この記事の要約
地域や職場、親族など、同じ人と繰り返し関わる「フィールド」が弱くなったことで、私たちは人間関係や安心、承認まで市場から買うようになったのではないでしょうか。共同体から自由になった一方で、お金への依存は強くなりました。その変化が格差や孤立、道徳、政治の短期化にまでつながっているのかを考えます。

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「女性を守る」という法律は誰のためなのか――AV新法と赤線廃止から考える
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前の記事では、赤線廃止とAV新法を比べながら、「人を守ること」と「本人の選択を尊重すること」は、いつでも同じ方向を向くのだろうかということを考えました。

その中で、性を使ってお金を稼ぐことについても考えましたが、そこから別の疑問が出てきました。現在の日本では、最低限の食事や住居を確保するだけではなく、人間関係や居場所、承認、楽しみを得るためにも、かなりのお金が必要になっています。

ホストクラブ、推し活、配信、マッチングサービスなどを見ていると、人が欲しがっているのは物だけではありません。自分を覚えていてくれる人、話を聞いてくれる人、自分を必要としてくれる場所といった、人間関係に近いものまでお金で買う場面が増えています。

なぜ、こうなったのでしょうか。

昔は「人間関係が生まれる場所」が先にあった

ここで私は、地域や学校、職場、親族など、同じ人と繰り返し関わる場所を「フィールド」と呼んで考えてみたいと思います。学術的な意味で厳密に定義された言葉としてではなく、価値観やルールをある程度共有し、そこにいるだけで人間関係が生まれる場所という意味です。

昔の地域社会では、近所に住んでいるというだけで同じ人と何度も顔を合わせました。学校でも職場でも、気の合う人だけを選んで付き合うことは難しく、好き嫌いにかかわらず、ある程度固定された人間関係の中で暮らすことになります。

そこには当然、面倒なこともありました。しかし同時に、「友達を作ろう」と特別な努力をしなくても、同じ場所に繰り返しいることで関係ができていきます。現在よりも、人間関係を一から個人で作らなくてもよい仕組みがあったのではないでしょうか。

共同体は、たくさんの機能をまとめて持っていた

地域や親族のつながりは、単に話し相手を作るだけではありませんでした。子どもを少し見てもらう、病気になれば食べ物を届けてもらう、仕事を紹介してもらう、結婚相手を探してもらう、困ったときには一時的に住む場所を借りるといったことも、人間関係の中で行われていました。

高齢者の世話や子育て、災害時の助け合い、仕事探し、相談、娯楽など、現在なら別々のサービスになっているものが、一つの共同体の中にまとめて存在していたとも言えます。

もちろん、これを「昔は無料だった」と考えるのは少し違います。お金を払わない代わりに、自分も他人を手伝わなければならず、地域の行事に参加し、親族の面倒を見て、時には気の合わない人とも付き合う必要がありました。

共同体のサービスは無料だったのではなく、人間関係によって支払っていたと考えた方が近いのかもしれません。

市場は私たちを共同体から自由にした

現在は、共同体が担っていた多くのことをお金で買うことができます。料理を作ってもらう、子どもを預ける、高齢者を介護してもらう、遠くまで車で運んでもらう、仕事を紹介してもらう、結婚相手を探すといったことまでサービスになりました。

これは悪い変化ではありません。むしろ、かなり大きな自由を生んだと思います。親族と仲が悪くても介護サービスを利用できますし、地域に嫌われても別の場所で仕事を探せます。結婚相手を親や地域に決めてもらう必要もありません。

昔なら共同体から外されることが、生きていくことそのものを難しくした場合もあったでしょう。市場からサービスを買えるようになったことで、人は家族や地域から離れても生きられるようになりました。

ただ、その自由には一つ条件があります。

お金があることです。

人間関係への依存が減り、お金への依存が増えた

昔は家族や地域に頼らなければ生活できなかったものが、現在はお金を払えば自分で選ぶことができます。その意味では、人間関係への依存は確実に減りました。

しかし、依存そのものがなくなったわけではありません。人間関係に頼らなくてよくなった代わりに、その機能を市場から買うため、お金への依存が強くなったとも考えられます。

病気になっても近所の人に食事を作ってもらわなくてよい代わりに、宅配サービスを使うお金が必要です。家族が高齢者を介護しなくてもよい代わりに、介護サービスを維持する費用が必要になります。

友人や親族に仕事を紹介してもらわなくても求人サイトを利用できますし、地域の人に結婚相手を紹介してもらわなくてもマッチングサービスを使えます。自由になった部分のかなりのものを、お金が支えているわけです。

