上村松園は、明治から昭和にかけて活躍した日本画家です。
生涯を通して女性を描き続け、気品と精神性を備えた独自の美人画を完成させました。
松園が描いたのは、ただ容姿の美しい女性ではありません。
花嫁、母親、舞を舞う令嬢、恋に狂う女性、静かに老いを迎える女性。
その姿を通して、女性の喜び、情愛、嫉妬、狂気、覚悟までを描こうとしました。
男性が中心だった近代日本の画壇で、女性画家への偏見を受けながらも、自ら資料を探し、写生と研究を重ね、最後には女性として初めて文化勲章を受章した画家です。
上村松園の生涯を簡単にまとめると
上村松園は、1875年4月23日に京都で生まれました。
本名は上村津禰です。
父は松園が生まれる前に亡くなっていたため、松園は姉とともに、母の仲子によって育てられます。
母は京都の四条御幸町で、ちきり屋という葉茶屋を営んでいました。
松園は幼い頃から人物を描くことが好きで、1887年に京都府画学校へ入学します。
鈴木松年、幸野楳嶺、竹内栖鳳に学び、1890年には『四季美人図』が第3回内国勧業博覧会で一等褒状を受けました。
1900年の『花ざかり』によって広く名前を知られるようになり、その後も『花がたみ』『焔』『青眉』『母子』『序の舞』『夕暮』『晩秋』などを発表します。
1941年に帝国芸術院会員、1944年に帝室技芸員となり、1948年には女性として初めて文化勲章を受章しました。
翌1949年、75歳で生涯を閉じています。
父を知らず、葉茶屋で育った少女
松園の父は、松園が生まれる約2か月前に亡くなりました。
松園は後年、自分は母の胎内にいながら父の葬儀を見送ったのだと回想しています。
父の写真は残っていませんでした。
母から「父とよく似ている」と聞かされた松園は、父を思うとき、自分の顔を鏡に映したといいます。
父の死後、母の仲子は夫が始めた葉茶屋を引き継ぎました。
周囲からは、女一人で商売を続けることを心配する声もありました。
それでも母は、娘二人を育てながら家業を守り続けます。
この母の強さと働きぶりは、後の松園の生き方にも大きな影響を与えました。
帳場で絵を描き続けた子供時代
松園は幼い頃から、絵を描くことが好きでした。
学校では石板に人物を描き、友達からも「私の石板にも描いて」と頼まれていたそうです。
家へ帰ると、母から半紙をもらい、葉茶屋の帳場に座って絵を描きました。
母が買ってくれた江戸絵や錦絵を、丹念に写すこともありました。
店へ来る客からは、
あそこの娘さんは、いつも絵ばかり描いている。
と知られるほどでした。
松園は風景や花よりも、特に人物を描くことを好みました。
近所の子供を呼んで髪を結い、さまざまな髪形を試すこともありました。
後に美人画を描くうえで重要になる髪形、化粧、衣装への関心は、すでにこの頃から始まっていたのです。
絵の道を認めた母
当時は、女性が本格的に絵を学ぶこと自体が珍しい時代でした。
親類からは反対の声もありましたが、母が松園の味方となります。
娘の好きなことを伸ばしてやりたいと、松園が画学校へ進むことを認めました。
松園は後に、自分には門閥も有力な後援者もなかったが、母が葉茶屋を守り、生活の心配をさせずにいてくれたから、絵に専念できたと語っています。
松園の画業は、母の支えなしには成立しませんでした。
鈴木松年から「松園」の号を与えられる
1887年、松園は京都府画学校に入学します。
花鳥画や運筆、古画の模写などを学びますが、松園が描きたかったのは人物でした。
人物画を好む松園に目を留めたのが、教師の鈴木松年です。
松年は、学校の授業とは別に、自分の画塾で人物画を教えると申し出ました。
鈴木松年が画学校を辞めると、松園も学校を退き、松年塾で学ぶようになります。
「松園」という画号も、鈴木松年から与えられたものでした。
松園はその後、幸野楳嶺に花鳥画を学び、楳嶺の死後は竹内栖鳳に師事します。
人物画、花鳥画、写生を重視する近代日本画。
異なる師から学んだ技術を取り込みながら、松園は自分の美人画を作り上げていきました。
人物画の手本を自分で探した
当時の京都画壇では、花鳥画や山水画が盛んでした。
一方、松園が目指した人物画を専門的に学ぶための資料は、十分ではありませんでした。
そこで松園は、自分の足で手本を探します。
博物館へ弁当を持って一日中出かけ、神社や寺院に古い絵巻や人物画があると聞けば、紹介状を持って見に行きました。
古美術品の売り立てにも足を運び、気になる作品を見つけると、その場で写しました。
祇園祭も、松園にとっては大切な勉強の場でした。
京都の旧家や商家は、祇園祭になると、家に伝わる屏風や掛け軸を飾ります。
