種田山頭火は、五・七・五に縛られない自由律俳句を代表する俳人の1人。
酒を飲み、托鉢をしながら各地を歩き、自然の中で句を詠んだことから、自由に生きた放浪の俳人という印象を持たれています。
しかし、山頭火の随筆や日記を読めば、その生涯はけして風流な旅だけでは語れません。
酒をやめたいのにやめられず、1人で生きようとしながら孤独には耐えられない。出家して禅を学んでも、欲望や過去への執着からどこまでも自由になれなかった。
それでも山頭火は、自分の弱さから目をそらさず、最後まで俳句を作り続けました。
山頭火とは、すべてを捨てて自由になった人というより、破綻した自分を何度も立て直そうとした俳人だったのです。
種田山頭火とは
種田山頭火は、明治15年(1882)から昭和15年(1940)まで生きた俳人です。
本名は種田正一。現在の山口県防府市に生まれました。
山頭火が作ったのは、五・七・五の定型や季語に必ずしも従わない自由律俳句です。
ただし、山頭火にとって自由律とは、決まりを無視して好きなように書くことではありませんでした。
自然の流れや、自分の生命から生まれるリズムを、余計な説明や飾りを加えず、そのまま言葉にすることでした。
うしろすがたのしぐれてゆくか
(引用元:草木塔 鉢の子)
短い言葉の中に、旅する人の寂しさや、山頭火自身の人生まで感じさせる代表句です。
山頭火が繰り返し詠んだ「しぐれ」
「しぐれ」は、山頭火の作品に繰り返し現れる印象的な言葉ではないでしょうか。
時雨は、晩秋から初冬にかけて、降ったりやんだりする通り雨のことを言われます。
長く降り続く雨ではなく、急に空が暗くなって降り始め、しばらくすると過ぎ去っていく。その移ろいやすさが、旅を続ける山頭火の生活や、揺れ動く心とよく重なるように思います。
山頭火は、旅の途中で出会った雨を、単なる季節の風景として眺めていたわけではありません。
山はしぐれて濡れるもよかろ
(引用元:旅日記 四月三十日)
若葉わけのぼるお山はけふ(今朝)もしぐれて
(引用元:旅日記 四月三十日)
山道を歩く山頭火にとって、雨は実際に法衣や体を濡らし、心も体もさめざめ冷やすものでした。
雨具や宿に恵まれない行乞の旅では、時雨は旅人の心細さや、行く先の定まらない生活を直接感じさせるものであったはずです。
一方、山頭火は時雨を、つらく冷たい雨を自然の営みとしてとらえていました。
日記には、
しぐれ、しぐれ、しぐれ。
(引用元:其中日記 十一月廿四日)
と繰り返した翌日、
けふ(けさ)もしぐれる、身心ややよろしくなる。
(引用元:其中日記 十一月廿五日)
と記しています。
さらに、
けふ(けさ)はほんとうにしみじみとしぐれを聴いた。
(引用元:其中日記 十一月廿五日)
とも書きました。
時雨は山頭火を濡らし、旅を難しくする冷たい雨であると同時に、乱れていた心を静め、自分自身を見つめさせる雨でもあったのかもしれません。
降ったりやんだりする時雨の変化は、山頭火の内面にも似ています。
酒を慎もうと決意しては、また飲んでしまう。落ち着いたと思えば孤独に沈み、絶望した翌日には、草花や月の美しさに救われる。
山頭火自身も、澄みきることも濁りきることもできず、矛盾と中途半端を繰り返すのが自分の性情だと書いています。
時雨は自分の外側にある天候だけではありませんでした。
降ってはやみ、明るくなっては再び暗くなる自分の心を映す、心象風景でもあったのです。
ただ、14日の『しぐれ、しぐれ、しぐれ。』の日に米をいただいて、心にゆとりができたからこその言葉なのかもしれません。
そんな生活ので山頭火は、雨音をしみじみ聴き、自身と向き合ったのです。
「うしろすがたのしぐれてゆくか」を読む
うしろすがたのしぐれてゆくか
この句も、山頭火が繰り返し詠んだ「しぐれ」の延長にあります。
実際の時雨の中を、1人の人物が歩いて遠ざかっていく。まずは、そのような現実の風景を詠んだ句と考えられます。
しかし山頭火は、「時雨の中を後ろ姿が歩いていく」とは表現しませんでした。
「うしろすがたのしぐれてゆくか」と詠んでいます。
そのため、雨に濡れているのは衣服だけではなく、歩いている人物の存在そのもののように感じられます。
後ろ姿は冷たい雨に包まれ、寂しくかすみながら、こちらから遠ざかっていきます。
この人物は、山頭火が見送った誰かとも、山頭火自身とも読めます。
