十字軍とは、11世紀末から13世紀にかけて、西ヨーロッパのキリスト教徒が行った軍事遠征です。一般には、イスラム教徒が支配していたエルサレムを取り戻すための戦争として知られています。
しかし、十字軍は最初から普通の軍隊として始まったわけではありません。
参加した人々の多くは、自分たちを聖地へ向かう「巡礼者」だと考えていました。十字軍は、神への信仰を示す巡礼と、武器を持って敵と戦う戦争が結びついた運動だったのです。
なぜエルサレムを目指したのか
エルサレムは、キリスト教徒にとってイエス・キリストが十字架にかけられ、埋葬され、復活したと信じられている場所です。キリスト教の歴史の中でも、特に重要な聖地でした。
しかし、エルサレムはキリスト教徒だけにとって大切な都市ではありません。イスラム教ではメッカ、メディナに続く重要な聖地であり、ユダヤ教にとっても古代の神殿が置かれた特別な場所です。
三つの宗教が、それぞれの歴史と信仰を重ねてきた都市。それがエルサレムでした。
当時の西ヨーロッパのキリスト教徒は、この都市を自分たちが取り戻すべき「奪われた聖地」と考えるようになります。この考えが、十字軍を正しい戦いとして受け入れる土台になりました。
十字軍以前から広がっていた「正しい戦争」の考え
キリスト教は、本来、人を殺すことをよい行いとはしていません。それでも中世の教会では、国や信仰を守るための戦い、奪われたものを取り返す戦いは正しい場合があると考えられていました。
この考え方は「正戦論」と呼ばれます。防衛や正当な権利の回復を目的とし、正しい権威を持つ人物が命じた戦争ならば、認められるという考え方です。
さらに11世紀のヨーロッパでは、キリスト教を信じる人々の間に強い信仰心が広がり、ローマやエルサレムなどの聖地を訪れる巡礼も盛んになっていました。
正しい戦争という考えと、命がけで聖地を目指す巡礼。
この二つが結びついたとき、武器を持った巡礼ともいえる十字軍が生まれました。
ビザンツ帝国が西ヨーロッパに助けを求める
十字軍が始まる直接のきっかけは、現在のトルコ周辺で起きた戦いでした。
当時、この地域にはキリスト教国のビザンツ帝国がありました。しかし、イスラム教を信じるセルジューク朝が勢力を広げ、1071年のマラーズギルドの戦いでビザンツ軍を破ります。
ビザンツ帝国は小アジアの広い地域を失い、皇帝アレクシオス1世は西ヨーロッパのローマ教皇に援軍を求めました。
ビザンツ帝国と西ヨーロッパの教会は、同じキリスト教でも考え方や組織が異なり、1054年にはローマ・カトリック教会と東方正教会に分裂していました。
それでもアレクシオス1世は、イスラム勢力に対抗するため、西ヨーロッパの騎士の力を必要としていたのです。
「神がそれを望んでおられる」
1095年11月、教皇ウルバヌス2世はフランスのクレルモンで開かれた集会に立ち、人々へ遠征を呼びかけました。
教皇は、東方のキリスト教徒が苦しんでいることを訴え、聖地エルサレムを取り戻すために立ち上がるよう求めます。戦いに参加することは、神のための正しい行いであり、罪の償いにもなると説きました。
集まった人々は熱狂し、「神がそれを望んでおられる」と叫んだと伝えられています。
この言葉は、十字軍を表す有名な合言葉になりました。
ただし、現在残っている教皇の演説内容は、後の時代に複数の人物が書き残したものです。そのため、教皇が実際にどの言葉を使ったのか、詳しい部分まではわかっていません。(クレルモン教会会議)
十字軍に参加すれば罪が消えたのか
教皇の呼びかけについては、「十字軍に参加すれば、どのような罪も消してもらえた」と説明されることがあります。しかし、正確には少し違います。
当時のキリスト教では、罪を犯した人は悔い改め、神の赦しを求めたうえで、断食や祈り、巡礼などの償いを行う必要があると考えられていました。
