ヨーロッパから受け継いだ音楽は、アメリカでどう変わったのか
アメリカ音楽と聞くと、ジャズ、ブルース、ミュージカル、映画音楽などを思い浮かべる人が多いかもしれません。
しかし、その一方にはヨーロッパからクラシック音楽を受け入れ、自分たちの音楽へ変えていった歴史もあります。
最初は教会で歌われる詩編や宗教音楽が中心でした。その後、移民とともにオペラやオーケストラが入り、19世紀になると音楽学校や大学でも専門的に音楽を学べるようになります。
さらに面白いのは、その先です。
アメリカの作曲家たちは、ヨーロッパの形式だけを使い続けたわけではありません。黒人霊歌、ブルース、ジャズ、各地の民俗音楽、都市の音、さらに新しい音響まで取り込みながら、「アメリカで作るクラシック音楽とは何か」を探すようになります。
この記事では、その変化が分かりやすいように、大きく四つの時期に分けて見ていきます。
- 17世紀から18世紀 植民地社会と宗教音楽
- 19世紀前半 ヨーロッパ音楽を演奏する場所が増える
- 19世紀後半 専門教育とアメリカ人作曲家の成長
- 20世紀 「アメリカの音」を探す時代
これは音楽史で決められた唯一の区分ではありません。長い変化を追いやすくするための分け方として考えてください。

目次
1. 17世紀から18世紀|最初の中心は教会で歌う音楽だった
現在のアメリカ合衆国につながるヨーロッパ系の音楽文化を見ると、ニューイングランド地方の宗教音楽が早い時期から重要な役割を持っていました。
1620年にプリマスへ渡ったピルグリムたちも、ヨーロッパから詩編歌の伝統を持ち込んでいます。
当時の清教徒社会では、現在のコンサートのように音楽そのものを楽しむことより、礼拝の中で神をたたえるために歌うことのほうが重要でした。
1640年の『ベイ・サーム・ブック』
1640年、マサチューセッツのケンブリッジで『ベイ・サーム・ブック』と呼ばれる詩編集が出版されました。
これは、現在のアメリカ合衆国にあたる地域で印刷された最初の本として知られています。
音楽史を調べていて少し意外なのは、アメリカ最初期の印刷文化と宗教的な「歌うための詩」がかなり近いところにあることです。
ただし、1640年の初版に現在の賛美歌集のような楽譜が付いていたわけではありません。楽譜が入るのは後の版になります。
18世紀になるとアメリカ生まれの作曲家が現れる
18世紀後半になると、ヨーロッパの曲を歌うだけではなく、植民地で生まれた人々自身が曲を書くようになります。
代表的な人物の一人が、ウィリアム・ビリングズです。
ビリングズはボストンでなめし革職人として働きながら、ほぼ独学で作曲を学びました。
1770年には『ニューイングランド・サーム・シンガー』を出版します。アメリカ生まれの作曲家による宗教音楽をまとめた初期の重要な曲集です。
もう一人が、フランシス・ホプキンソンです。
ホプキンソンは独立宣言の署名者の一人でもあり、歌曲を作曲しました。ジョージ・ワシントンに作品を献呈したことでも知られています。
この時代の音楽を見ると、まだ現在の意味で「アメリカ独自のクラシック音楽」が完成していたとは言いにくいでしょう。
それでも、ヨーロッパから持ち込まれた宗教音楽を、自分たちで歌い、自分たちで作曲する動きが始まっています。
2. 19世紀前半|教会の外にもクラシック音楽が広がる
19世紀に入ると、アメリカの音楽を取り巻く環境が大きく変わっていきます。
人口が増え、都市が成長し、ヨーロッパから多くの移民が渡ってきました。
特にドイツ系をはじめとするヨーロッパ系移民は、合唱、器楽演奏、音楽教育、演奏会などの文化を各地へ持ち込みます。
音楽を聞く場所も、教会だけではなくなりました。
ニューオーリンズでは早くからオペラが上演された
アメリカのクラシック音楽を考えるとき、北東部だけを見ていると見落としやすい都市があります。
ニューオーリンズです。
ニューオーリンズでは1796年に、記録に残る初期のオペラ上演がすでに行われています。
1808年にはセント・フィリップ劇場が開場し、ヨーロッパのオペラや舞台作品が演じられました。
現在のアメリカ音楽史ではニューヨークやボストンに目が向きやすいのですが、フランスやスペイン、クレオール文化の影響が強かったニューオーリンズでは、かなり早くから舞台音楽が栄えていました。
ヨーロッパの名曲を継続して聞ける社会へ
19世紀前半になると、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなど、ヨーロッパの主要な作曲家の作品がアメリカでも演奏される機会が増えていきます。
