1099年、第1回十字軍はエルサレムを占領しました。その後、パレスチナやシリア周辺には、エルサレム王国、エデッサ伯領、アンティオキア公領、トリポリ伯領などの十字軍国家がつくられます。

しかし、十字軍の成功は長く続きませんでした。

第1回十字軍のとき、イスラム側は複数の国や勢力に分かれており、十分に協力できていませんでした。しかし、十字軍国家が建てられると、イスラム側も危機感を強め、しだいにまとまって反撃するようになります。

第2回以降の十字軍は、最初の遠征とは異なり、失った都市を取り戻したり、弱くなった十字軍国家を助けたりするための戦いになっていきました。

十字軍国家は守ることが難しかった

第1回十字軍がつくった国家は、地中海沿岸に細長く広がっていました。周囲にはイスラム勢力があり、ヨーロッパから遠く離れていたため、領土を守るのは簡単ではありませんでした。

十字軍国家は大きな城を築き、ヨーロッパから送られてくる兵士や物資に頼りました。聖地や巡礼者を守るため、テンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団といった騎士修道会も活動します。

騎士修道会とは、修道士として神に仕えながら、騎士として武器を持って戦う集団です。彼らは十字軍国家を守る重要な戦力でしたが、それだけで広い領土を守り続けることはできませんでした。

エデッサ伯領の滅亡と第2回十字軍

1144年、イスラム側の指導者ザンギーが、十字軍国家の一つであるエデッサ伯領を攻め落としました。これは、第1回十字軍によってつくられた国が初めて失われた大事件でした。

エデッサ陥落の知らせがヨーロッパへ届くと、新しい十字軍を送ることが決まります。これが1147年から始まった第2回十字軍です。

遠征にはフランス王ルイ7世とドイツ王コンラート3世が参加しました。また、高名な修道士クレルヴォーのベルナールが各地で説教を行い、十字軍への参加を呼びかけました。

しかし、遠征は最初からうまく進みませんでした。軍は小アジアで大きな損害を受け、目的だったエデッサを攻めることもできませんでした。

そこで十字軍は、イスラム勢力と対立しながらも、それまで十字軍国家と協力することもあったダマスカスを攻撃します。しかし、わずか数日で撤退し、遠征は失敗に終わりました。

第2回十字軍の失敗は、ヨーロッパに大きな失望を与えます。国王たちが参加した大軍であっても、第1回十字軍の成功を再現することはできなかったのです。

イスラム勢力をまとめたヌール・アッディーン

第2回十字軍が失敗したころ、イスラム側ではヌール・アッディーンという指導者が勢力を広げていました。彼はシリアの主要都市を支配し、十字軍国家に対抗するためのまとまりをつくります。

ヌール・アッディーンは、十字軍との戦いをイスラム教の信仰を守る戦争として訴えました。それまで争っていたイスラム側の国々をまとめ、十字軍国家を包囲する体制を整えていったのです。

その後、ヌール・アッディーンのもとで力を伸ばした人物が、サラーフ・アッディーンです。ヨーロッパでは「サラディン」という名前で知られています。

サラディンがエジプトとシリアをまとめる

サラディンはエジプトの支配者となり、ヌール・アッディーンの死後にはシリアにも勢力を広げました。こうして、十字軍国家の南にあるエジプトと、北や東にあるシリアが、一人の指導者のもとにまとまります。

これは十字軍国家にとって大きな危機でした。

第1回十字軍のころには個別撃破が可能だったイスラム勢力が、サラディンのもとで協力して戦えるようになったからです。十字軍国家は、南と北の両方から圧力を受けるようになりました。

ヒッティーンの戦いで十字軍が壊滅

1187年、サラディンは十字軍国家の軍をおびき出し、ガリラヤ湖に近いヒッティーンで戦いました。

十字軍の兵士たちは、真夏の暑さの中で水を十分に得られず、疲れ切っていました。サラディン軍は水場へ向かう道をふさぎ、周囲の草に火を放って煙と熱で十字軍を苦しめます。

このヒッティーンの戦いで、十字軍国家の主力はほぼ壊滅しました。エルサレム王をはじめ、多くの騎士が捕虜となり、キリスト教徒が大切にしていた「聖なる十字架の木片」も奪われました。

