襲で中心部を含む広い範囲を失った。戦後の大阪では、焼けた建物を同じ場所に建て直すだけではなく、区画整理で道路や宅地の形そのものを作り直す事業が進められる。1946年度から始まった戦災復興の区画整理は、46工区、約2243ヘクタールに及んだ。
戦前の細い道と密集した家並みをそのまま戻すのではなく、道を広げ、公園を作りながら新しい街を作ろうとしたのだ。今の大阪の道路や街並みの中にも、このとき形が決まった場所がある。
京都――焼け跡から作り直す必要がなかった街
京都も空襲や建物疎開、戦後の接収を経験している。それでも、東京、大阪、神戸、名古屋のように街全体が焼けた都市とは状況が違った。町家も寺社も道も市電も、戦前からの街並みがたくさん残っている。
そのため京都では、焼け跡に一から新しい街を作るのではなく、戦前の街を使いながら、仕組みや役割を戦後の形へ変えていくことになる。戦時中の建物疎開で家が取り壊された御池通、五条通、堀川通は、戦後に広い道路として整えられた。
1950年には京都国際文化観光都市建設法ができ、京都は文化財、大学、観光、国際交流を生かした街を目指すことになる。都でなくなった明治の初めに、教育と技術で街を立て直そうとしたのと同じように、戦後の京都でも「この街はどんな街として生きていくのか」が改めて問われていた。
神戸と阪神間――焼けた街と、使えない港
神戸は戦争の終わりの空襲で、市街地の約6割を失った。人口も戦前の約100万人から、1945年11月には約38万人まで減っている。
そのうえ終戦後は、港の施設の約7割が占領軍に接収され、市街地の土地や建物、工場、倉庫も接収された。港とともに大きくなってきた神戸にとって、港を思うように使えないことは、復興の大きな足かせだった。神戸は戦争で壊れた街であると同時に、復興に欠かせない港と土地を占領軍に使われた街でもあった。
大正から昭和の初めに育った西宮、芦屋、御影の郊外の暮らしも、空襲や戦死、物資の不足で一度は途切れている。それでも私鉄の線路と住宅地としての土地の条件は残った。復興と経済成長が進むにつれて、この地域は再び大阪や神戸へ通う人たちの住宅地として育っていく。戦前の郊外の文化は消えたのではなく、一度大きく壊れたあと、戦後の形へ組み替えられていったのだ。
名古屋――焼け跡を使って、街の形そのものを変える
名古屋も空襲で中心部を含む広い範囲が焼けた。その焼け跡を使って進められたのが、思い切った復興計画だ。
1945年の終わりから計画が作られ、1946年には幅100メートルの道路を含む新しい道路の計画が決まる。のちの久屋大通と若宮大通だ。これだけ道を広くしたのは、自動車のためだけではない。火事が燃え広がるのを防ぎ、いざというときの逃げ場にもなり、街の見た目もよくする。焼ける前の街を戻すのではなく、将来人口200万人になっても暮らせる街を作ろうとしたところに、名古屋の復興の特徴がある。
広島――「元に戻す」だけではない復興
広島は原爆で中心部が壊滅した。家や道を直すだけでも大変な中で、戦後の広島では「どんな意味を持つ街として作り直すのか」まで話し合われる。
1949年には広島平和記念都市建設法ができ、広島をいつまでも続く平和の象徴となる街として建設する方針が法律で決まった。1950年からは平和記念公園の整備が進み、1955年には広島平和記念資料館が開館する。
戦前の広島は、軍の施設が集まる軍都でもあった。それが戦後は、戦争と原爆の記憶を伝える「平和記念都市」へ、街の意味そのものを変えていくことになる。ただ、占領期には原爆の被害を伝えることが制限されていたことも、あわせて覚えておきたい。
沖縄――「日本の戦後」と同じ仕組みでは始まらない
沖縄の戦後は、本土とは大きく違う。地上戦で集落も家も壊されたあと、沖縄はアメリカ軍の統治下に置かれた。1948年にはB円と呼ばれる軍の通貨が唯一の通貨になる。