時雨の中を歩く旅人の姿に、家庭や社会に居場所を作れず、酒と孤独を抱えながら歩き続けた山頭火の人生が重なっていきます。
この句の「しぐれ」は、実際に降る初冬の雨であると同時に、孤独や後悔を抱えた山頭火の心を映す雨でもあります。
現実の景色と心の状態が重なり、どこまでが風景で、どこからが感情なのか分けられなくなっているのです。
防府に生まれ、俳句に出会う
山頭火は明治15年(1882)12月3日、山口県佐波郡西佐波令村、現在の防府市に生まれました。
父は竹治郎、母はフサといい、山頭火は長男として生まれます。
明治25年、少年期の山頭火を大きな出来事が襲います。
母フサが自ら命を絶ったのです。
その後の山頭火の孤独感や、死への思いに影響したと考えられています。
明治29年には私立周陽学舎に入学し、仲間と文学回覧雑誌を始めます。
このころから俳句を作るようになります。
明治34年には上京し、私立東京専門学校、現在の早稲田大学の高等予科に入学します。
翌年、早稲田大学文学科へ進みましたが、神経衰弱のため学業を続けられなっていきます。
明治37年、大学を退学して故郷へ戻りました。
酒造場の破産と一家離散
帰郷した山頭火は、実家の屋敷を売り払い、明治40年に大道村で種田酒造場を開業しました。
明治42年には佐藤サキノと結婚し、翌年には長男の健が生まれます。
俳句では、大正2年(1913)ごろから荻原井泉水に師事し、自由律俳句誌『層雲』へ作品を投稿するようになります。
しかし、酒造場の経営はうまくいきませんでした。
大正5年(1916)、酒造場は破産し、一家は離散します。
山頭火は妻子を連れて熊本へ移り、古書店「雅楽多」を開きました。
この時期に発表されたのが、山頭火の内面を記した随筆『赤い壺』です。
その後も家庭生活は安定せず、大正9年に妻サキノと離婚します。
山頭火は単身で東京へ移り、東京市事務員として一ツ橋図書館に勤めますが、仕事は続きませんでした。
家業、財産、家庭、職業を次々と失い、社会の中に自分の居場所を作れなくなってきます。
市電事件をきっかけに出家する
大正13年(1924)、熊本に戻っていた山頭火は、泥酔して市電の前に立ちはだかり、電車を止める事件を起こします。
この出来事をきっかけに寺へ連れて行かれた山頭火は、翌大正14年、曹洞宗報恩寺の望月義庵のもとで出家得度します。
その後、熊本県植木町にある味取観音堂の堂守となります。
しかし、一か所にとどまり続けることはできませんでした。
大正15年(1926)4月、観音堂を出て、行乞の旅を始めます。
行乞とは、僧侶が家々を回り、食べ物や金銭を施してもらう托鉢の旅です。
山頭火は九州、山陽、山陰、四国などを歩き、旅先で見た自然や、そのときの心を俳句にしました。
旅と定住を繰り返した晩年
昭和7年(1932)、山頭火は第一句集『鉢の子』を刊行しました。
同年、山口県小郡町に「其中庵」を結びます。
庵に住んでも旅への思いは消えず、山頭火は定住と放浪を繰り返しました。
昭和13年には湯田温泉に「風来居」を構え、昭和14年には四国へ渡ります。
同年12月、愛媛県松山市に一草庵を結びました。
昭和15年(1940)には、一代句集『草木塔』を刊行します。
同年10月10日、一草庵では句会が行われていました。山頭火は隣室で眠り、翌11日の未明、そのまま亡くなっているのが見つかります。
満57歳、数え年では59歳でした。
山頭火を形づくった四つのテーマ
山頭火の人物像と思想を理解するうえで重要なのが、次の四つです。
- 酒――慰めであり、生活を壊すもの
- 孤独――1人でいること以上に、自分自身を持てない苦しみ
- 禅――失敗した自分を何度でも立て直すための実践
- 俳句――生活のすべてを言葉に変える句作行
この四つは、それぞれ独立しているわけではありません。
山頭火は孤独に耐えられなくなると酒を飲み、酒によって失敗すると自分を責めます。
そして、禅の言葉によってもう一度立ち上がろうとし、その体験を俳句へ変えていきました。
酒――慰めであり、破滅でもある
山頭火にとって酒は、単なる好物ではありません。
酒は孤独や不安を忘れさせ、人と語り合うきっかけを与えてくれました。
同時に生活を壊し、借金を増やし、周囲の人に迷惑をかける原因にもなります。
大正5年に発表した『赤い壺』で、山頭火は酒を前にした自分について、次のように書いています。
酔いたいと思う私と酔うまいとする私