松園は「お屏風拝見」と店へ上がり、必要だと思った絵を半日かけて写すこともありました。
こうして作った縮図帳は、やがて一山になるほどの量になりました。
近所で火事が起こったとき、松園が真っ先に持ち出そうとしたのも、この縮図帳だったといいます。
写真よりも、自分の手で写す
松園は、昔、自分で苦労して写した絵は、20年、30年たっても鮮明に思い出せると語っています。
一方、便利になってから写真版で見たものは、そのときには覚えていても、すぐに忘れてしまう。
自分の目で観察し、手を動かして写すことで、対象が深く記憶に刻まれると松園は考えていました。
松園は天才的な感覚だけで絵を描いたのではありません。
見ること。
写すこと。
調べること。
そして、記憶の中で育てること。
松園の美人画は、膨大な観察と研究の積み重ねによって生まれたのです。
15歳の『四季美人図』で画壇に登場
1890年、松園は第3回内国勧業博覧会に『四季美人図』を出品しました。

四季に合わせた4人の女性を描いた作品で、一等褒状を受けます。
さらに、来日していたイギリスのコンノート殿下に買い上げられました。
当時の新聞では、若い少女の作品が受賞し、外国の皇族に購入されたとして大きく取り上げられました。
ただし、この時点で松園は、まだ一生を画家として生きると決めていたわけではありません。
本気で絵によって身を立てようと考えたのは、20歳か21歳の頃だったと回想しています。
そこから松園は、花が咲いても、月が出ても、絵のことばかりを考える生活へ入っていきました。
『花ざかり』で全国に知られる
1900年に発表した『花ざかり』は、松園の出世作となりました。
描かれているのは、花嫁とその母です。
作品のきっかけは、本家の娘の嫁入りでした。
当時は現在のような美容院がなく、花嫁の化粧は身内が行いました。
松園は、花嫁の化粧を手伝います。
花嫁の高島田や襟足、母親の髪形などを間近で観察し、写生しました。
そのおかげで『花ざかり』は、花嫁と母の間に流れる静かな感情まで伝わってきます。
この作品によって、美人画家・上村松園の名前は全国へ広がりました。
女性画家として受けた偏見と嫌がらせ
松園が画家を目指した時代、女性が男性と並んで美術を職業にすることは簡単ではありませんでした。
松園は、展覧会で賞を受けると、画塾の仲間から絵の具や絵皿、大切な縮図帳を隠されたことがあると回想しています。
1904年に『遊女亀遊』を展覧会へ出品した際には、何者かによって、作品に描かれた女性の顔を鉛筆のようなもので汚されました。
同時代の評判記には、作品の評価だけでなく、松園の容姿や未婚であること、女性としての「身持ち」、さらに子供の父親をめぐる噂まで書かれていました。
こうした内容は、松園の私生活についての事実を明らかにするものではありません。
女性芸術家が作品だけで評価されず、道徳や結婚、容姿まで批評の対象にされた時代でした。
松園は、画家として評価されるために、男性画家以上に厳しい視線へ耐えなければならなかったのです。
美しい女性だけを描いたわけではない
松園は美人画家として知られています。
そのため、華やかで上品な女性ばかりを描いた画家と思われがちです。
しかし、松園が描いた女性の感情は、決して穏やかなものばかりではありません。
『花がたみ』では狂気を、『焔』では嫉妬と執念を描きました。
美しさの奥にある感情へ踏み込んだことで、松園の美人画は外見の美を描くだけのものではなくなっていきます。
『花がたみ』のために病院を訪れる
1915年の『花がたみ』は、能の『花筐』に登場する狂女を題材にした作品です。

松園は狂女を描くため、本当に精神を病んだ人の姿を見たいと考え、岩倉の精神病院を訪れました。
そこで患者の動きや振る舞いを観察します。
普通に会話をしているように見える人でも、目を見ると精神状態の違いが分かったと松園は回想しています。
現在の感覚から見れば、病気の人を絵の資料として観察する行為には慎重な見方も必要です。
一方で、この逸話からは、松園が想像だけで狂気を描こうとせず、実際の人間を観察して作品へ近づこうとしたことが分かります。
『焔』が描いた女性の嫉妬
1918年の『焔』は、松園の作品の中でも異様な緊張感を持つ一作です。

題材となったのは、『源氏物語』の六条御息所を思わせる女性です。
嫉妬と執念にとらわれた女性が、髪を乱し、着物を口元へ寄せながら立っています。
華やかな衣装を身につけていても、その表情からは穏やかさが失われています。
『花ざかり』の明るい花嫁から、『花がたみ』の狂女、『焔』の嫉妬に苦しむ女性へ。
松園は、美人画という形式の中で、女性の暗い感情まで描けることを示しました。