承認や居場所まで市場から買うようになったのか

さらに現在では、生活に必要なサービスだけでなく、承認や居場所に近いものまで市場化しているように見えます。

ホストクラブやコンセプトカフェ、配信、推し活などでは、単に商品を買っているだけではありません。「自分のことを覚えていてくれる」「名前を呼んでくれる」「応援する対象がいる」「同じものを好きな仲間がいる」という体験も一緒に買っています。

もちろん、こうした文化そのものが悪いとは思いません。好きなものを応援することで生活が楽しくなることもありますし、オンラインでしか出会えなかった友人ができることもあります。

ただ、以前なら家族や地域、学校、職場などの中で自然に得られていた「自分の居場所」や「自分を知っている人」が減れば、その不足を市場から買いたくなることはあるのではないでしょうか。

人間関係そのものが商品になったというより、人間関係が持っていた機能の一部が商品になったと考える方が近いのかもしれません。

「足るを知る」ことが難しくなった

ここで、「足るを知る」という考え方も気になってきます。この言葉を「貧しい人は贅沢をするな」という意味で使うなら、かなり危険だと思います。社会の上にいる人が、下にいる人へ「今の生活で満足しろ」と言うことにもなりかねません。

しかし、自分自身で「自分にはここまであれば十分だ」と決めることには、別の意味があります。どこまでお金を稼げば満足なのか、どこまで物を持てば十分なのかを自分で決められなければ、必要なお金には上限がなくなります。

昔の比較対象は、同じ村や同じ職場の人だったのかもしれません。現在はSNSを開けば、世界中の裕福な人、美しい人、成功した人、楽しそうな人がいくらでも見えます。

比較する範囲が世界全体に広がれば、「自分には足りない」と感じる対象も無限に増えていきます。そして市場側には、人が「まだ足りない」と思い続けてくれた方が商品を売りやすいという面もあります。

昔の貧しい共同体は、本当に助け合いの精神が強かったのか

ここで昔の共同体を美化するのも違うと思います。「昔の人は心が豊かだった」「貧しくても助け合っていた」と言われることがありますが、それだけではないでしょう。

貧しい社会では、自分一人では生きられないため、他人を助けることが自分の利益にもなります。今日は隣の家の田植えを手伝い、来週は自分の家を手伝ってもらうという関係なら、助け合いは道徳であると同時に生活上の合理性でもあります。

つまり、昔の人が現在より道徳的だったから助け合ったというより、助け合わなければ自分も生きられない社会だったという面も大きかったのではないでしょうか。

そして、共同体には助け合いと同時に監視もありました。誰が何をしたのかがすぐに知られ、結婚や職業、家族の役割に口を出されることもあります。共同体は保険であると同時に、かなり強い拘束でもあったわけです。

一番危険なのは「共同体もない、お金もない」状態かもしれない

ここまで考えると、社会の変化を大まかに三つに分けることができます。

共同体とお金の関係

昔の社会:お金は少ないが、共同体がある
高度成長以降:共同体は弱くなるが、お金が増える
これからの危険:共同体も弱く、お金も十分にない

共同体が弱くても、十分なお金があれば必要なものを市場から買えます。むしろ面倒な人間関係から離れ、自分の好きな生活を選べるので、かなり自由です。

しかし、共同体から自由になったあとに、お金まで失ったらどうなるのでしょうか。家族にも地域にも頼れず、必要なサービスを買うこともできない。これは昔の貧困とは少し違った、かなり孤立した貧困になる可能性があります。

私が気になるのは、日本だけでなく多くの先進国が、この「共同体は弱くなったのに、すべての人がお金を十分に持てるわけでもない」という状態へ進んでいるのではないかということです。

道徳は「同じ人と何度も会う社会」で生まれやすいのではないか

共同体が弱くなることは、道徳や信頼にも影響するのではないかと思います。

同じ地域でずっと暮らすなら、今日誰かをだまして得をしても、明日からその人や周囲の人に信用されなくなります。商売でも「あの店は信用できない」と知られれば、長期的には損をします。

ゲーム理論でいう「反復ゲーム」に近く、同じ相手と何度も関わる環境では、目の前だけ得をするより、信用を守った方が長期的には自分の利益になります。

そう考えると、道徳というものの一部は「良い人間になりなさい」という教育だけではなく、長い時間をかけて同じ人と関係を続ける方が得になる社会構造によって支えられていたのではないでしょうか。

