小野篁(802年―853年)は、平安時代の初めに活躍した政治家・漢詩人・歌人です。
朝廷の高い地位まで出世した優秀な役人でしたが、納得できない命令には簡単に従わない強い性格でも知られています。
遣唐使の副使に選ばれながら、船の割り当てをめぐって乗船を拒否し、隠岐へ流されたことは、篁の反骨精神を伝える有名な出来事です。
漢詩や和歌にも優れ、非常に物知りだったことから、後世には「あの世とこの世を行き来した人物」という不思議な伝説まで生まれました。
小野篁は、優秀な政治家、権力に屈しない文化人、そして伝説の主人公という三つの顔を持った人物です。
小野篁の基本情報
- 名前:小野篁
- 生没年:802年―853年
- 時代:平安時代初期
- 主な立場:政治家・漢詩人・歌人
- 最高位:従三位・参議
- 父:小野岑守
- 有名な和歌:「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」
- 異名:野相公・野宰相・野狂
武芸を好んだ少年時代
小野篁は、802年に生まれました。父は小野岑守という貴族で、漢詩に優れた人物でした。
篁は、遣隋使として有名な小野妹子の子孫とされています。
815年、篁は陸奥守に任命された父に従い、陸奥国へ向かいました。
陸奥国とは、現在の東北地方の広い範囲にあたる地域です。
このころの篁は、学問よりも弓や馬を好んでいました。
都へ戻ったあとも、篁はあまり熱心に勉強しなかったといいます。
漢詩に優れた父の子でありながら、武芸ばかりを好む篁を見た嵯峨天皇は、次のように嘆いたと伝えられています。
「優れた学者である岑守の子なのに、なぜ武人のようになってしまったのか」
その言葉を聞いた篁は、自分の態度を恥ずかしく思い、本気で学問に取り組むようになりました。
そして822年、文章生試に合格します。
文章生とは、朝廷が設けた大学寮で、漢文学や歴史を学んだ学生です。将来、朝廷の役人として出世するための重要な道でした。
朝廷で活躍した優秀な政治家
学問を身につけた篁は、朝廷の役人として働き始めました。その後、さまざまな役職を経験し、最終的には従三位・参議という高い地位まで出世します。
参議は、天皇を支え、国の政治について話し合う高官です。『百人一首』で小野篁が「参議篁」と呼ばれているのは、この役職に就いていたためです。
参議のように、朝廷の政治に参加する身分の高い貴族を、公卿といいます。
篁は漢詩や法律に詳しく、その知識と能力を朝廷から高く評価されました。
しかし、身分の高い人の命令に何でも従う人物ではありませんでした。自分が納得できないことには強く反発したため、次のような異名でも呼ばれています。
- 野相公
- 野宰相
- 野狂
「相公」や「宰相」は、身分の高い政治家を表す呼び方です。
「野狂」には、常識や決まりにとらわれず、自分の考えを貫く人物という意味が込められています。
遣唐使への乗船を拒否
遣唐使の副使に選ばれる
遣唐使とは、中国の唐へ送られた使節団です。
日本は遣唐使を通して、政治制度、仏教、学問、建築、文学など、唐の進んだ文化を学びました。
834年、仁明天皇の時代に、新しい遣唐使を送ることが決まりました。
この遣唐使では、藤原常嗣が大使に、小野篁が副使に任命されました。
大使は使節団全体をまとめる責任者です。副使は大使を助ける、大使に次いで重要な役目でした。
二度も航海に失敗する
船の準備が整い、遣唐使は836年に唐へ向けて出発しました。
しかし、航海の途中で強い風に遭い、船が壊れたため、日本へ引き返すことになります。
翌837年、船を修理して再び出発しましたが、このときも悪天候に見舞われ、唐へ渡ることはできませんでした。
当時の船は現在の船ほど丈夫ではなく、航海の技術も十分には発達していません。強い風や高い波に遭えば、船が壊れたり、海に流されたりする危険がありました。