1952年にサンフランシスコ平和条約が発効して本土が主権を取り戻しても、沖縄はアメリカの施政権の下に残され、同じ年に琉球政府が置かれた。東京や大阪で進んでいた新しい憲法や法律の仕組みを、そのまま沖縄にあてはめることはできない。
1945年からあとは、「日本人なら同じ仕組みの中で暮らしている」とは限らなくなった。戦後を読むときには、このことを忘れないでおきたい。
家制度がなくなり、華族も消える
街の復興とは別に、家族の仕組みにもとても大きな変化が起きる。
明治からの民法では「家」が単位で、戸主や家督相続が法律の上で大きな意味を持っていた。1947年の民法改正で、戸主を中心とする家制度と家督相続が廃止される。財産は長男が一人で継ぐのではなく、配偶者と子どもが分けて相続するようになり、成人していれば親の同意がなくても結婚できるようになった。明治の記事から何度も出てきた「結婚は家が決める」という仕組みが、法律の上ではここで終わったことになる。
同じ1947年には、新しい憲法のもとで華族制度もなくなった。財産税や農地改革で財産を失い、屋敷を手放していく旧華族や旧家の姿は、太宰治の『斜陽』に描かれ、没落していく上流の人たちを指す「斜陽族」という言葉まで生まれている。
法律が変わっても、家族の考え方は一日では変わらない
ただし、1947年から突然、長男や嫁、本家と分家、親の意向が暮らしから消えたわけではない。法律で家制度がなくなっても、戦前に育った親の世代はそれまでの家族観を持っている。家業を誰が継ぐのか、年老いた親を誰が見るのか、結婚相手に親がどこまで口を出すのか。そうしたことには、戦前の考え方が長く残った。
法律の上の家族が先に変わり、実際の家族の関係や気持ちはあとから少しずつ変わっていく。戦後の小説を読むときには、この時間差がとても大事になる。
女性が初めて投票する
1945年12月に選挙法が改められ、女性にも国の選挙で投票する権利と、立候補する権利が認められる。1946年4月10日の総選挙では、約1380万人の女性が初めて投票し、39人の女性議員が生まれた。
大正の職業婦人も、昭和戦前のモダンガールも、街で働き、自分で服を選ぶことはできても、選挙で国に意思を示すことはできなかった。戦後になって、女性が働くかどうかという暮らしの変化だけではなく、政治の仕組みの上でも国民として参加できるようになったのだ。
墨を塗った教科書と、青空の下の授業
学校の変化は、終戦の直後から始まる。1945年の秋には、それまで使っていた教科書のうち、戦争や国を讃える部分を子どもたち自身が墨で塗りつぶして使うようになった。昨日まで教えられていたことを、先生の指示で黒く消していく。この「墨塗り教科書」を体験した世代にとって、大人の言うことが一夜で変わったという記憶は強く残った。
校舎が焼けた学校では、焼け跡の空き地で授業をする「青空教室」や、ひとつの教室を午前と午後で別の学年が使う二部授業が行われた。1947年からは、ララ物資と呼ばれるアメリカからの援助などを使った学校給食が都市を中心に広がり、脱脂粉乳の味を覚えている人も多い。
そして1947年、小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年の六・三・三・四制が始まる。大きいのは、新しい中学校までの9年間が義務教育になったことだ。戦前は、小学校を出たあとどの学校へ進むかで、早いうちから人生の道が分かれていた。戦後は少なくとも中学校までは、多くの人が同じ仕組みの中で学ぶようになる。明治の初めに学校の制度ができてから約75年、もう一度大きな転換が起きたことになる。
農村――小作人が自分の土地を持つ
農村でも大きな変化が起きる。1946年から始まった農地改革だ。
村に住んでいない地主の土地はすべて、村に住む地主でも一定以上の土地は国が買い上げ、それを耕していた小作人に安く売り渡した。インフレでお金の価値が下がっていたこともあり、小作人たちは実質的にとても安く自分の田畑を手に入れることになる。農地のおよそ半分近くを占めていた小作地は、1割ほどにまで減った。