酒を飲みたい自分と、それを止めようとする自分が、体の中で争っている。
この葛藤は、晩年になっても解決しませんでした。
『一草庵日記』では、酒を次のように表現しています。
酒はいとしい悪魔か、憎らしい天使か
酒は山頭火を破滅させる悪魔でもあり、孤独な生活に救いを与えてくる天使でもありました。
一杯でやめるつもりが、二杯、三杯と続き、店を渡り歩いて泥酔する。
道端に倒れ、近所の人に連れ帰ってもらった翌日には、自分を激しく責めます。
禁酒や節酒を何度誓い、金が入れば再び飲んでしまう。
山頭火にとって酒は、自分の弱さと矛盾を映し出す鏡となっていました。
孤独――1人になりたいのに、1人には耐えられない
山頭火は1人で旅をし、庵で暮らした俳人です。
しかし、孤独に強かったわけではありません。
『赤い壺』では、孤独を他人の慰めによって消すのではなく、自分で引き受けることに意味を見いだそうとしています。
一方、実際の日記では、友人の訪問や手紙を待ち続けました。
郵便が届かなければ落胆し、誰も訪ねてこない月夜には寂しさを感じます。
孤独に耐えられなくなると友人を訪ね、酒を飲みました。
山頭火は人とのつながりを拒んだのではありません。
むしろ、人を強く求めながら、家庭や職場のような安定した関係の中にとどまれない人でした。
『赤い壺(三)』には、次のような言葉があります。
妻があり子があり、友があり、財があり、恋があり酒があって、尚お寂しいのは自分というものを持っていないからである。
山頭火が苦しんだ孤独は、単に1人で暮らす寂しさではありません。
自分自身を信じられず、自分の中に揺るがない中心を持てない孤独でした。
禅――失敗した今日をやり直すための言葉
山頭火は曹洞宗の僧侶でしたが、悟りきった生活を送っていたわけではありません。
酒を飲み、借金をし、何度も同じ失敗を繰り返しました。
山頭火にとって禅は、完成された人物が語る高尚な思想でないのかもしれません。
生活が崩れるたびに、自分を立て直すための実践でした。
『一草庵日記』には、「放下着(うげじゃく)」「即今(そっこん))」「身心一如(しんしんいちにょ)」などの禅語が繰り返し登場します。
「放下着」とは、手にしている執着を放せという意味です。
過去に執する勿れ、自我を捨てろ、我執放下着。
山頭火は、過去の失敗や酒への執着を捨てようとして、この言葉を自分に言い聞かせます。
しかし、どこまでも執着を捨てることができませんでした。
酒に負けた翌日に反省し、身辺を整理し、今日からまたやり直そうとします。
山頭火は、過去を消すことよりも、その日その時を充実させることを重視しました。
山頭火の禅とは、迷いを完全になくすことではなく、迷った人間が何度でも現在へ戻ってくるための拠り所だったのかもしれません。
「愚を守る」という生き方
山頭火は日記の中で、次のように書いています。
愚に返り愚を守り愚を貫きたい。
(引用元:一草庵日記 八月五日)
ここでいう「愚」は、おろかなことや馬鹿げたことについてではありません。
利口に見せようとする虚栄や世間体を捨て、愚かな自分をそのまま引き受ける。
山頭火は家業を守れず、家庭を維持できず、定職にも就けませんでした。
それでも立派な人物を演じるのではなく、自分に残された俳句の道を歩こうとします。
「愚を守る」とは偽りの自分を作らず、自分の道を歩くという覚悟でした。
俳句――山頭火に残された一筋の道
山頭火は、自分を「無能無才」と呼んでいます。
社会的な仕事は続かず、友人の援助や借金に頼らなければ生活も満足にできません。
そのような自分に残されたものが俳句でした。
無能無才なるが故に、私は一筋の道――句作行――をひたむきに精進することが出来た。
(引用元:一草庵日記)
「句作行」という言葉には、山頭火の俳句観が表れています。
俳句は趣味でも職業でもなく、生きるための修行でした。
山頭火は、歩くこと、食べること、酒を飲むこと、失敗すること、反省することまで、生活のすべてを俳句につなげようとしました。
日記には、俳人である以上、歩くことも、座ることも、眠ることも、生活のすべてが俳句になるほど徹底したほうがよいと書いています。
自由律俳句は「何でも自由」ではない
山頭火は俳句について、次の三つを並べています。
生命律――自然律――自由律
(引用元:一草庵日記)
山頭火にとって自由律とは、五・七・五を守らなくてもよいという形式だけのことではありません。
