この記事の要約
1958年、売春防止法の全面施行によって赤線はなくなりました。しかし、そこで働いていた10万人を超える女性の生活まで同時に解決したわけではありません。厚生白書や国会会議録などをもとに、赤線を離れた女性たちがその後どこへ行ったのかを追ってみます。

1958年4月1日、売春防止法が全面施行され、それまで日本各地に存在していた「赤線」と呼ばれる地域は姿を消しました。前借金などによって女性を縛り、売春から業者が利益を得る仕組みをなくしていくことには意味があったと思いますし、赤線をそのまま残しておけばよかったとも思いません。

ただ、ここで少し気になったことがあります。赤線という場所を法律でなくすことはできますが、そこで働き、生活していた女性まで消えるわけではありません。翌日からも食事は必要ですし、住む場所も必要です。では、赤線をなくしたあと、その女性たちはいったいどこへ行ったのでしょうか。

当時は現在以上に、女性が一人で十分な収入を得られる仕事が限られていました。売春を禁止して「これからは別の仕事をしてください」と言ったところで、それだけで生活が成り立ったのだろうかと考えてしまいます。調べてみると、「赤線がなくなったことで女性たちは救われた」と簡単には言えない数字がいくつも出てきました。

赤線が消えたあと女性たちはどこへ行ったのかをまとめたグラレコ
1958年の赤線廃止後、女性たちがどこへ向かったのかをまとめた図

 

売春防止法には1年間の準備期間があった

売春防止法は1956年に成立し、1957年4月から女性の保護などに関する規定が施行され、その一年後の1958年4月1日に刑事規定を含めて全面施行されました。刑事規定を一年遅らせたのは、その間に女性の「保護更生」や業者の転業を進めるためでした。

政府も、「明日から赤線を閉めるので、あとは自分で何とかしてください」と考えていたわけではありません。婦人相談所や婦人相談員を置き、保護施設を作り、更生資金の貸付なども行っており、赤線がなくなった後の女性の生活について一応は準備していました。

しかし、そのために用意された受け皿の規模を見ると、かなり小さなものだったように思えます。当時、赤線などの集娼地域は全国に約1,900か所あり、関係業者は約4万人、そこで働く女性は10万人を超えていたとされています。それに対して、女性を収容する保護施設は全国63施設で、定員は約2,400人ほどです。

もちろん、赤線で働いていた女性全員が保護施設へ入る必要があったわけではありません。それでも、10万人を超える女性がいたところに約2,400人分の施設を用意して、それで十分な受け皿となることができたでしょうか。更生資金の貸付も1957年度で459件にとどまっていました。

出典:厚生省『厚生白書 昭和33年度版』

政府も売春の背景に貧困があることを分かっていた

さらに気になったのは、当時の政府も、女性たちがなぜ売春をしていたのかを、まったく分かっていなかったわけではないことです。1957年の売春事犯を調べた資料では、生活苦を直接の理由にしていた女性が40%以上いました。

さらに広い意味での経済的理由まで含めると約70%に達しており、厚生省自身も、売春の基本的な原因には貧困があることを認め、社会保障を充実させる必要があるとしています。そうなると、むしろ政府は売春をする女性の問題について、それなりの情報は持っていました。

ただ、原因を把握していたことと、それに十分な対策を取れていたことは別の話です。

ここで、どうしても疑問が出てきます。生活に困り、学歴もなく、特別な技能もなく、普通に働いて得られる収入では生活が難しいために売春へ行った女性に、「この仕事はなくなります。一年間あるので別の仕事をしてください」と言って、本当に何とかなるのでしょうか。

一年程度で簡単に別の仕事を見つけ、生活を立て直せる女性ばかりだったとは考えにくいように思います。

もちろん事情は人によって違いますが、政府自身が経済的な理由を持つ女性が非常に多いことを把握していたのであれば、その事実を、仕事を失った後の生活支援にもっと強く反映できなかったのだろうかと思います。

出典:厚生省『厚生白書 昭和33年度版』

半分以上が「帰郷」していた

赤線がなくなる前に転廃業した女性のうち、厚生省がその後を把握できた46,890人について調査した数字があります。そのうち50.7%が「帰郷」しており、さらに約3割が就職または結婚したとされています。

数字だけを見ると、半分は故郷へ帰り、残りも結婚したり仕事を見つけたりしたので、それなりに生活を立て直せたようにも見えます。しかし、この「帰郷」という言葉には少し引っ掛かりがあります。