守る軍隊を失った十字軍国家の都市は、次々とサラディンに降伏していきます。

サラディンがエルサレムを奪還

ヒッティーンの戦いから約3か月後、サラディンはエルサレムを包囲しました。1187年10月、エルサレムはサラディンに降伏します。

1099年に第1回十字軍がエルサレムを占領したときには、多くのイスラム教徒やユダヤ教徒が殺害されました。しかし、サラディンは同じような大虐殺を行いませんでした。

住民の多くは、決められた身代金を支払えば、財産を持って都市から出ることを認められました。身代金を払えない人の中には捕虜や奴隷にされた人もいましたが、多くの住民が殺される事態は避けられました。

このためサラディンは、イスラム世界の英雄としてだけでなく、ヨーロッパでも寛大さを持つ立派な敵として語られるようになります。

三人の国王が参加した第3回十字軍

エルサレム陥落の知らせは、ヨーロッパに大きな衝撃を与えました。そこで始まったのが、1189年から1192年にかけて行われた第3回十字軍です。

この遠征には、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フランス王フィリップ2世、イングランド王リチャード1世という有力な君主が参加しました。

三人もの大君主が参加したことから、第3回十字軍は「王たちの十字軍」とも呼ばれます。

しかし、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は、遠征の途中で川を渡ろうとして亡くなりました。指導者を失ったドイツ軍の多くは、そのまま帰国してしまいます。

リチャード1世とサラディンの戦い

フランス王フィリップ2世とイングランド王リチャード1世は海路で聖地へ向かい、港町アッコンを包囲しました。アッコンは1191年に降伏しますが、その後フィリップ2世はフランスへ帰国しました。

残されたリチャード1世は、サラディンとの戦いを続けます。

リチャード1世は勇敢な戦いぶりから「獅子心王」と呼ばれました。1191年のアルスフの戦いではサラディン軍を破り、地中海沿岸の都市を確保します。

それでも、リチャード1世はエルサレムを攻撃しませんでした。たとえ都市を占領できても、長く守ることが難しいと考えたためです。

1192年、リチャード1世とサラディンは休戦協定を結びました。エルサレムはイスラム側が支配する一方、武器を持たないキリスト教徒の巡礼者が聖地を訪れることが認められます。

第3回十字軍はエルサレムを取り戻せませんでした。しかし、沿岸部の十字軍国家を立て直し、キリスト教徒の巡礼を認めさせることには成功しました。

聖地へ行かなかった第4回十字軍

第3回十字軍の後も、教皇はエルサレム奪還をあきらめませんでした。1202年、新たな遠征である第4回十字軍が始まります。

十字軍は海を渡るため、商業都市ヴェネツィアに船を用意してもらいます。しかし、予定より参加者が集まらず、十字軍は約束した船代を支払えませんでした。

そこでヴェネツィアは、借金の代わりとして、対立していた都市ザラへの攻撃を求めます。ザラはキリスト教徒の都市でしたが、十字軍はこれを攻撃しました。

さらに十字軍は、ビザンツ帝国の皇位争いに介入します。追放された皇族から、皇帝の座を取り戻すのを助ければ大金を支払い、十字軍にも協力すると持ちかけられたためです。

コンスタンティノープルの略奪

十字軍はビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルへ向かいました。しかし、約束された資金が支払われず、現地の人々との対立も激しくなります。

1204年、十字軍はついにコンスタンティノープルを攻め落としました。

兵士たちは教会や宮殿、民家に押し入り、財宝や美術品を奪います。多くの建物が破壊され、市民も暴力を受けました。

コンスタンティノープルはイスラム教徒の都市ではありません。同じキリスト教を信じるビザンツ帝国の首都でした。

聖地エルサレムを救うために出発したはずの十字軍が、一度も聖地へ行かず、キリスト教世界有数の都市を略奪したのです。

占領後、十字軍はコンスタンティノープルにラテン帝国を建てました。この事件によって、ローマ・カトリック教会と東方正教会の対立は、さらに深くなりました。

少年十字軍と呼ばれた運動

1212年には、フランスやドイツで「少年十字軍」と呼ばれる運動が起こりました。若者や貧しい人々が、純粋な信仰の力によって聖地を取り戻せると考え、地中海を目指したと伝えられています。