一度しか会わない相手なら、短期的な利益が強くなる

反対に、今日会った人と二度と会わない社会なら、相手から信用を失うことによる損失は小さくなります。匿名の相手との取引や、一度限りの関係が増えるほど、「長期的な信用」より「今回どれだけ得をするか」が重要になる場面も増えるでしょう。

もちろん、都市に住む人やネットを使う人の道徳が低いという話ではありません。法律、レビュー、企業ブランドなど、共同体とは別の方法で信頼を作る仕組みも発達しています。

ただ、社会全体として関係が短期化すれば、「今ここで自分が得をすること」と「20年後に社会全体が良くなること」の距離が広がっていく可能性はあるように思います。

格差が広がると、社会を維持する理由まで変わるのではないか

ここに格差の問題も加わります。

お金のある人は、公的な仕組みが弱くなっても自分で代替できます。公立学校に不満があれば私立学校へ行き、公共交通が不便なら車を使い、治安が気になれば安全な地域へ移り、高齢者介護も民間サービスを利用できます。

つまり、所得が高いほど「社会全体の公共サービスが良くなければ自分も困る」という状態から離れることができます。

反対に、お金のない人ほど公教育、公共交通、公的医療、福祉などから離れることができません。社会全体の仕組みが弱くなったとき、その影響を最も強く受けるのは、そこから退出することのできない人になります。

格差の問題は、単に「持っているお金の差」だけではなく、社会の共通部分から退出できる人と、退出できない人の差にもなっていくのかもしれません。

共同体は「自分の利益」を未来まで伸ばしていたのかもしれない

地域や家族とのつながりには、もう一つ役割があったのではないかと思います。それは、自分の利益を自分一代で終わらせず、未来まで伸ばすことです。

自分が死んだあとも子どもが同じ土地に住み、孫も同じ地域で暮らすと思えば、学校を良くすること、道路や堤防を整備すること、森林や農地を守ることは、遠い未来の話ではありません。

自分自身は完成した道路を使わなくても、子どもや孫が使うなら、それも広い意味では自分の利益として考えることができます。

しかし家族とのつながりが弱く、地域にも所属せず、いつどこへ移るか分からない社会では、20年後、50年後の地域の利益を自分の利益として感じることが難しくなるのではないでしょうか。

未来とのつながりが弱くなると、政治も短期化する

ここから政治の問題にもつながってきます。

災害対策、インフラ整備、教育、森林管理、基礎研究などは、今お金を使っても効果が出るのは何年も先です。場合によっては、投資した世代自身が利益を受け取れないものもあります。

一方、給付金や減税などは効果がすぐに見えます。もちろん、必要な給付や減税もあります。ただ、政治家が次の選挙で評価され、市民も「今、自分に何をしてくれるのか」で政治を判断するようになれば、長期的な投資はどうしても不利になります。

20年後に大きな利益を生む政策より、今月1万円を受け取れる政策の方が実感しやすいからです。

将来の社会と自分とのつながりが弱くなるほど、「未来のために現在の負担を受け入れる」という判断も難しくなるのではないでしょうか。

政治が株式会社のような判断をするようになる

ここまで考えていると、現在の政治が少し株式会社に近づいているようにも見えてきます。

企業は利益を出さなければ存続できません。経営者は売上や利益を示し、株主から短期間で成果を求められます。それ自体は企業として当然の仕組みです。

しかし政治まで同じように、支持率や次の選挙という短期的な数字を中心に判断するようになると、利益の出ないものが後回しになります。

地方の医療、障害者支援、生活困窮者支援、災害対策、文化財、森林、基礎研究、教育などは、企業のように「利益が出るか」で判断したら維持できないものがかなりあります。

国や自治体の役割の一つは、採算が取れなくても社会に必要なものを維持することだったはずです。

政治が市民を顧客のように扱い、市民も政治を「自分にどれだけサービスを返してくれるか」で評価するようになれば、政治そのものが短期的なサービス業に近づいていくのかもしれません。

だから昔の共同体へ戻ればいい、とは思わない

ここまで共同体が持っていた機能を書いてきましたが、だから昔の地域社会へ戻ればよいとは思いません。

昔の共同体は、人を助ける一方で、人を縛りました。女性の生き方、結婚、職業、家族の役割などを地域や親族が決めることも多く、そこから外れた人が生きにくい社会でもありました。

これまで赤線廃止やAV新法について考えてきたのも、結局は同じ問題だったのかもしれません。人を守る仕組みは必要ですが、守ることを理由に本人の選択を奪えば、別の不自由が生まれます。