過去の遣唐使でも、航海中に船が大きく壊れ、多くの人が海へ投げ出されて亡くなる事故が起きています。食料や水を失い、何日間も漂流した人もいました。
遣唐使として唐へ渡ることは、命を失う覚悟が必要な危険な旅だったのです。
大使と篁の船が交換される
838年、遣唐使は三度目の出発をすることになりました。
ところが出発を前にして、乗船する船の変更が決まります。
もともと大使の藤原常嗣が乗る予定だった第一船は、以前の航海で大きく壊れ、修理された船でした。
常嗣は、一度壊れた船に乗るのは危険だと考え、自分が篁の乗る予定だった第二船に移ることを求めました。
その結果、修理された第一船が篁に回され、朝廷もこの交換を認めました。
篁は、この決定に強く反発します。
船の割り当ては以前から決まっていたのに、出発直前になって、大使が状態のよい船を取り、修理した船を自分に回したと感じたためです。
篁にとっては、自分の命だけの問題ではありませんでした。同じ船には、篁の部下たちも乗ることになっていたからです。
一度決められた船を、身分の高い大使の都合で交換されたことが、篁には許せなかったのでしょう。
病気を理由に乗船を拒否
篁は病気であるとして、遣唐使の船に乗りませんでした。
資料によっては、自分の体が弱いこと、家が貧しいこと、年老いた親がいることも理由に挙げたとされています。
実際は、乗船拒否の大きな原因となったのは、船の交換に対する不満だったと考えられます。
さらに篁は、遣唐使の計画や対応を批判する『西道謡』という作品を作り、自分の怒りを表しました。
その内容は、朝廷や遣唐使の計画を強く批判するものだったといわれています。
これを知った嵯峨上皇は、激しく怒りました。
上皇とは、天皇の位を退いたあとの天皇を表す呼び方です。嵯峨上皇は、天皇を退いたあとも朝廷に強い影響力を持っていました。
死刑を免れ、隠岐へ流される
遣唐使の命令に従わず、さらに朝廷を批判した篁の行動は、大きな罪として取り調べられました。
当時の法律に照らすと、篁は絞首刑になるほどの罪にあたると判断されたといいます。
しかし、特別な命令によって刑が一段階軽くされ、篁は死刑を免れました。
その代わり、官位を奪われ、隠岐国へ流されることになります。
隠岐国は、現在の島根県にある隠岐諸島にあたります。
- 絞首刑とは、縄で首を締める方法で行われる死刑です。
- 流罪とは、罪を受けた人を、都から遠く離れた土地へ送る刑罰です。
隠岐へ向かう船で詠んだ『百人一首』の歌
篁が隠岐へ向かうときに詠んだとされるのが、『百人一首』第11番の歌です。
わたの原
八十島かけて
漕ぎ出でぬと
人には告げよ
海人の釣舟
「わたの原」は広い海、「八十島」は数多くの島、「海人」は海で魚や貝を取る人を意味します。
現代の言葉にすると、次のような意味です。
私は広い海へ、多くの島々を目指して船出した。そのことを、都にいる人へ伝えてほしい。海で釣りをしている漁師の舟よ。
都を離れ、遠い隠岐へ流される寂しさが表された歌です。
同時に、これから自分を待つ運命を受け入れようとする、篁の強い覚悟も感じられます。
赦されて朝廷へ復帰
篁はその後、罪を赦されて都へ戻りました。
さらに以前の官位を回復し、再び朝廷の役人として働くようになります。
一方、大使の藤原常嗣は唐へ渡ることに成功し、839年に日本へ帰国しました。
篁は遣唐使への乗船を拒否したことで、一度は死刑になりかねないほどの罪を問われました。
それでも朝廷へ呼び戻され、再び高い地位まで出世しています。このことからも、篁の知識や政治能力が朝廷に必要とされていたことが分かります。
平安時代を代表する漢詩人
小野篁は政治家であると同時に、平安時代を代表する漢詩人でもありました。
漢詩とは、中国の詩の形式に従い、漢字を使って作られた詩です。平安時代の貴族にとって、漢詩を作る能力は重要な教養でした。