母の記憶から生まれた『青眉』
松園の芸術を考えるうえで、母の存在は欠かせません。
1934年に発表した『青眉』には、眉を剃った既婚女性が描かれています。

かつて結婚して子供を持った女性は、眉を剃る習慣がありました。
剃った後に青く見える眉の跡を、青眉と呼びます。
松園は、青眉の女性を見るたびに母を思い出したと語っています。
母は眉の手入れを欠かさず、その青い色と光沢を大切にしていました。
松園が絵の中に描いた青眉は、母の青眉だといってもよいのかもしれません。
その中には、美しい記憶が宿っている。
松園にとって青眉は、古い風俗の再現ではありませんでした。
母への記憶と情愛が込められた、特別なモチーフだったはずです。
母の愛情を描いた『母子』
同じ1934年には、『母子』も発表されました。

松園は以前、美しい簾に描かれた花鳥の模様を見て、その記憶を長く心に残していました。
後に、その簾の前へどのような人物を置けばよいか考えたとき、最も似合ったのが母と子の姿でした。
松園自身、母の愛情が心に深く染み込んでいたからこそ、『母子』や母への孝養を扱った作品を描いたのだと述べています。
母を描くことは、松園にとって自分の生涯を支えたものを描くことでもありました。
『序の舞』は写生から作られた理想の女性
1936年、上村松園の代表作が描かれます。
『序の舞』

松園が描こうとしたのは、古典的で優美でありながら、端正な心を持つ女性でした。
制作のために、家族や知人へ着物を着せ、さまざまな姿を写生します。
息子・松篁の妻には文金高島田を結わせ、婚礼の振袖を着せました。
途中で中年女性にすることも考え、丸髷と渋い着物の姿も試しています。
舞の姿勢は、謡の師匠の娘にも協力してもらいました。
扇子を持つ手だけでも、子供から女中まで、家にいる女性たちに同じ姿勢を取らせ、観察して写生しました。
さまざまな人の協力によって描かれたスケッチから、最もよい形を選び、松園が考える理想の手へ描き直します。
松園は、現実のモデルをそのまま写したのではありません。
多くのスケッチを土台として、理想の女性像へ高めていきます。
『序の舞』の女性は、実在の誰か一人ではなく、複数の写生と松園の理想を重ね合わせて描かれました。
優美な姿でありながら、これから舞い始めようとしているためなのか、両手の指先にはわずかに力がこもり、静かな緊張感が伝わってきます。
松園が求めたのは「品のある女性」
松園は、美人画について、ただ美しいだけではいけないと考えていました。
外見を整えるだけなら、美人画は表面的な飾りになってしまいます。
松園が求めたのは、卑俗なところのない、清らかで品格のある女性でした。
その女性の姿を通して、自分自身の心まで描こうとしたのです。
『序の舞』の女性が静かに立ちながら、見る者を圧倒する強さを持っているのは、松園が外見の美しさだけでなく、内面の気高さを描こうとしたからでしょう。
四条派と京都文化から生まれた美人画
松園の美人画は、江戸の浮世絵とは異なる特徴を持っています。
浮世絵の美人画には、歯切れのよい線、現実的な風俗、官能的な表現などが見られます。
松園の絵は、それよりもしっとりとして、古典的で優雅です。
その基礎には、四条派や円山派につながる写生の伝統があるといわれます。
人物だけでなく、画面に置かれる花、鳥、庭、調度品にも、長年学んだ花鳥画の技術が生かされました。
京都の衣装、髪形、能、謡曲、古画、寺社、祇園祭など、京都に残る文化を吸収しています。
松園の美人画は、京都の伝統文化を近代の日本画として再構成したものだったのです。
前期よりも晩年に高まった画境
松園は若くして注目されましたが、最高の画境へ到達したのは晩年でした。
初期の作品には、師から受け継いだ四条派の筆づかいや、薄い色彩の影響が見られます。
やがて『娘深雪』『花がたみ』『焔』などを通して、松園独自の女性表現が深まっていきました。
昭和に入ると、『青眉』『母子』『序の舞』『砧』『夕暮』『晩秋』など、静けさと精神性を備えた作品が次々と生まれます。
若い頃の作品が、女性の華やかな姿や物語性を強く見せるのに対し、晩年の作品では、動きの少ない姿の中に人物の人生が感じられます。
立つ。
座る。
髪を整える。
夕暮れの空を見る。
わずかな動作の中へ、女性の経験や感情を込めるところに、晩年の松園の完成があります。
「これは必ずよいものができる」という意志
松園は、よい作品を作るために最も必要なものは、信念と気魄だと考えていました。
制作を始める前から、
これは必ずよいものができる。
と信じる。
実際に描き始めれば、思いどおりにいかないこともあります。