そもそも地方で十分に生活できていたなら、都市部まで出てきて売春をしていなかった人もいたはずです。田舎へ戻ったところで仕事があるとは限りませんし、家族との関係が悪くて家を出た人もいたでしょう。戦争が終わってまだ十数年しかたっていないため、両親や家そのものを失っていた女性もいたと考えられます。

仮に実家へ帰ることができたとしても、「故郷へ戻った=生活が安定した」と考えるのは、あまりにも短絡的でしょう。

実際、厚生省自身も、帰郷した女性や結婚した女性の中で、将来について十分な見通しを持っていた人は必ずしも多くなかったとしています。

この46,890人の統計では、「帰郷」はその時点での行き先として記録されています。しかし、それだけでは、その後も故郷で安定して暮らすことができたのかまでは分かりません。

行政上は「帰郷」という一つの項目で整理できても、当たり前ですが本人の人生はそこから続いています。帰る場所があることと、そこで生活できることは、まったく別の話だったのではないでしょうか。

出典:厚生省『厚生白書 昭和33年度版』

吉原を離れた933人はどこへ行ったのか

もう少し具体的な数字もあります。

1958年2月、売春防止法の全面施行を目前にした国会で、浅草警察署長が吉原の状況について説明しています。1957年4月には吉原に1,308人の従業女性がいましたが、そのうち1958年2月までに933人が吉原を離れていました。

警察が把握していた行き先を見ると、帰郷277人、「結婚する」として転出267人、「自活する」として転出170人、飲食店の女中89人、女中48人、キャバレーの女給27人、無断転出22人、いわゆる「二号」12人などとなっています。

そのほか工員9人、店員6人、事務員1人、学生1人、死亡1人も記録されています。こうして見ると、現在の感覚でいう一般企業へ就職して、そのまま安定した生活へ移った女性ばかりだったわけではないことが分かります。

飲食店や女中、キャバレーなど、それまでの仕事に比較的近い場所へ移った女性もかなり多いように感じます。しかも「結婚」とされている中には、いわゆるヒモとの関係を結婚と称している例もあると、警察側自身が説明しています。

帰郷した女性についても、故郷の人たちとうまくいかないという話が出ていました。そうなると、「帰郷」「結婚」「就職」という行政上の言葉だけでは、その人が本当に安定した生活を得られたのかは分かりません。

出典:国立国会図書館「第28回国会 参議院法務委員会 第9号」1958年2月25日

吉原を出て、そのまま街娼になった女性もいた

さらに気になる記録もあります。

浅草警察では、吉原を離れた女性が近くの山谷などで街娼になっていないかを調べています。わずか3日間の調査でも、吉原から来たと答えた街娼が7人確認されました。

警察側は、職務質問を嫌って逃げる女性もいるため、実際にはもっといるだろうと考えていました。これはかなり分かりやすい例で、赤線をなくしたからといって、そこで行われていた売春までその瞬間に消えたわけではありません。

赤線という見えやすい場所がなくなり、その一部が別の場所へ移った。女性が必要としていたお金も、客側の需要も消えたわけではないので、ある意味では当然の流れだったのでしょう。

そう考えると、赤線廃止によって売春そのものをなくしたというより、少なくとも一部では、より見えにくい場所へ移ってしまった面があったのではないかと思います。

出典:国立国会図書館「第28回国会 参議院法務委員会 第9号」

その後の女性を追跡した調査も残っていた

さらに調べていくと、労働省婦人少年局が1958年7月に行った追跡調査がありました。以前に売春をしていた女性のうち、所在を確認できた374人について、その後どのような生活をしていたのかを調べています。

調査時点では、結婚生活149人、職業生活140人、家庭復帰66人、自営業13人、施設入寮5人、その他22人となっていました。複数に当てはまる人もいるため単純には合計できませんが、数字だけを見ると、かなりの女性が新しい生活へ移れたようにも見えます。

ところが、売春をやめてから調査時点までの経過を見ると印象が変わってきます。最初に移った生活をそのまま続けていた女性は約4割で、残りの約6割は、一度以上仕事や生活の状態を変えていました。

理由としては、給料が少なく生活できない、職場の人間とうまくいかない、勤め先が閉店した、過去を知られて居づらくなった、働いている店で再び売春に近いことを勧められた、実家へ戻っても自分の居場所がない、といった事情が記録されています。