篁の漢詩は、次のような書物に残されています。
- 『経国集』
- 『扶桑集』
- 『本朝文粋』
- 『和漢朗詠集』
なかでも『経国集』は、天皇の命令によって編集された漢詩集です。
天皇や上皇の命令によって編集された詩歌集を、勅撰集といいます。
篁には、『野相公集』という全5巻の漢詩集があったといわれています。
鎌倉時代ごろまでは伝わっていたようですが、現在は失われています。
書物や作品が失われ、現代まで残らないことを、散逸といいます。
篁は当時、優れた詩人として高く評価されていました。しかし、作品の多くが散逸したため、現在まで伝わっている漢詩はそれほど多くありません。
和歌にも優れていた
篁は漢詩だけでなく、和歌にも優れていました。
『古今和歌集』には、次の歌が収められています。
泣く涙
雨と降らなむ
わたり川
水まさりなば
かへりくるがに
現代の言葉にすると、次のような意味です。
私の流す涙が雨となって降ってほしい。あの世との境にある川の水が増えれば、亡くなった人も川を渡れず、こちらへ帰ってくるかもしれない。
「わたり川」は、死者があの世へ向かうときに渡る川を表しています。
大切な人を失った悲しみと、「もう一度戻ってきてほしい」という強い願いが込められた歌です。
母親思いで、お金には執着しなかった
篁は強気で反抗的な人物として知られていますが、情の深い一面もありました。
特に母親を大切にしていたと伝えられています。
また、金銭にはあまり執着せず、朝廷から受け取った給料を、困っている友人に分け与えることもありました。
篁は高い地位に就いていましたが、人にお金を与えてしまうため、家の暮らしは豊かではなかったといわれています。
病気が重くなったときには、子どもたちに次のように伝えたとされます。
「自分が死んでも大勢の人に知らせず、すぐに葬ってほしい」
華やかな葬儀や、自分の名誉にこだわらない人物だったことを伝える逸話です。
なぜ小野篁は伝説の人物になったのか
小野篁は、実際の歴史だけでなく、不思議な伝説でも有名です。
篁は非常に頭がよく、漢詩や法律にも詳しい人物でした。さらに、権力者を恐れず、自分の考えを貫く型破りな行動でも知られています。
こうした人物像が人々に強い印象を残し、篁を主人公とするさまざまな説話が作られました。
説話とは、人々の間で語り継がれた、不思議な出来事や教訓を含む物語です。
後世の説話では、篁は昼間は朝廷で働き、夜になるとあの世へ行き、閻魔大王を助けていたと語られています。
もちろん、これは歴史的な事実ではありません。
篁の博識さや普通の人とは違う行動が、「あの世のことまで知っている特別な人物」という伝説につながったと考えられます。
小野篁について考えるときは、歴史上の政治家としての篁と、後世の物語に登場する伝説の篁を分ける必要があります。
『篁日記』は本人が書いた日記ではない
小野篁に関係する作品として、『篁日記』があります。
この作品は、『篁物語』『小野篁集』『小野篁記』とも呼ばれています。
題名に「日記」とありますが、篁本人が毎日の出来事を書いた日記ではありません。
篁の死後、平安時代後期に作られた物語と考えられています。作者や正確な成立年は分かっていません。
前半は異母妹との悲しい恋
物語の前半では、学生時代の篁と異母妹との恋が描かれます。
二人は深く愛し合いますが、母親によって仲を引き裂かれ、妹は悲しみのあまり亡くなってしまいます。
この物語には、恋愛だけでなく、継子いじめや亡霊の物語など、さまざまな説話の要素が組み合わされています。
後半は結婚と出世の物語
後半では、篁が右大臣の三女との結婚を望み、やがて結婚を実現させます。
結婚した篁は、政治家としてしだいに出世し、宰相になります。