十字軍への参加は、その償いを果たす特別な行いとされました。
つまり、戦争に参加すれば悪事そのものがなかったことになるのではありません。悔い改めた人が、命がけの遠征を行うことで、罪に対する償いを果たしたと認められたのです。
教皇の呼びかけはヨーロッパ中に広がった
クレルモンで演説を終えた後も、ウルバヌス2世は各地を回り、十字軍への参加を呼びかけました。教皇から派遣された聖職者や説教師も、フランスや現在のベルギー、オランダ、ドイツ周辺などで説教を行います。
呼びかけに応じたのは、国王や大領主だけではありませんでした。騎士、歩兵、農民、職人、女性、子ども、聖地へ行きたい一般の巡礼者など、さまざまな人が遠征に加わりました。
十字軍は軍隊であると同時に、大勢の一般人が同行する巨大な巡礼団でもあったのです。
その一方で、参加者の目的は同じではありませんでした。信仰のために参加した人もいれば、名誉や土地、財産を求めた人もいました。
特に領主の次男や三男は、家の土地を受け継げないことが多く、遠征先で新しい領地を得られる可能性に期待していたと考えられています。
下の画像は第1回十字軍のルートのイメージです。

正規軍より先に出発した民衆十字軍
正式な軍隊の準備が整う前に、熱狂した民衆が先に出発しました。これが民衆十字軍です。
中心人物となったのは、隠者ピエールと呼ばれる説教師でした。彼の話を聞いた農民や貧しい人々、一部の騎士などが、1096年にエルサレムを目指して進み始めます。
しかし、彼らの多くは十分な武器や食料を持っておらず、軍隊としての訓練も受けていませんでした。道中では食料不足に苦しみ、略奪や暴力を起こす集団も現れます。
ドイツ周辺では、十字軍に参加した人々がユダヤ人の町を襲い、多くの人を殺害しました。彼らは遠くのイスラム教徒と戦う前に、同じヨーロッパに暮らす人々を攻撃したのです。
小アジアへ渡った民衆十字軍の多くは、セルジューク軍に敗れて壊滅します。
神への強い信仰から始まった運動は、早い段階から無秩序な暴力を生み出していました。
「正規」の十字軍も巡礼団だった
民衆十字軍の後、諸侯や騎士が率いる本格的な軍隊が出発しました。これが第1回十字軍の主力となります。
各地の軍は別々の道を進み、1097年ごろ、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに集まりました。ドナウ川に沿って東へ向かった軍もあれば、南イタリアから海を渡ってバルカン半島を進んだ軍もありました。
ただし、この軍にも騎士だけが参加していたわけではありません。歩兵、荷物を運ぶ人、料理や修理を担当する人、兵士の家族、一般の巡礼者などが大勢同行していました。
どこまでが軍人で、どこからが巡礼者だったのか、はっきり分けることが出来ない集団として、十字軍は武装した騎士に守られながら、進む巨大な巡礼団という存在だったのです。
ビザンツ皇帝と十字軍の間にあった不信
十字軍を最初に求めたのは、ビザンツ皇帝アレクシオス1世でしたが、皇帝は西ヨーロッパから来た十字軍を完全には信用していませんでした。
皇帝が求めていたのは、失ったビザンツ帝国の領土を取り戻すために働く援軍です。ところが、十字軍を率いる諸侯の中には、征服した土地を自分の領地にしようと考える者も混ざっていました。
十字軍側から見れば、自分たちは命をかけて遠征しています。手に入れた都市や土地を、すべてビザンツ帝国へ返すような仲間を助けるためのお人よしだけではありませんでした。
イスラム側から見れば、十字軍は西から突然押し寄せてきた侵略者でしかありません。一方、キリスト教側は、奪われた聖地を取り戻す軍だと考えていました。
見る立場によって、同じ軍隊が援軍にも、解放者にも、侵略者にも見えたのです。
アンティオキアからエルサレムへ
十字軍は小アジアを越え、1097年にシリア北部の重要都市アンティオキアを包囲しますが、城壁に守られた都市を攻め落とすまでには、長い時間がかかりました。