自然の流れや生命の揺らぎから生まれる、必然的なリズムを言葉にすることでした。
余計な説明や技巧を捨て、自分と目の前の自然が一つになる必要があります。
文は人なり、句は魂なり。
(引用元:一草庵日記)
句の輝きは、言葉の技術だけから生まれるものではない。
句を作る人間の生き方や魂が、そのまま作品に表れると考えていたのです。
『赤い壺』に表れた若き山頭火の思想
『赤い壺』は、大正5年(1916)1月から3月にかけて、自由律俳句誌『層雲』に発表された三回連続の随筆です。
物語のある作品ではなく、酒、孤独、苦痛、死、自己、芸術などについての短い断章を積み重ねています。
この時点では、山頭火はまだ出家も放浪もしていません。
しかし、後年まで山頭火を苦しめる問題が、この時点ではっきり表れています。
- 酒を飲みたい自分と止めたい自分の対立
- 自分自身への不信
- 家族を持ったことへの後悔
- 孤独と死への思い
- 苦痛から芸術が生まれるという考え
- 自分の道を歩こうとする決意
第一篇――酒と自己矛盾、死
第一篇では、酒と自己矛盾、死、家族、絶望が中心に語られています。
山頭火は、酒によって自分の内部が分裂し、肉体も魂も傷つけられることを理解していました。
また、死については、遠くにあるときには恐ろしく、近くに感じられるときには懐かしいと表現しています。
生きることに苦しみながら、死にも安らぎきれない心が表れています。
苦痛こそが底にいる山頭火が縋れる甘美さであった。
第二篇――孤独と芸術
第二篇では、自分の道、孤独、苦痛、芸術について語られます。
自分の道を歩む人に堕落はない。
何をしても許されるという意味ではありません。
成功も失敗も、自分の人生の途中にあるものとして引き受ける覚悟です。
山頭火は、優れた作品の多くは苦痛から生まれると考えました。
苦痛によって人間の虚栄や飾りがはがれ、初めて本当の自己が現れると考えたのです。
第三篇――自己愛と生存
第三篇では、自己愛、罪、生存、精神と肉体の関係が中心になります。
山頭火にとって本当に自分を愛するとは、自分を甘やかすことではありません。
自分の弱さや罪を誰よりも厳しく見つめることでした。
また、生きることを「悲痛なる事実」としながら、その悲痛さの奥まで進むことによって、初めて生に耐えられると考えています。
現実と向き合い、崩壊する精神をつなぎ止め、震える自身の背中を強く押しています。
『赤い壺』の特徴
『赤い壺』には、次のような特徴があります。
- 短い断章を積み重ねる構成
- 神と悪魔、生と死など対立する言葉の多用
- 自分を美化しない厳しい自己分析
- 苦痛を芸術の源と見る思想
- 作品と生き方を切り離さない姿勢
- 漢語を多用した硬く激しい文章
後年の素朴な俳句とは印象が異なりますが、自己の苦しみを短い言葉で切り取る表現には、すでに自由律俳句へ通じるものがあります。
『赤い壺』は、放浪俳人になる以前の山頭火が、自分の破綻を思想と言葉へ変えようとした作品です。
『一草庵日記』から見る晩年の生活
『一草庵日記』には、昭和15年(1940)、死を迎える直前の山頭火の暮らしが記されています。
そこに描かれているのは、静かな庵で自然を眺める風流な隠者の生活だけではありません。
米にも困る貧困、やめられない酒、友人への借金、老いと死への不安が、包み隠さず記録されています。
食べる物にも困る貧困
日記には、米や金がないという記述が繰り返し登場します。
絶食してよろめきながら友人の家へ金を借りに行き、混合米二升を買った日もありました。
山頭火は、ようやく食べられた飯について、一粒一粒に光を感じるほどありがたいと記しています。
買い物の金額も細かく記録され、米、醤油、キュウリ、煮干しなどを買ったあと、残金が一銭になった日もありました。
米がなく、もらったキュウリだけで一日を過ごそうとしたり、空腹を水で紛らわせたりすることもありました。
山頭火は、貧乏そのもの以上に、借金によって人へ迷惑をかけることを苦しんでいます。
貧乏は苦しいものであるが、借金はその苦しみを二重にする。
友人に支えられた生活
山頭火の晩年は孤独でしたが、完全に1人だったわけではありません。
一洵、澄太、緑平、無水など、多くの句友が一草庵を訪れました。
友人たちは、米や野菜、パン、たばこを持ってきたり、生活費を貸したり、食事をふるまったりしました。