1842年には、ニューヨーク・フィルハーモニックが活動を始めました。
1846年には、ベートーヴェンの『交響曲第9番』がニューヨークでアメリカ初演されています。
ウィーンでの初演は1824年でした。20年ほどたって、大西洋の反対側でも同じ大規模な交響曲が演奏されたことになります。
このころになると、アメリカでは「ヨーロッパにこんな音楽がある」と知る段階から、オーケストラを組織して実際に演奏し続ける段階へ進み始めていたようです。
ゴットシャルクはアメリカの土地の音を作品へ入れた
この時代には、早くも「ヨーロッパとは少し違う音」を持つ作曲家も現れます。
ルイ・モロー・ゴットシャルクです。
1829年にニューオーリンズで生まれ、ヨーロッパで音楽を学び、国際的に活躍したピアニスト・作曲家でした。
彼の作品には、カリブ海地域やクレオール文化から受けた影響が見られます。
ヨーロッパ式のピアノ音楽を書きながら、その土地で耳にしたリズムを使う。後のアメリカ音楽で何度も現れる方法が、すでにこの時期に見えています。
スティーブン・フォスターはクラシックとは少し違う位置にいる
スティーブン・フォスターも19世紀アメリカ音楽を考えるうえで外しにくい人物です。
ただ、フォスターをそのまま「クラシック作曲家」と呼ぶと少し違和感があります。
フォスターが書いたのは、家庭や舞台で歌われる歌曲、パーラーソング、ミンストレル・ソングなどが中心でした。
それでも、アメリカで作られた歌が広い地域で共有されるようになったことを考えると、その後の芸術歌曲や大衆音楽につながる重要な存在です。
3. 19世紀後半|クラシック音楽を専門的に学ぶ場所ができる
南北戦争が終わるころから、アメリカでは音楽を専門的に教育する仕組みが急速に整っていきます。
ここは、前の時代との大きな違いです。
優れた音楽家になりたければ必ずヨーロッパへ行かなければならない、という状態から、少しずつアメリカ国内でも高度な教育を受けられるようになっていきました。
1865年、オバーリン音楽院が設立される
1865年には、オハイオ州でオバーリン音楽院が設立されました。
現在も続くアメリカ最古の音楽院として知られています。
その後も各地に音楽学校や音楽院が作られ、演奏家や作曲家を専門的に育てる仕組みが広がっていきます。
大学でも音楽が学問になる
ハーバード大学では、1871年に音楽が正式な学問分野として位置づけられました。
ジョン・ノウルズ・ペインが中心となり、ヨーロッパの音楽理論や作曲、音楽史を大学で研究する道が整えられていきます。
現在では大学に音楽学部や音楽学科があることは珍しくありません。
しかし19世紀のアメリカでは、音楽を大学で本格的に研究すること自体が新しい試みでした。
エドワード・マクダウェルと「アメリカ人作曲家」
エドワード・マクダウェルは、19世紀後半のアメリカを代表する作曲家の一人です。
ヨーロッパで教育を受け、ドイツ・ロマン派の強い影響を受けました。
この時期のアメリカ人作曲家には、ヨーロッパで学び、ヨーロッパで評価されてから帰国する人が少なくありません。
ここを見ると、アメリカ独自の音楽を作ろうとしていても、技術や評価の基準そのものはまだヨーロッパに強く依存していたことが分かります。
4. 「アメリカらしいクラシック音楽」とは何か
19世紀末になると、一つの疑問が強く意識されるようになります。
ヨーロッパと同じ交響曲や歌曲を書くだけで、アメリカの音楽と呼べるのだろうか。
この問題を考えるうえで重要な人物が、チェコ出身の作曲家アントニン・ドヴォルザークです。
ドヴォルザークとアメリカの音
ドヴォルザークは1892年にアメリカへ渡り、ニューヨークのナショナル音楽院の院長になります。
そこで、アメリカ独自の芸術音楽を作るなら、ヨーロッパの音楽をまねるだけではなく、アメリカに存在する音楽へ目を向けるべきだと考えました。
その中で重要な接点となったのが、ハリー・T・バーレイです。
ハリー・T・バーレイと黒人霊歌
バーレイはアフリカ系アメリカ人の歌手・作曲家で、ナショナル音楽院で学んでいました。
彼は、自分の家族から覚えた黒人霊歌をドヴォルザークに歌って聞かせたと伝えられています。
ドヴォルザークが1893年に作曲した『交響曲第9番《新世界より》』を考えるとき、この交流はよく取り上げられます。
ただし、『新世界より』を「バーレイから聞いた黒人霊歌をそのまま交響曲にした」と考えるのは単純すぎます。
ドヴォルザークは黒人霊歌だけではなく、先住民音楽への関心やアメリカ文学など、複数のものから新しいアメリカ音楽の可能性を考えていました。