前半と後半では、物語の内容が大きく異なります。しかし、どちらにも篁を優れた理想の人物として描く意図が見られます。
『篁日記』は篁の正確な伝記ではなく、後世の人々が思い描いた小野篁の姿を伝える物語です。
小野篁の子孫
小野篁の子孫にも、有名な人物がいます。
孫の小野道風は、平安時代を代表する書道家です。
中国の書道をまねるだけではない、日本らしい書道を発展させた人物として知られています。
同じく孫の小野好古は、朝廷に仕えた武人として活躍しました。
篁の一族からは、政治・文学・書道・武芸など、さまざまな分野で活躍する人物が現れています。
小野篁の記事に出てくる難しい用語
難しい用語の説明を見る
- 公卿(くぎょう)
- 朝廷の政治に参加した、身分の高い貴族です。
- 参議(さんぎ)
- 天皇を支え、国の政治について話し合った朝廷の高官です。
- 官位(かんい)
- 朝廷に仕える役人の地位や身分を表すものです。
- 従三位(じゅさんみ)
- 朝廷の役人に与えられた、高い身分の一つです。
- 陸奥守(むつのかみ)
- 陸奥国を治めるために、朝廷から任命された役人です。
- 弓馬(きゅうば)
- 弓を使う技術と、馬に乗る技術です。
- 文章生(もんじょうしょう)
- 大学寮で漢文学や歴史を学んだ学生です。
- 大学寮(だいがくりょう)
- 朝廷の役人を育てるために、学問を教えた学校です。
- 遣唐使(けんとうし)
- 中国の唐へ送られ、政治や文化を学んだ使節団です。
- 大使(たいし)
- 遣唐使などの使節団をまとめる責任者です。
- 副使(ふくし)
- 大使を助ける、大使に次いで重要な役目です。
- 難船(なんせん)
- 嵐や強い波によって船が壊れ、航海を続けられなくなることです。
- 上皇(じょうこう)
- 天皇の位を退いたあとの天皇を表す呼び方です。
- 反骨精神(はんこつせいしん)
- 権力や一般的な考えに簡単には従わず、自分の考えを貫く気持ちです。
- 流罪(るざい)
- 罪を受けた人を、都から遠く離れた土地へ送る刑罰です。
- 赦免(しゃめん)
- 受けた罪や刑を許されることです。
- 漢詩(かんし)
- 中国の詩の形式に従い、漢字を使って作られた詩です。
- 勅撰集(ちょくせんしゅう)
- 天皇や上皇の命令によって編集された詩歌集です。
- 散逸(さんいつ)
- 書物や作品が失われ、現在まで残らないことです。
- 俸禄(ほうろく)
- 朝廷や主君から役人に与えられた給料です。
- 説話(せつわ)
- 人々の間で語り継がれた、不思議な話や教訓を含む物語です。
- 異母妹(いぼまい)
- 父親は同じで、母親が違う妹です。
- 宰相(さいしょう)
- 国の政治にかかわる、身分の高い役人を表す呼び方です。
まとめ
小野篁は、平安時代初期に活躍した政治家・漢詩人・歌人です。
少年時代は弓や馬を好んでいましたが、嵯峨天皇の言葉をきっかけに学問へ力を入れ、朝廷の高官である参議まで出世しました。
遣唐使の副使に選ばれましたが、二度の航海失敗を経験したあと、船の割り当てをめぐって大使と対立します。
修理された船を自分に回されたことに反発し、遣唐使への乗船を拒否したため、死刑になりかねない罪を問われました。
その後、刑を軽くされて隠岐へ流されましたが、のちに赦され、再び朝廷で活躍しています。
篁は漢詩や和歌にも優れ、母親や友人を大切にする情の深い人物でもありました。
その高い知性と型破りな生き方から、死後には、あの世で閻魔大王を助けていたという伝説まで作られました。
小野篁は、次の三つの顔を持った人物だといえるでしょう。
- 朝廷で活躍した優秀な政治家
- 権力に簡単には屈しない反骨の文化人
- あの世に通じていたと語られる伝説の主人公
参考文献
- 日本文化史 第1(1948)
- 人物論叢 修訂 3版(1948)
- 国史概説(1944)
- 民族日本歴史 封建編 新版(1946)