句集の出版や句会の開催も、友人たちによって支えられています。
山頭火は厚意を素直に喜び、「ありがたう」と何度も記しています。
その一方で、人に頼らなければ暮らせない自分への負い目も感じていました。
感謝と申し訳なさが、いつも同時に存在していました。
規則正しく暮らそうとする
山頭火の生活は乱れているように見えますが、本人は規則正しい生活を強く望んでいました。
朝は近くの神社から聞こえる太鼓を合図に、四時から五時ごろ起きています。
起床後には、読書、洗濯、掃除、手紙、句の整理、散歩などを行いました。
生活の原則として、次の三つも掲げています。
- 節度を失わないこと
- 借金をしないこと
- 過去に執着しないこと
しかし、この決意は長く続きません。
慎ましく暮らす日と、酒によって生活を崩す日が交互に訪れます。
身近な自然を俳句にする
一草庵での暮らしは貧しいものでしたが、山頭火は身近な自然を細やかに観察していました。
朝顔、昼顔、夕顔、泰山木、夾竹桃、苅萱、ナデシコ。
庭や道端で見つけた草花を、庵の壺に活けました。
虫の声、月の光、夕立、風の変化から、季節の移り変わりを感じ取っています。
米や酒がなくても、月を眺め、鈴虫の声を聞くことには喜びを感じました。
山頭火にとって自然は、貧しい生活を飾るものではありません。
草木や月、雨や虫の声と向き合うことが、そのまま句作であり、世界とつながる方法でした。
戦時下に生きた山頭火
『一草庵日記』が書かれたころ、日本は日中戦争のさなかにありました。
日記には、防空訓練、空襲警報、米や砂糖の配給、たばこやマッチの不足などが描かれています。
山頭火は社会の外で自由に暮らしていたように見えますが、実際には戦時体制と物資不足の中で生きていました。
当時の国家的な言葉や時代の空気も、そのまま日記に残されています。
山頭火もまた、時代から切り離された超然とした隠者ではなかったのです。
感謝・懺悔・精進
晩年の山頭火が重視していたのが、感謝・懺悔・精進です。
友人や食べ物、自然に感謝する。
酒や借金によって人へ迷惑をかけたことを懺悔する。
そして、生活と俳句を立て直すために精進する。
山頭火は、この三つを別々のものではなく、一つの道と考えていました。
感謝の心から生まれた作品でなければ、本当に人を動かすことはできないとも記しています。
若いころの『赤い壺』では、苦痛や自己否定が強く語られていました。
晩年にも厳しい自己批判は残っていますが、それと同時に、米一粒、草一本、友人1人に対する感謝が強くなっています。
酒・孤独・禅・俳句は一つにつながっている
山頭火の酒、孤独、禅、俳句は、それぞれ別の問題ではありません。
山頭火は、孤独や自己不信に耐えられなくなると酒を飲みました。
酒を飲めば、一時的に人とつながり、苦しみを忘れられます。
しかし、泥酔して失敗すると、以前より深い自己嫌悪と孤独が残りました。
そこで、禅の言葉によって自分を立て直そうとします。
執着を捨てる。過去にとらわれない。今日を生きる。
そして、酒、孤独、失敗、反省、自然との出会いを俳句へ変えていきました。
孤独に苦しむ。
酒に慰めを求める。
失敗して自分を責める。
禅によって立ち直ろうとする。
その体験を俳句にする。
この循環が、山頭火の生活と作品を形づくっています。
まとめ
種田山頭火は、酒と旅を楽しんだ風流な自由人というだけではありません。
酒をやめられず、家庭や社会生活に失敗し、孤独に苦しみながら、自分を厳しく見つめ続けた人でした。
出家して禅を学んでも、迷いや欲望から完全に自由になったわけではありません。
それでも山頭火は、失敗するたびに反省し、執着を捨て、今日を生き直そうとしました。
そして、自分の弱さや苦しみを隠さず、俳句に変えていきました。
酒は山頭火の弱さをさらし、孤独は自分を掘り下げ、禅は何度でも立ち上がらせ、俳句はそのすべてを言葉にしました。
山頭火の魅力は、苦しみを完全に乗り越えたことにはありません。
乗り越えられない自分を見捨てず、最後まで観察し、言葉を作り続けたことにあります。
山頭火は、破綻を克服した人ではありません。
破綻した自分を抱えたまま、懺悔し、感謝し、また歩き始めた俳人だった。
主な参考資料
- 種田山頭火「赤い壺」「赤い壺(二)」「赤い壺(三)」
- 種田山頭火『一草庵日記』
- 種田山頭火『草木塔』
- 山頭火ふるさと館