大正の小作争議、昭和戦前の娘の身売りと、この連載で見てきた地主と小作人の関係が、ここで大きく作り替えられたのだ。一方で、土地を失った地主の家は没落していく。戦後の小説で、かつての地主の家が力を失っていく姿や、農家が自分の田んぼを持つ喜びが描かれていたら、その背景にはこの農地改革がある。
終戦直後の農村は、都市から買い出しの人がやってきて、疎開してきた人や引揚者も受け入れ、人口が膨らんでいた。食べ物を作れる農村が、少しの間だけ都市よりも強い立場にいた時代でもある。
1950年、朝鮮戦争が復興を一気に進める
1949年、インフレを抑えるための厳しい政策、ドッジ・ラインが始まる。物の値段はようやく落ち着いたが、今度は不景気になり、会社や国鉄では大勢の人が整理された。
その流れを変えたのが、1950年に始まった朝鮮戦争だ。アメリカ軍などから、繊維、機械、金属、木材と、さまざまな物やサービスの注文が日本に大量に入り、工場が動き、仕事が増えた。「特需」と呼ばれる。隣の国の戦争で大きな犠牲が出ている一方で、それが日本の経済の立て直しを早めることになった。
1950年代の前半になると、日本は「足りない物をどう手に入れるか」という終戦直後の段階から、「物を作り、暮らしをよくしていく」段階へ少しずつ移っていく。
1953年、テレビが始まる。でも見るのは街頭で
1953年、日本でテレビ放送が始まる。ただ、テレビはとても高く、普通の家にあるものではない。人々は駅前や公園に置かれた街頭テレビの前に集まり、プロレスや野球中継に熱狂した。
戦前にラジオが全国に同じ情報を届けたのに続いて、今度は同じ映像を同時に見る時代が始まる。テレビが家の暮らしそのものを変えていくのは、次の高度経済成長の時代だ。
仕組みは新しくても、家の中はまだ貧しい
1950年代の前半になると街の復興は進むが、今のように家電に囲まれた暮らしにはまだほど遠い。木造の家に畳、ちゃぶ台、かまど、共同の水道、銭湯。住む場所の不足も続いている。
一方で、憲法、民法、学校、選挙の仕組みは、すでに戦後の形に変わっている。仕組みだけを見ると今の暮らしにかなり近づいているのに、家の中に入ると戦前から続く道具や家がまだたくさん残っている。このずれが、1945年から1955年の暮らしを読むうえで大事なところだ。
地域ごとの出発点と、1950年の姿
1945年にどこから始めたのかと、5年後の1950年ごろにどうなっていたのかを、地域ごとに並べてみる。
| 地域 |
1945年の出発点 |
1950年前後に見えている世界 |
| 東京 |
広い市街地が焼け、人口は半分以下に |
人が急に戻り、復興計画を縮めながら巨大都市に戻っていく。23区と首都建設法 |
| 横浜 |
空襲の被害に加えて、中心部と港が広く接収される |
接収が続き、焼け跡の復興と接収地の返還が大きな課題 |
| 大阪 |
中心部などが広く焼ける |
大規模な区画整理で道路と街区を作り直している |
| 京都 |
街の大部分が残る |
戦前の街並みのまま、国際文化観光都市として進む道を探す |
| 神戸・阪神間 |
市街地の約6割が焼け、港の多くが接収される |
焼けた街を立て直しながら、港の接収が続く |
| 名古屋 |
中心部を含む広い範囲が焼ける |
100メートル道路を含む思い切った街づくりが進む |
| 広島 |
原爆で壊滅する |
平和記念都市建設法のもと、平和記念公園の建設が始まる |
| 沖縄 |
地上戦で壊滅し、アメリカ軍が統治する |
B円を使い、本土とは違う統治の仕組みの中で暮らす |
| 農村 |
都市ほど焼けていない地域が多い |
農地改革で小作人が自分の土地を持つ。引揚者や疎開者で人口がふくらむ |
同じ1950年でも、東京では人が集まりすぎることが再び問題になり、横浜や神戸では接収された土地が復興を阻んでいる。京都には戦前の街が残り、名古屋では焼け跡を使った大改造が進み、広島では「平和」を軸に街の意味そのものを作り直している。そして沖縄では、本土とは違う通貨と統治の中で暮らしている。
