第1回十字軍は、1099年にエルサレムを占領し、聖地周辺に十字軍国家を建てました。しかし、その成功は長く続きませんでした。

押し込まれていたイスラム側がしだいにまとまって反撃する一方、十字軍側では国王や諸侯の対立が起こります。遠征の目的も、聖地の回復だけでなく、領土や政治、商業上の利益へと広がっていきました。

十字軍の流れを短くまとめると、第1回はエルサレムの占領に成功しましたが、第2回は失敗し、1187年にはサラディンがエルサレムを奪還しました。

第3回でもエルサレムを取り戻せず、第4回十字軍は同じキリスト教国であるビザンツ帝国を攻撃します。その後はエジプトや北アフリカへの遠征が行われましたが、長く続く成果は得られませんでした。

そして1291年、十字軍国家最後の大きな拠点アッコンが陥落し、聖地に築かれた十字軍国家はほぼ消滅しました。

十字軍関連年表

十字軍の回数には、研究者や資料によって数え方の違いがあります。この記事では第1回から第8回までを基本とし、1271~1272年の遠征は「第9回十字軍」と数える場合があることを補足しています。

十字軍が始まるまで

1071年

マラーズギルドの戦い

セルジューク朝がビザンツ帝国軍を破りました。小アジアの広い地域を失ったビザンツ帝国は、西ヨーロッパへ援助を求めるようになります。

1095年

教皇が十字軍を呼びかける

教皇ウルバヌス2世がクレルモン公会議で、東方のキリスト教徒を助け、聖地エルサレムを取り戻すための遠征を呼びかけました。

1096年

民衆十字軍が出発

隠者ピエールらに率いられた民衆が、正規の軍隊より先に出発しました。しかし統率が取れず、その多くが小アジアで壊滅します。

第1回十字軍と十字軍国家の成立

1096~1099年

第1回十字軍

西ヨーロッパの諸侯や騎士を中心とする軍が、コンスタンティノープルを経由して聖地を目指しました。

1098年

アンティオキアを占領

十字軍は長い包囲戦の末、シリア北部の重要都市アンティオキアを占領しました。周辺には十字軍の諸侯が支配する領土がつくられていきます。

1099年

エルサレムを占領

十字軍はエルサレムを攻め落としました。城内ではイスラム教徒やユダヤ教徒の住民が大量に殺害されました。

1100年ごろ

エルサレム王国が成立

エルサレム王国、エデッサ伯領、アンティオキア公領、トリポリ伯領などの十字軍国家がつくられました。

第2回十字軍とイスラム勢力の反撃

1144年

エデッサ伯領が滅亡

イスラム側の指導者ザンギーがエデッサを攻め落としました。第1回十字軍によってつくられた国の中で、最初に滅亡した十字軍国家です。

1147~1149年

第2回十字軍

フランス王ルイ7世とドイツ王コンラート3世が参加しました。しかし目的だったエデッサを取り戻せず、遠征は失敗します。

1148年

ダマスカス攻撃に失敗

第2回十字軍はダマスカスを攻撃しましたが、わずか数日で撤退しました。この失敗は、ヨーロッパに大きな失望を与えました。

1170年代

サラディンが勢力を拡大

サラーフ・アッディーン、通称サラディンがエジプトとシリアをまとめ、十字軍国家を取り囲む大きな勢力をつくりました。

1187年7月

ヒッティーンの戦い

サラディン軍が十字軍国家の主力を壊滅させました。十字軍国家はエルサレムを守るための軍事力を失います。

1187年10月

サラディンがエルサレムを奪還

エルサレムはサラディンに降伏しました。1099年のような大虐殺は行われず、多くの住民は身代金を支払って都市から退去することを認められました。

第3回十字軍とリチャード1世

1189~1192年

第3回十字軍

神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フランス王フィリップ2世、イングランド王リチャード1世が参加しました。「王たちの十字軍」とも呼ばれます。