食料不足や病気によって、多くの参加者が命を落としましたが、それでも十字軍は1098年にアンティオキアを占領しました。
ところが、都市を手に入れると、誰が支配するのかをめぐって諸侯たちが争い始めます。
聖地を目指すという共通の目的で集まった人々も、領土を前にすると自分の利益を優先しました。しかし、一般の巡礼者たちはエルサレムへ進むことを強く求めます。
諸侯たちは争いをいったん止め、再び南へ向かいました。
エルサレムへ。
その目的が、遠征を続ける人々をもう一度、結束させます。
聖地で行われた大虐殺
1099年7月、十字軍はエルサレムを攻め落とします。城内に入った兵士たちは、イスラム教徒やユダヤ教徒の住民を大量に殺害、財産を奪います。
その後、十字軍の兵士たちは、イエスの墓があるとされた聖墳墓教会を訪れ、神へ祈りをささげました。
現代の感覚では、人を殺し、略奪した直後に聖地で祈る行動には大きな違和感をかんじるかもしれません。
しかし、彼らはエルサレムを「本来はキリスト教徒のものだった聖地」と考えていました。そのため、都市を攻め落とすことも、住民を敵として殺すことも、神のための正しい行いだと思い込むことができたのです。
信仰は人を助ける力になります。
一方で、自分たちの行動は必ず正しいと信じ込んだとき、信仰が激しい暴力を正当化する力になることもあります。
エルサレム王国と騎士修道会
第1回十字軍の成功後、征服した地域にはエルサレム王国、エデッサ伯領、アンティオキア公領、トリポリ伯領などがつくられました。これらは「十字軍国家」と呼ばれます。
十字軍国家は、周囲をイスラム勢力に囲まれていました。そのため、大きな城を築き、ヨーロッパから送られてくる兵士や物資に頼りながら領土を守りました。
また、聖地と巡礼者を守るため、騎士と修道士の両方の役割を持つ「騎士修道会」が生まれます。
代表的なのがテンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団です。団員は修道士として祈り、清貧や服従を誓う一方、騎士として武器を持ち、戦場で戦いました。
人を傷つけない生活を理想とする修道士と、敵を倒す騎士。
本来は反対に見える二つの役割が、十字軍の時代には一つになったのです。
下の画像は十字軍国家のイメージです。

十字軍はエルサレム以外にも広がった
十字軍という仕組みは、やがてエルサレムへの遠征だけに使われるものではなくなりました。
イベリア半島では、キリスト教国がイスラム勢力の土地を征服する戦いが続いていました。これは後に「レコンキスタ」、つまり再征服と呼ばれます。
キリスト教側は、イベリア半島をイスラム教徒から取り戻すべき土地と考えました。教皇もこの戦いを認め、参加者に聖地への十字軍と同じような宗教上の特典を与えるようになります。
また、現在のドイツより東側やバルト海周辺では、キリスト教を信じていないスラヴ人やバルト系の人々を相手に「北方十字軍」が行われました。
こうして十字軍は、聖地を取り戻すための運動から、キリスト教徒が異なる宗教の人々を征服し、改宗させるための運動へと変化し、広がっていきます。
同じキリスト教徒も攻撃の対象になった
恐ろしいことに、十字軍の対象は、異なる宗教を信じる人々だけではありませんでした。
南フランスでは、ローマ・カトリック教会とは異なる信仰を持つカタリ派の人々が「異端」とされました。1209年、教皇インノケンティウス3世の呼びかけによって、彼らを攻撃するアルビジョワ十字軍が始まります。
さらに第4回十字軍では、本来エルサレムへ向かうはずだった軍が、同じキリスト教国であるビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻撃しました。