バーレイ自身も、その後、黒人霊歌を演奏会で歌える歌曲として編曲していきます。
1917年に出版された『ディープ・リバー』の独唱用編曲は、その代表例です。
家庭や共同体の中で伝えられてきた歌が、クラシック音楽の演奏会でも歌われるようになったことになります。
5. 20世紀|アメリカのクラシック音楽が一つではなくなる
20世紀に入ると、「アメリカらしい音」を探す方法そのものが一つではなくなります。
広い大地や民謡を音楽にする人もいれば、黒人霊歌やブルースを使う人もいました。
ジャズをクラシック音楽と組み合わせる作曲家もいれば、これまで音楽とは考えられていなかった音そのものを作品にする人まで現れます。
ここから先は、「アメリカのクラシック音楽にはこの一つの特徴がある」とまとめることが難しくなります。
そのまとまりのなさ自体が、20世紀アメリカ音楽の特徴の一つだったように見えます。
チャールズ・アイヴズ|身近な音をぶつけ合わせる
チャールズ・アイヴズは、20世紀アメリカ音楽の中でもかなり変わった位置にいる作曲家です。
教会の賛美歌、行進曲、町で聞こえる音楽など、身近な音を作品の中へ入れました。
しかも、それらをきれいに一つへまとめるとは限りません。
異なる調やリズムの音楽を同時に鳴らすなど、後の現代音楽を思わせる大胆な方法も使っています。
ヨーロッパの形式を使って「アメリカらしい旋律を書く」という方向とは、かなり違います。
アーロン・コープランド|広い大地を感じさせる響き
アーロン・コープランドは、20世紀のアメリカを代表する作曲家の一人です。
『アパラチアの春』『ロデオ』『ビリー・ザ・キッド』などでは、広く開けた空間を感じさせるような響きが使われています。
現在、映画やドラマで「アメリカの大平原」を表現するときに聞く音楽にも、どこか似た雰囲気があります。
現在では自然に「アメリカ的」と感じる音の一部を、コープランドたちの作品が作っていったとも考えられます。
6. 黒人霊歌・ブルースが交響曲や合唱曲へ入っていく
ドヴォルザークの時代には、「黒人霊歌をアメリカの芸術音楽に生かせるのではないか」という議論がありました。
20世紀になると、アフリカ系アメリカ人の作曲家自身が、その仕事を本格的に行うようになります。
R・ナサニエル・デット
R・ナサニエル・デットは、1908年にオバーリン音楽院を卒業しました。
ヨーロッパのロマン派音楽などの作曲技法を学びながら、黒人霊歌の旋律や精神性をピアノ曲や合唱曲へ取り入れています。
代表作にはピアノ組曲『イン・ザ・ボトムズ』や、合唱と管弦楽による『The Ordering of Moses』があります。
黒人霊歌をそのまま保存するだけではなく、大規模なクラシック作品へ発展させようとしたところが特徴です。
ウィリアム・グラント・スティル
ウィリアム・グラント・スティルは、ブルースや黒人霊歌の要素を交響曲の中へ取り込んだ作曲家です。
1930年に書かれた『交響曲第1番《アフロ・アメリカン》』では、交響曲というヨーロッパの形式の中にブルースの響きが現れます。
1931年、この作品はロチェスター・フィルハーモニーによって演奏されました。
アフリカ系アメリカ人作曲家の作品が、アメリカの主要オーケストラによって演奏された歴史的な出来事でもあります。
フローレンス・プライス
フローレンス・プライスも、アメリカ音楽史で重要な作曲家です。
1933年、シカゴ交響楽団が『交響曲第1番 ホ短調』を初演しました。
アフリカ系アメリカ人女性の作曲した大規模作品が、アメリカの主要オーケストラによって演奏された最初の例とされています。
プライスの音楽には、ヨーロッパの後期ロマン派に近い交響曲の作り方と、黒人霊歌やアフリカ系アメリカ人の音楽文化が同じ作品の中にあります。
ここまで来ると、「ヨーロッパ音楽をアメリカへ移植した」という説明だけでは足りません。
ヨーロッパから受け継いだ形式そのものが、アメリカ社会の中にあった別の音楽によって作り変えられ始めています。
7. ジャズとクラシック音楽の境界も薄くなる
20世紀のアメリカでは、クラシック音楽とジャズを完全に分けることも難しくなります。
その代表的な人物が、ジョージ・ガーシュインです。
『ラプソディ・イン・ブルー』
1924年に初演された『ラプソディ・イン・ブルー』では、クラシック音楽の演奏会にジャズのリズムや和音、都市的な感覚が持ち込まれました。
冒頭のクラリネットの音を聞くだけでも、19世紀ヨーロッパの交響曲とはかなり違った世界が見えてきます。