これを見ていると、「赤線を辞める→就職する→新しい人生が始まる」というほど簡単な話ではなかったようです。赤線を出て仕事をしてもうまくいかず、また別の場所へ移り、男性と暮らしたり、新しい仕事を探したりしながら何とか生活していた女性が多かったように見えます。

調査時点で現在の生活に不満を持っていた女性も約3割いました。「売春をやめた」という一点だけを見れば成功に見えても、その後の生活まで追うと、かなり不安定だった人も少なくなかったようです。

出典:女性労働協会「女性労働の歴史」行政資料デジタルアーカイブ『婦人の更生に関する事例』
『婦人の更生に関する事例』PDF

京都では住所不定者を収容する施設で女性が増えていた

影響はもちろん、東京だけではありません。

京都市にも、住所不定者や生活に困った人を一時的に収容する中央保護所があり、1957年には年間入所者が1万人を超え、そのうち女性の割合が4割近くまで上昇しました。

この施設について調べた研究では、女性が増えた理由の一つとして、1957年から売春防止法の保護関係の規定が施行され、遊郭を離れた女性が収容された影響が考えられるとしています。

もちろん、増えた女性全員が元赤線の女性だったわけではなく、施設の制度変更など、ほかの理由もありました。それでも、遊郭を離れた女性の一部が、こうした保護施設へ収容されていたことはうかがえます。

「赤線を離れた女性は故郷へ帰りました」とだけ考えるより、実際には帰郷、結婚、接客業、街娼、保護施設など、かなり多くの方向へ分散していたというのが現実だったのではないでしょうか。

出典:佛教大学研究紀要掲載資料「戦後京都市における『住所不定者』対策と更生施設」

赤線は消えたが、売春まで消えたわけではなかった

売春防止法が全面施行されてから3年後の1961年、厚生白書には興味深い記述があります。

法律ができる前には、赤線などを含めて15万人近い売春女性がいたと推定されていましたが、その女性たちが完全に姿を消したわけではないとしています。

売春関係の検挙件数は減っているものの、それが売春そのものの減少を意味するとは限らず、方法や手段が巧妙になって、警察が把握しにくくなった可能性もあるとしています。つまり、厚生省自身も「赤線が消えた=売春が消えた」とは考えていなかったわけです。

これは、思っていたよりも複雑な話になります。赤線には人身売買や借金による拘束、業者による搾取など大きな問題がありましたから、その問題をなくす必要は当然あったと思います。

ただ、その問題をなくすことと、そこで働いていた女性の生活基盤まで一緒になくしてしまうことには、もう一歩踏み込んだ対応が必要だったのではないでしょうか。

出典:厚生省『厚生白書 昭和36年度版』

赤線をなくすことと、女性を救うことは同じだったのか

政府も、売春の背景に貧困があることを知っていました。それでも10万人を超える女性が働いていた世界を短期間で閉じ、その後に用意できた保護施設は約2,400人分でした。

その足りない部分を埋めたのは、行政だけではありませんでした。実家であり、結婚相手であり、飲食店やキャバレーであり、芸妓の仕事であり、場合によっては街娼など別の形の売春だったのでしょう。

行政の統計では「帰郷」「結婚」「就職」と書けば、その人の行き先は一応決まります。しかし本人の人生から見れば、そこは終わりではありません。むしろ、そこから先の方が長かったはずです。

赤線という場所は消えましたが、そこで暮らしていた女性が必要としていたお金も、住む場所も、人間関係も、その日に消えたわけではありません。

そう考えると、問題のある制度をなくすことと、その制度の中で生きている人を救うことは、別に考えなければならないのではないかと思います。

そして、このことを調べていると、もう一つ気になる数字がありました。赤線が完全に消えた1958年、日本では女性の自殺者が前年より800人以上増えています。

もちろん、同じ年だったというだけで、売春防止法が原因だったとは言えません。ただ、仕事や生活する場所を失った女性がこれだけいた時期と重なっていると、少し気になってしまいます。

1958年、なぜ女性の自殺者は増えたのでしょうか。

次は、この数字についてもう少し調べてみたいと思います。

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1958年、なぜ女性の自殺者は増えたのか――赤線廃止との関係を調べてみた
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参考資料

※当時の行政資料や国会会議録には、「売春婦」「要保護女子」「二号」など、現在では一般的ではない表現が使われています。本文では史料の意味を変えない範囲で、現在の読者にも読みやすい表現へ置き換えています。