共同体についても同じで、助け合いを取り戻すために、昔の強制的な人間関係まで復活させることはできません。

市場だけに任せても解決しない

反対に、「すべて市場で買えばいい」という社会にも限界があります。

お金を持っている間は便利ですが、失業、病気、老後などでお金を失った瞬間、それまで買っていた人間関係やサービスまで失う可能性があります。家族や地域との関係まで弱ければ、その人を受け止める場所がなくなります。

市場は、人間関係の面倒な部分から私たちを自由にしてくれました。しかし同時に、共同体が無意識のうちに担っていた多くの機能を、個人が自分でお金を払って用意しなければならない社会を作ったとも言えます。

共同体から自由になるということは、共同体がしていた仕事まで自分で引き受けることだったのかもしれません。

私たちはどこへ向かうのか

赤線について調べ始めたとき、最初に気になったのは「制度をなくしたあと、そこで暮らしていた女性はどうなったのか」ということでした。

そこから1958年の自殺者数を調べ、AV新法について考え、最後には共同体とお金の話まで来てしまいました。一見すると別々の問題に見えますが、私には少しずつつながっているように思えます。

社会は人を古い共同体や制度から自由にしてきました。それは大きな進歩だったと思います。しかし、以前の制度や共同体が担っていた生活、仕事、人間関係、承認、安心まで同時に消えるわけではありません。

それらを市場が代わりに提供するようになった結果、私たちは人間関係への依存を減らすことができました。しかし、その代わりに「お金がなければ自由を維持できない」という別の依存を強めたのではないでしょうか。

孤独、格差、消費の拡大、政治の短期化といった問題も、それぞれ別の問題として扱われています。しかし、固定されたフィールドが薄くなり、そこで提供されていたものを一つずつ市場から買うようになった結果だと考えると、同じ変化の違う側面にも見えてきます。

昔の共同体に戻ることはできませんし、戻るべきだとも思いません。一方で、お金さえあればすべて解決できる社会も、すべての人がお金を持ち続けられなければ成り立ちません。

そうなると、これから必要なのは、昔の共同体をそのまま復活させることでも、市場にすべて任せることでもなく、人を縛りすぎず、それでもお金がなくなったときに一人にしない関係をどう作るのかということなのかもしれません。

その答えは、まだよく分かりません。

ただ、自由になるということは、何にも依存しなくなることではなく、何に依存するのかを変えていくことなのではないか。ここまで調べてきて、今のところ私はそんなふうに考えています。

※本文で使っている「フィールド」は、地域・家族・学校・職場など、同じ人と繰り返し関わり、一定の価値観やルールを共有する場所をまとめて考えるために使用した表現です。

参考資料・参考文献

  • 内閣府『平成19年版 国民生活白書―つながりが築く豊かな国民生活』
    家族、地域、職場などにおける人との「つながり」の変化や、つながりと生活満足度、精神的な安らぎとの関係について参考にしました。
    国立国会図書館サーチ
  • 内閣府国民生活局『ソーシャル・キャピタル:豊かな人間関係と市民活動の好循環を求めて』
    「信頼」「規範」「ネットワーク」から成るソーシャル・キャピタルの考え方や、地域社会、市民活動、人間関係との関係を考える際に参考にしました。
    内閣府 NPOホームページ
  • 内閣府経済社会総合研究所・滋賀大学『ソーシャル・キャピタルの豊かさを生かした地域活性化』
    地域の信頼やネットワーク、市民活動などが地域社会に果たす役割について参考にしました。
    内閣府 経済社会総合研究所
  • 内閣府「孤独・孤立の実態把握に関する全国調査」
    現在の日本における孤独・孤立、人とのつながりの実態を確認するために使用しました。
    内閣府
  • 内閣府『平成23年版 高齢社会白書』「社会的孤立の実態」
    地域のつながりを必要と感じる人と、実際につながりを感じている人との違いや、都市部・一人暮らしにおける社会的孤立について参考にしました。
    内閣府
  • OECD『Social Connections and Loneliness in OECD Countries』
    OECD各国における社会的つながり、孤独、社会的支援の変化や、対面交流の減少、デジタル交流の増加について参考にしました。
    OECD
  • Stanford Encyclopedia of Philosophy「Prisoner’s Dilemma」
    同じ相手と繰り返し関わる「反復ゲーム」では、一度だけの関係とは違い、将来の協力や報復を考えることで協力行動が成立しやすくなるという考え方を確認するために使用しました。
    Stanford Encyclopedia of Philosophy
  • OECD『Governance for Youth, Trust and Intergenerational Justice』
    政治における短期的な判断と、将来世代の利益を政策へ反映させる「世代間公正」の問題について参考にしました。
    OECD