しかし、この運動の詳しい情報もなく、「参加者の大部分が幼い子どもだった」「商人にだまされて奴隷として売られた」という有名な話も、後の時代に付け加えられたお話の可能性があります。

少なくとも、正式な教皇の命令によって組織された軍事遠征ではなく、宗教的な熱狂から生まれた民衆運動だったといわれます。

エルサレムではなくエジプトを狙った第5回十字軍

第4回十字軍の失敗後、十字軍の指導者たちは、エルサレムを直接攻めても守り続けることは難しいと考えるようになりました。

そこで、新しい作戦が立てられます。

イスラム側の重要な拠点であるエジプトを征服し、その領土と引き換えにエルサレムを返してもらおうと考えたのです。

1217年に始まった第5回十字軍は、エジプトの港町ダミエッタを攻撃しました。長い包囲戦の末、十字軍は1219年にダミエッタを占領します。

イスラム側は、ダミエッタを返す代わりにエルサレムを十字軍へ渡すという提案をしました。しかし、十字軍側はさらに有利な結果を求め、この提案を受け入れませんでした。

その後、十字軍はエジプトの中心都市カイロを目指します。しかし、ナイル川の増水によって進路をふさがれ、イスラム軍に包囲されました。

1221年、十字軍はダミエッタを返還して撤退します。エルサレムを取り戻せる可能性があったにもかかわらず、より大きな勝利を求めたためにすべてを失いました。

戦争ではなく交渉した第6回十字軍

1228年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が聖地へ向かいました。これが第6回十字軍です。