1190年

フリードリヒ1世が遠征中に死去

フリードリヒ1世は遠征の途中、川を渡ろうとして亡くなりました。指導者を失ったドイツ軍の多くは帰国します。

1191年

アッコンを占領

十字軍は港町アッコンを占領しました。リチャード1世はアルスフの戦いでもサラディン軍を破り、地中海沿岸の支配を立て直します。

1192年

リチャード1世とサラディンが休戦

エルサレムはイスラム側が支配し、キリスト教徒の巡礼は認めるという協定が結ばれました。第3回十字軍はエルサレムを取り戻せないまま終わります。

目的が変わった第4回十字軍

1202~1204年

第4回十字軍

遠征軍は聖地へ向かわず、船を用意したヴェネツィアの事情や、ビザンツ帝国の皇位争いに巻き込まれていきました。

1204年

コンスタンティノープルを略奪

十字軍は同じキリスト教国であるビザンツ帝国の首都を占領しました。教会や宮殿から財宝が奪われ、その後ラテン帝国が建てられます。

1212年

少年十字軍と呼ばれる運動

フランスやドイツで、若者や貧しい人々を中心とする宗教運動が起こりました。ただし、参加者の多くが本当に幼い子どもだったのかは明らかではありません。

エジプトを狙った第5回十字軍

1217~1221年

第5回十字軍

エルサレムを直接攻撃するのではなく、イスラム側の重要拠点であるエジプトを征服し、交換条件として聖地を取り戻そうとしました。

1219年

ダミエッタを占領

十字軍はエジプトの港町ダミエッタを占領しました。イスラム側はエルサレムとの交換を提案しましたが、十字軍側は受け入れませんでした。

1221年

ナイル川の増水で撤退

カイロを目指した十字軍は、ナイル川の増水とイスラム軍の反撃によって追い詰められました。ダミエッタを返還し、エジプトから撤退します。

交渉でエルサレムを得た第6回十字軍

1228~1229年

第6回十字軍

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、大規模な戦争を行わず、イスラム側の君主との交渉を進めました。

1229年

休戦条約でエルサレムを得る

フリードリヒ2世は、エルサレム、ベツレヘム、ナザレなどの統治権を得ました。ただし、神殿の丘はイスラム側が管理しました。

1244年

エルサレムを再び失う

エルサレムは再びイスラム側の手に渡りました。これ以降、十字軍国家がエルサレムを支配することはありませんでした。

ルイ9世の第7回・第8回十字軍

1248~1254年

第7回十字軍

フランス王ルイ9世がエジプトへ遠征しました。港町ダミエッタを占領した後、カイロ方面へ進みます。

1250年

ルイ9世が捕虜になる

十字軍はマンスーラ周辺で敗れ、ルイ9世も捕虜となりました。高額な身代金を支払い、ダミエッタを返還して解放されます。

1270年

第8回十字軍

ルイ9世は北アフリカのチュニスへ遠征しました。しかし軍内で病気が広がり、ルイ9世も現地で亡くなりました。

1271~1272年

エドワード王子の遠征

後のイングランド王エドワード1世が聖地で軍事活動を行いました。この遠征を「第9回十字軍」と数えることもあります。

十字軍国家の終わり

1291年

最後の拠点アッコンが陥落

マムルーク朝が、十字軍国家最後の大きな拠点アッコンを占領しました。パレスチナとシリアに築かれた十字軍国家は、ほぼ消滅します。

年表からわかる十字軍の変化

第1回十字軍はエルサレムの占領に成功しました。しかし、第2回以降の十字軍は、第1回と同じ成功を繰り返すことができませんでした。

イスラム側では、ザンギーやヌール・アッディーン、サラディンのような指導者が現れ、それまで分かれていた勢力をまとまっていきます。一方、十字軍側では国王や諸侯が対立し、参加者の目的も信仰、領土、名誉、商業上の利益などに分かれていました。

第4回十字軍では、本来の目的だったエルサレムへ向かわず、同じキリスト教国であるビザンツ帝国を攻撃しました。この頃には、十字軍が聖地を解放するための遠征ではなくなっていたことを示しています。

その後はエルサレムを直接攻撃するのではなく、エジプトなどの重要地域を征服し、その土地と交換する形で聖地を取り戻す作戦が行われました。しかし遠征の多くは失敗し、十字軍国家の領土はしだいに小さくなっていきます。

約200年続いた十字軍国家の終わり

1291年にアッコンが陥落すると、パレスチナとシリアに築かれた十字軍国家は、ほぼ完全に消滅しました。第1回十字軍がエルサレムを占領した1099年から数えると、およそ200年後のことです。

十字軍という考え方そのものが1291年に消えたわけではありません。その後もオスマン帝国などを相手とする戦いに、「十字軍」という言葉が使われることがありました。

しかし、西ヨーロッパのキリスト教徒が聖地周辺に国を建て、ヨーロッパから送られる軍隊によって守る時代は、アッコンの陥落によって終わったのです。