1204年、十字軍は都市を占領し、教会や宮殿から多くの財宝を奪います。
十字軍は次第に「イスラム教徒から聖地を取り戻す戦争」ではなくなりました。教皇や国王が敵と決めた相手を攻撃するために、十字軍の名前と仕組みが利用されるようになっていきます。
十字軍とヨーロッパの拡大
十字軍が始まった時代、西ヨーロッパでは農業技術が発達し、人口が増えていました。村や町が大きくなり、商業も盛んになりつつあります。
人口が増えれば、新しい農地や土地を求める人も増えます。領土を受け継げない騎士や、新しい商売の機会を求める商人もいました。
そのため、十字軍、レコンキスタ、北方十字軍、東方植民は、別々の出来事でありながら、ヨーロッパの人々が周辺地域へ広がっていく一つの大きな動きとして見ることもできます。
バルト海周辺では、森や沼が農地に変えられ、城や町がつくられました。
しかし、その土地には以前から別の民族が暮らしていました。
住みだした人達には、新しい土地を開拓したという見方をするかもしれませんが、それは、もともとの住民の土地を奪ったということも言えます。
戦争の中でも続いていた交流
キリスト教世界とイスラム世界は、十字軍の時代に戦いを繰り返しましたが、両者の関係がいつも戦争だけだったわけではありません。
キリスト教国どうしが争い、イスラム側の国と同盟を結ぶこともありました。反対にイスラム側の国どうしが争い、キリスト教勢力の力を借りる場合もありました。
商人たちは、宗教が違っても取引を続けます。ヴェネツィアやジェノヴァなど北イタリアの都市は、地中海を通じた東方貿易で大きく発展しました。
ヨーロッパには香辛料、砂糖、絹織物、綿織物、薬品などが運ばれます。食文化や化粧文化にも、イスラム世界の影響が見られるようになりました。
医学、数学、哲学などの知識も、アラビア語の文献や、アラビア語に訳されて保存されていた古代ギリシャの書物を通してヨーロッパへ伝わります。
戦争によって多くの命が失われる一方で、人と物、知識、文化の交流も進んでいたのです。
十字軍が変えた教皇と国王の力
第1回十字軍が成功すると、遠征を呼びかけたローマ教皇の権威は高まりました。国王や諸侯、騎士たちを一つの目的へ向かわせる教皇は、キリスト教世界の指導者として大きな力を持つようになります。
しかし、十字軍は次第に失敗が増え、本来の目的からもズレていきます。エルサレムを長く支配することはできず、1291年には十字軍国家最後の大きな拠点アッコンが陥落します。
約200年にわたる東方への十字軍運動は、ここで事実上の終わりを迎えました。
十字軍をまとめることができなくなった教皇の権威は弱まり、代わってイングランドやフランスなどの国王が力を強めていきます。
キリスト教世界全体を教皇がまとめる時代から、それぞれの国を国王がまとめる時代へ。十字軍の終わりは、ヨーロッパの政治が変わっていく流れとも重なっています。
十字軍とは何だったのか
十字軍は、単なる宗教戦争ではありません。
東方のキリスト教徒を助けたいという思い、聖地を訪れたいという巡礼への願い、自分の罪を償いたいという信仰がありました。
その一方で、教皇にはキリスト教世界をまとめる目的があり、諸侯や騎士には土地や名誉を求め、商人は新しい航路や利益を求め、ヨーロッパ社会全体も新しい土地を必要としていたのかもしれません。
信仰、恐れ、正義、政治、領土、利益。
十字軍は、それらが一つの十字架の下に集まった運動だったのです。
十字軍を学ぶときには、キリスト教徒が正しく、イスラム教徒が悪かったと単純に分けることはできません。反対に、すべての参加者が信仰を利用して利益だけを求めていたともいえません。
人を救いたいという願いが、なぜ人を傷つける戦争へ変わったのか。
自分たちの正義を信じることが、なぜ異なる人々への暴力につながったのか。
そこを考えることが、十字軍という歴史を学ぶ大きな意味なのです。