フリードリヒ2世は、ほかの十字軍指導者とは異なる人物でした。イスラム文化や学問にも関心を持ち、アラビア語を理解する人々を宮廷に集めていたといわれています。

彼は大規模な戦争を行わず、エジプトのアイユーブ朝のスルタン、アル=カーミルと交渉しました。

1229年、両者は休戦条約を結びます。この条約によって、エルサレム、ベツレヘム、ナザレなどが、一定の期間キリスト教側へ渡されました。

ただし、イスラム教の聖地である神殿の丘はイスラム側が管理し、エルサレムの城壁も再建しないという条件がつけられていました。

第6回十字軍は、大きな戦闘を行わずにエルサレムを得た珍しい遠征です。しかし、この支配は十分な軍事力に支えられていなかったため、長く続きませんでした。

1244年、エルサレムは再びイスラム側に奪われます。これ以降、十字軍国家がエルサレムを支配することはありませんでした。

10年単位で十字軍が聖地を目指すのは、イスラム勢力としてはたまったものではなかったのではないでしょうか。

フランス王ルイ9世の第7回十字軍

エルサレムが再び失われると、フランス王ルイ9世が十字軍を計画しました。ルイ9世は信仰心の強い国王で、後にカトリック教会の聖人となった人物です。

1248年に始まった第7回十字軍でも、目標はエジプトでした。ルイ9世の軍は港町ダミエッタを占領し、そこからカイロ方面へ進みます。

しかし、十字軍はマンスーラ周辺で激しい抵抗を受けました。病気や食料不足も広がり、撤退しようとしたところをイスラム軍に攻撃されます。

1250年、ルイ9世は多くの兵士とともに捕虜となりました。

フランス側は高額な身代金を支払い、ダミエッタを返還して国王を解放してもらいます。第7回十字軍も、エルサレムを取り戻せないまま失敗しました。

ルイ9世が病死した第8回十字軍

ルイ9世は第7回十字軍の失敗後も、聖地への遠征をあきらめませんでした。1270年、再び軍を集めて出発します。これが第8回十字軍です。

しかし、遠征軍が向かったのはエルサレムやエジプトではなく、北アフリカのチュニスでした。

なぜチュニスを目標にしたのかについては、現地の支配者をキリスト教へ改宗させようとした、地中海の拠点を確保しようとしたなど、いくつかの理由が考えられています。

ところが、十字軍の陣地で病気が広がり、ルイ9世も亡くなります。指導者を失った軍は現地の支配者と協定を結び、ヨーロッパへ戻ります。

この遠征を最後に、ヨーロッパの国王が率いる大規模な十字軍は、ほとんど行われなくなりました。

最後の拠点アッコンの陥落

第8回十字軍の後も、パレスチナ沿岸には十字軍国家の都市が残っていました。しかし、その領土はしだいに小さくなっていきます。

この時期、エジプトとシリアではマムルーク朝が力を強めていました。マムルーク朝の軍は十字軍の城や都市を次々と攻め落とし、十字軍国家を海岸へ追い詰めます。

1291年、マムルーク朝の大軍が、十字軍国家最後の大きな拠点アッコンを包囲しました。

激しい戦いの末に城壁が破られ、アッコンは陥落します。生き残ったキリスト教徒の多くは船でキプロス島などへ逃れました。

その後、沿岸部に残っていたほかの都市も放棄され、パレスチナとシリアに築かれた十字軍国家は、ほぼ完全に消滅しました。

1099年のエルサレム占領から、およそ200年。

聖地における十字軍の支配は、ここで終わったのです。

なぜ第1回の成功を繰り返せなかったのか

第1回十字軍が成功した理由の一つは、当時のイスラム側が分裂していたことでした。十字軍の進軍を止めるために、各国が十分に協力できていなかったのです。

しかし第2回以降、イスラム側ではヌール・アッディーンやサラディンのような指導者が現れ、エジプトとシリアをまとめて十字軍に対抗しました。

一方、十字軍側は一枚岩ではありませんでした。国王や諸侯の間には争いがあり、ヴェネツィアなどの商業都市は自分たちの利益を優先しました。

ヨーロッパから聖地までは遠く、大軍を移動させるだけでも、多額の費用と長い時間が必要です。仮に都市を占領できても、ヨーロッパから離れた土地を長期間守ることは困難でした。

第1回の成功は、その後も簡単に再現できる勝利ではなかったのです。

戦う相手と目的も変わっていった

最初の十字軍は、エルサレムをイスラム勢力から取り戻すことを目的としていました。しかし、第4回十字軍では、同じキリスト教国であるビザンツ帝国が攻撃されました。

後の遠征では、エルサレムではなくエジプトや北アフリカが主な攻撃目標になります。十字軍という仕組みは、教皇や国王、商人たちの政治的、経済的な目的にも利用されるようになりました。

信仰が消えたわけではありません。ルイ9世のように、強い信仰心から遠征に参加した人物もいます。

しかし、信仰、国どうしの争い、領土への欲望、商業上の利益が複雑に重なり、十字軍の目的はしだいに見えにくくなっていきました。

第1回以降の十字軍が残したもの

第1回十字軍以降、ヨーロッパとイスラム世界の戦いは約200年にわたって続きました。多くの都市が攻撃され、宗教を問わず、数え切れない人々が命や財産を失いました。

特に第4回十字軍によるコンスタンティノープルの略奪は、カトリック教会と東方正教会の間に深い傷を残しました。

その一方で、地中海を行き来する人や船が増え、ヨーロッパとイスラム世界の貿易も盛んになります。香辛料や砂糖、絹織物などの商品だけでなく、医学、数学、哲学などの知識もヨーロッパへ伝わりました。

ただし、こうした交流は十字軍だけによって始まったものではありません。戦争以前から行われていた交流が、十字軍の時代にさらに活発になったと考えるべきでしょう。

まとめ

第1回十字軍はエルサレムの占領に成功しました。しかし、その後の十字軍は、失った領土を取り戻し、弱くなった十字軍国家を助ける戦いへと変わっていきます。

第2回十字軍は失敗し、サラディンによってエルサレムが奪還されました。第3回十字軍でもエルサレムを取り戻せず、第4回十字軍は同じキリスト教国の首都を略奪します。

第5回以降はエジプトなどを攻撃しましたが、長く続く成果は得られませんでした。戦争をせず、交渉によってエルサレムを得た第6回十字軍も、その支配を維持できませんでした。

そして1291年、最後の大きな拠点アッコンが陥落し、聖地における十字軍国家は消滅します。

第1回以降の十字軍の歴史は、最初の成功を繰り返そうとして失敗を重ねた歴史でもあります。

聖地を救うために始まった遠征は、しだいに政治や領土、商業上の利益に動かされ、ついには同じキリスト教徒まで攻撃しました。

信仰から始まった運動が、なぜ本来の目的を失っていったのか。

そこに、第1回以降の十字軍を学ぶ大きな意味があるのではないでしょか。