ガーシュインはその後、『パリのアメリカ人』やオペラ『ポーギーとベス』なども書きました。
ジャズとクラシック、大衆音楽と芸術音楽という境界そのものが、アメリカではかなり曖昧になっていきます。
8. サミュエル・バーバーからエリオット・カーターまで
アメリカの作曲家全員が、民謡やジャズを取り入れたわけではありません。
サミュエル・バーバーのように、ヨーロッパ音楽の伝統に近い形式や、美しい旋律を重視した作曲家もいました。
『弦楽のためのアダージョ』は、その代表的な作品です。
ハワード・ハンソンもロマン的な響きを持つ作品を書きました。また、イーストマン音楽学校の運営を長く担い、アメリカ人作曲家の作品を演奏する機会を増やしています。
一方、ロジャー・セッションズ、ウォルター・ピストン、エリオット・カーター、ミルトン・バビットなどは、より複雑な現代音楽の技法へ進みました。
20世紀になると、「アメリカらしさ」を分かりやすい民謡やジャズの中だけに探す必要もなくなっていったようです。
9. ジョン・ケージ|音楽とは何かを問い直す
その流れをさらに先へ進めた人物が、ジョン・ケージです。
ケージは、ピアノの弦の間に物を挟み、通常とは違う音を出す「プリペアド・ピアノ」を使いました。
さらに、作曲家がすべての音を決めるのではなく、偶然によって演奏内容が変わる作品も作ります。
最も有名なのが『4分33秒』です。
演奏者は決められた時間、楽器を演奏しません。
その間に会場で聞こえる物音や、人が動く音、空調の音なども含めて「聞く」作品になっています。
ここまで来ると、アメリカ音楽がヨーロッパ音楽をどう受け継いだかという話から、音楽そのものをどこまで広げられるかという問題へ変わっています。
10. 作曲家だけではなく、音楽を支える制度も発達した
アメリカのクラシック音楽が広がった理由は、優れた作曲家が現れたからだけではありません。
オーケストラ、音楽学校、大学、財団、コンサートホールなど、音楽を続けるための仕組みが作られたことも大きな意味を持ちました。
アメリカの主要なオーケストラの多くは、政府が直接運営するのではなく、非営利団体として寄付、チケット収入、財団などの支援を組み合わせながら活動しています。
この仕組みには、アメリカ社会の特徴も見えます。
ヨーロッパのように宮廷や国家が音楽を支えてきた歴史とは違い、民間の寄付や財団、市民による支援の比重がかなり大きくなりました。
第二次世界大戦後には文化施設も増える
第二次世界大戦後には、大規模な文化施設の整備も進みました。
ニューヨークでは1962年にリンカーン・センターが開館します。
現在ではニューヨーク・フィルハーモニック、メトロポリタン歌劇場、ニューヨーク・シティ・バレエなど、さまざまな舞台芸術の拠点が集まっています。
1965年には、連邦政府の芸術支援機関である全米芸術基金、NEAも設立されました。
民間の寄付だけではなく、公的な資金も芸術活動を支える仕組みが作られていきます。
青少年向けの演奏会や音楽教育も広がり、クラシック音楽に初めて触れる入り口が増えていきました。
ヨーロッパの音楽を受け継いだだけでは終わらなかった
アメリカのクラシック音楽を最初から追ってみると、一つ気になる変化があります。
17世紀には、ヨーロッパから持ち込まれた宗教音楽を歌うことが中心でした。
19世紀になると、オペラやオーケストラの制度が整い、ヨーロッパの作品をアメリカ国内でも本格的に演奏できるようになります。
その次に現れたのが、「では、アメリカ人は何を書くのか」という問題でした。
その答えは一つではありませんでした。
ゴットシャルクはカリブ海やクレオールのリズムに目を向け、バーレイやデット、スティル、プライスは黒人霊歌やブルースを芸術音楽へ結びつけました。
コープランドは広いアメリカを思わせる響きを作り、ガーシュインはジャズとクラシックを近づけました。
アイヴズやケージは、もっと別の方向から「アメリカで音楽を作る」ということを考えています。
こうして見ると、アメリカのクラシック音楽は、ヨーロッパ音楽から独立して別の音楽になったというより、ヨーロッパから受け継いだ形式の中へ、アメリカ社会に存在したさまざまな音が入り続けた歴史と考えたほうがよさそうです。
そして同じ社会から、ブルース、ジャズ、ミュージカル、映画音楽なども発展していきました。
クラシック音楽だけを切り離して見るより、それらがどこで交わり、どこで別れていったのかを見ると、アメリカ音楽全体の流れがさらに分かりやすくなります。

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