構図が崩れ、色が合わず、さまざまな失敗が起こります。
そのときに信念を捨ててはいけない。
どこでつまずいたのか、どうすればよくなるのかを粘り強く考える。
松園は、何の苦労もなく完成した作品より、途中で何度も失敗した作品の方が、かえってよいものになることがあると語っています。
松園の画業を支えたものは、才能だけではありません。
うまくいかないときにも制作を続ける、強い意志でした。
画室を清めて筆を取る
松園は、絵を描く環境にも非常に厳しい人でした。
朝早く起きて体を清め、画室の戸を開いて清浄な空気を入れました。
ほこりが入らないように戸を閉じ、絵の具にも細かなごみが入らないよう、使わないときは蓋を閉めました。
周囲が散らかり、絵の具が汚れていては、清らかな絵は描けないと考えていたからです。
松園にとって制作は、単なる仕事ではありませんでした。
心身と場所を整えて向き合う、精神的な行為でもあったのです。
苦しみを越えて「絵三昧」へ
松園は晩年、自分は「絵三昧」の境地に入ったと語っています。
筆を持っている時が一番楽しく、貴く、神の心にピッタリ適かなっているような、大丈夫の心持でございます。(引用:上村松園 絵三昧の境地)
画壇の争いや人間関係から離れ、ただ絵の研究に集中する。
しかし、そこへ至るまでの人生は、決して平穏ではありませんでした。
芸術上の行き詰まり。
人間関係の悩み。
女性画家への偏見。
死んだ方が楽ではないかと思うほど苦しんだことも、何度もあったといいます。
それでも、その苦しみを何度も通り抜けるうちに、人は強く生きられるようになる。
若い頃の苦しみが一つに溶け合い、芸術へと浄化されたことで、晩年の境地が生まれたと松園は考えていました。
同時代の評価はどう変化したのか
明治期の松園は、将来を期待される若い女性画家として紹介されていました。
人物画の技量は評価されていましたが、批評には女性としての生活態度に対する忠告も混じっていました。
大正期になると、松園はすでに一流画家として扱われます。
早朝から師の家の前で待ったという修業談や、展覧会で手帳へ構図を記録する姿が紹介され、努力家としての評価が定着しました。
ただし、ここでも結婚しなかったことや容姿などが話題にされています。
昭和期には、松園を男性の巨匠と対等に評価する論調が強くなります。
女性だから評価される画家ではなく、近代日本画を代表する画家として認められるようになったのです。
女性として初めて文化勲章を受章
松園は1941年に帝国芸術院会員となり、1944年には帝室技芸員に選ばれました。
1948年には、女性として初めて文化勲章を受章します。
画家を志した頃には、女性が絵を学ぶことさえ不思議に思われていました。
その少女が、男性中心の画壇で作品を発表し続け、ついには国を代表する芸術家として認められたのです。
松園の受章は、一人の画家の成功であると同時に、女性が芸術家として生きる可能性を示す出来事でもありました。
上村松園が描いたもの
上村松園は、美しい女性を描いた画家です。
しかし、その「美しさ」は、顔立ちや衣装の華やかさだけを意味しません。
母としての愛情。
花嫁としての初々しさ。
恋する女性の嫉妬。
狂気に沈む女性の目。
舞台へ立つ女性の緊張。
静かに年齢を重ねた女性の落ち着き。
松園は、女性が人生の中で見せるさまざまな姿を描きました。
その根底にあったのは、女性を外側から眺めるのではなく、その心へ近づこうとする視線です。
まとめ
上村松園は、母の営む葉茶屋の帳場で絵を描いていた少女でした。
女性が画家になることを不思議がられた時代に、母の支えを受けて画学校へ進みました。
京都に人物画の手本が少なければ、自分の足で古画を探し、自らの手で写しました。
展覧会で認められると、嫉妬や嫌がらせを受け、作品以外の私生活まで批評されました。
それでも松園は絵筆を置きませんでした。
華やかな花嫁から、嫉妬する女性、母と子、凛と立つ令嬢へ。
女性の外見だけでなく、その内側にある感情と精神を描き続けました。
上村松園は、ただ美しい女性を描いた画家ではありません。
京都の伝統と徹底した観察を通して、女性の生き方と心の奥行きを描いた画家なのです。
参考文献
- 『人物研究』(サンデー社、1913年)
- 『美人の戸籍しらべ―現代評判』(天下堂、1919年)
- 『芸文家墓所誌―東京美術家墓所誌続篇』(学風書院、1953年)
- 『当世画家評判記』(文禄堂、1903年)
- 『現代日本画壇人物論』(錦正社、1938年)
- 『松園』(講談社版アート・ブックス)
- 『万有百科大辞典 美術』
- 上村松園『青眉抄』