「戦後5年」という時間だけでは、その土地の暮らしは決まらない。
それでも戦後は、別の意味で「全国が同じになる時代」の始まりでもあった。同じ憲法の下で暮らし、同じ六・三・三・四制の学校に通い、同じ民法の家族の仕組みを使い、ラジオや、やがてテレビで同じ情報を受け取る。地域の差がなくなったわけではないが、日本人が共通して経験する仕組みや情報の範囲は、戦前よりもずっと広くなっていく。
戦後復興期の小説を読むときに気にしておきたいこと
戦後を舞台にした作品には、新しい憲法、男女平等、民主主義、六・三制と、今につながる言葉がたくさん出てくる。そのため、社会がすぐに今と同じになったように感じてしまう。
しかし1946年なら、焼け跡、バラック、闇市、買い出しが毎日の暮らしだ。1950年になっても住む場所は足りず、地域によっては占領軍の接収が続いている。法律で家制度がなくなっていても、親の世代の頭の中には戦前の家族観が残っている。戦後を「もう現代」と思って読むと、かなりずれてしまう。
戦後復興期の作品を読むときの確認ポイント
- 終戦直後の1945〜47年ごろか、落ち着き始めた1950年代前半か
- その街は空襲でどれほど焼けたのか。占領軍の接収はあるのか
- 家は焼け残った家か、バラックか、身を寄せた親戚の家か
- 食べ物を配給・闇市・買い出しのどこで手に入れているのか
- 新円切替やインフレで、財産を失った家ではないか
- 復員、引揚げ、戦死、行方不明、抑留で、家族の形が変わっていないか
- 法律の上の家制度の廃止と、実際の家族の考え方を混同していないか
- 墨塗り教科書や新しい学校を経験した世代なのか、戦前に育った世代なのか
- 作品が占領期の検閲の中で書かれたものか、占領が終わってから書かれたものか
- 沖縄の話なら、本土と同じ「戦後日本」の仕組みをあてはめていないか
戦後復興期をまとめると
1945年、戦争は終わったが、暮らしは戦前に戻らなかった。
焼けた街では家と道を作り直し、食べ物のない中で闇市と買い出しが暮らしを支えた。お金の価値は崩れ、復員、引揚げ、疎開からの帰還で人も大きく動いた。同時に、女性の選挙権、家制度の廃止、農地改革、六・三・三・四制と、戦前とは違う社会の仕組みが作られていく。
東京は人が急に戻って再び巨大都市になり、大阪と名古屋は焼け跡を使って街を作り直した。京都は戦前の街を残したまま戦後の街へ変わり、横浜と神戸は接収に苦しんだ。広島は「平和記念都市」という新しい姿を選び、沖縄はアメリカの統治下で本土とは違う戦後を歩んだ。
戦後復興期は、戦前の暮らしを元に戻した時代ではない。焼け跡から家と交通と産業を立て直すのと同時に、家族、教育、政治、街の役割まで作り直し、戦前とは違う社会を始めた時代だった。そして仕組みは暮らしよりも先に変わった。法律や学校は今に近づいていても、家に帰れば住む場所も物も足りず、戦前からの家族観が残っている。この二つの時間が重なっていることが、この時代を読むうえでの一番の鍵になる。
次の昭和中期へ――「立て直す」から「豊かにする」へ
1950年代の前半になると、焼け跡からの復興は次の段階に入る。朝鮮戦争の特需もあって物を作る力が戻り、1953年にはテレビ放送が始まり、家や道路も少しずつ整っていく。そして1956年、経済白書は「もはや戦後ではない」と書いた。
1955年を過ぎると、人々の関心は「食べ物と家をどう手に入れるか」から、冷蔵庫、洗濯機、テレビを持つこと、団地に住むこと、自動車で出かけることへと移っていく。
次の昭和中期では、高度経済成長によって東京、大阪、京都、神戸、名古屋、地方、農村の暮らしがどこまで似ていき、それでも何が地域ごとに残ったのかを見ていきたい。
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